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 次の日は雲ひとつ無い快晴だった。


 父に言ったとおり、アンドウは午前九時ぴったりにやって来た。その日はスーツ姿ではなく、神主装束を着ていた。ご丁寧に、烏帽子まで着けているのである。神主装束は夏場としてはかなり暑いらしく、アンドウは既に汗を額に光らせていた。


 父と私はアンドウが運転してきた車に乗り込んだ。父は助手席、私は後部座席に座った。暑いというのに、なぜか父はTシャツの上に半袖のYシャツを着込んでいた。


 栃木県南部、関東平野の北端の、海も山も無い平野が続く道を、車は走った。さすがに車内の空気は重苦しく、沈黙が漂っていた。一、二度、場を和ますためにアンドウが父に話しかけたが、父は「ああ」とか「そやな」と短く答えただけで、会話は途切れた。


はじめ、藤岡町から佐野市街に続く住宅街を通っていた車は、やがて街中を抜けて、水田が広がる田園風景の中へ出た。田には稲が青々と伸びて、その稲が見渡す限り360度、続いているのである。その稲の海原に、小島が浮かぶように、ところどころ民家が建っていた。


出流原弁天池は、そんな水田地帯の中にあった。田んぼの海の中に、小さな山が見えてきたと思ったら、その山の手前が百畳ほどの池になっていて、つまりそこが弁天池なのだった。


アンドウは、弁天池の手前を通る細道に車を停めた。細道には「立ち入り禁止」と書かれたプラカードが取り付けられている、ロープが張ってあった。アンドウはそのロープのそばに車を停めると、車を降り、ロープを、結びつけてあった細い木の柱からほどいた。そして私と父に車を降りるよう声をかけた。


車を降りると、湿気の少ないカラッとした暑さと、セミの鳴き声のオーケストラが私の身を包んだ。その、肌を刺すような真夏の午前の陽射しと、セミの声を、私は今でもはっきり覚えている。


アンドウの先導で、私たち三人はロープの張ってあった先へと進み、池のほとりに立った。


「タカシ君は、ここで待ってて、ね。イイヅカさん、良いですか」


「ああ」


そう言うとアンドウは父を連れて池のふちをぐるりと半周し、向こう側へ行った。そこは池のふちのすぐ奥が山になっていて、木々が生い茂っている。その木々の手前までアンドウは行き、


「では、ここで。お願いします」


と言ってそこに父を立たせ、自分は小走りで私の隣まで戻ってきた。


   *


 それから数十分が経った。何も起こらなかった。池はセミの声を別にすればひっそりと静まりかえっている。私ははじめこそ緊張して、父のほうを見てハラハラしていたが、間延びした空気にそのうちすっかり飽きてしまった。


つまらないので、私は池を改めて眺めてみた。美しい池だった。水は透き通り、大人の膝ほどの深さで、色とりどりの鯉がたくさん泳いでいる。池のふちには大きな石がごつごつと並べてあり、それが池全体を包んでいる。先ほども述べたとおり、私とアンドウの立っているふちの反対側の池のふちは山につながっており、その山の木々が生い茂り、池の水の上にも枝を張り出し、水面に影を落としている。その木々の森閑とした空気が、池に妖しげな雰囲気を醸しだしていた。


 父は木々の生い茂っているところから数メートル右側に離れたところに、ぼうっと突っ立っていた。私のいるところからは二、三十メートル離れていたので、よくはわからなかったが、その横顔には緊張が走っているようだった。そんな父の思いを知らず、幼い私は非常につまらない気持ちで、しゃがみこみ、足元にある小石を取って池に投げ込んだ。と、その時――。


「出た」


 それまで私の右隣で黙っていたアンドウが、突然小さく声をあげた。


その声に、私がはっとして立ち上がり、顔を上げると、山のふもとの中央部分の木々が、がさがさっと揺れ動いたのが見えたのである。その揺れは、山のふもとの中央から、父のいるふもとの右側の方へと移動していった。


樹木の向こうで何かが動き、そのつど、がさがさ、がさがさっ、と、順々に右側の木が揺れていく。ついに、生い茂る木々の終わりであり、父の目の前に生えているモミジの木が、静かに揺れ動いた。次の瞬間、木々の切れ目から、巨大な白い蛇の頭が、にゅっと現れた。


蛇はそのままするすると進み、父のすぐそばまで行った。驚いたことに、木々の切れ目であるモミジの木から、父の目の前までの間の五メートルほど、その蛇は体を現したのに、尻尾は見えず、まだまだ体の途中なのである。体の太さは、直径一メートル近くもあるように見えた。その体は青白く、陽射しに照らされて、ぬめぬめと光っていた。私は恐怖と気味の悪さで、全身に鳥肌が立つのを感じた。


「かけまくもかしこき、いざなぎのおおかみ、つくしのひむかのたちばなのをとのあわぎはらに、みそぎはらへたまひしときになりませる・・・」


 唐突に、アンドウが朗々と祝詞ノリトを唱え始めた。見ると、いつの間にか御幣を両手に持って、それを必死に振っている。神主装束に御幣、それに対して四角い縁の眼鏡と太った体が、実にアンバランスだった。


 私は恐怖におののきながら、再び父と、オマモリサマと思われる大蛇の方を見た。父は恐怖に凍りついてしまったのか、オマモリサマに正対して、黙りこくり、二、三歩後ずさりした。両手を胸の前でぎゅっとグーに結んでいた。オマモリサマも父の目の前まで進むと、そこで止まり、ちろちろと、真っ赤な舌を出して震わせた。


 どういうわけか、その舌の動きが、父を金縛りの状態から解除したようだった。父はおもむろに右手を下げると、Yシャツの裾に突っ込んだ。そうして腹の辺りを、ゴソゴソ探ると、Yシャツの中から腕を抜いた。すると、その右手には包丁が握られていた(父は、腹巻か何かで腹に巻きつけて、包丁を隠し持っていたのだった。Yシャツを着ていたのは、包丁を持っていることをアンドウに気づかれないようにするためだったようだ)。


 父は包丁を顔の高さにかざし、震えながらオマモリサマに向かって切っ先を向けた。包丁の肌が陽射しを反射して、きらっ、きらっと光った。父は叫んだ。


「うらああああっ!なんやああこらあああ!やったる、やったるでえ」


 オマモリサマはこの父の恫喝に対し、無反応だった。ただ、舌を再びちろっと出した。何を考えているか分からない、爬虫類独特の瞳が、父を見つめていた。 


反応したのは祝詞を唱えていたアンドウだった。


「はらへたまひ、きよめたまへともうすことを・・・ああっ!?イイヅカさん、だめですよ!オマモリサマがお怒りになってしまいます!おとなしく、食べられてくださああい!」


その甲高い声で、父に向かってそう叫んだのである。


 父はそのアンドウの声を無視し、


「おう・・・おら・・・」


と威嚇しながら、オマモリサマに一歩近づいた。次の瞬間、思い切ってオマモリサマの顔に向かって包丁を突いた。するとオマモリサマは素早く頭を宙に持ち上げ、父の攻撃を避けた(頭を持ち上げた分、後ろに下がる格好になったのである)。そのため三メートルほどの高さに鎌首をもたげる形になり、父を見下ろし、真っ赤な口を開けた。


「ひ・・・」


 包丁を空振りした父は、オマモリサマのその形相を見て、再び恐怖で固まった。


 一瞬の間の後、オマモリサマは口を閉じ、鎌首をぐっと後ろに引いた。そして、いっぱいに引き絞れられ、張りつめられた弓の弦が指から放たれたかのように、眼にも止まらぬ速さでするするするっと頭を前に移動させた。


 オマモリサマの頭は父の右脇をかすめて背中へ回り、そのままぐるっと一周して、あっという間に胴体を父の首から腰の辺りに巻きつけた。


「うわあああ」


 父は情けない叫び声をあげた。オマモリサマは父を締めあげた。


ぱきっ・・・めきめき・・・ごきっ


締められた父の骨が鳴る音が、こちらまで聞こえてきた。オマモリサマの顔は宙に浮き、締めあげている父の方を向いていた。相変わらず、何を考えているか分からない無表情のつぶらな瞳で、父を見ている。


「ぐっ・・・うう、サチエー!」


 私の名前でも、母の名前でもない、(きっと通っていたキャバクラのキャバクラ嬢か何かの名前だろうと思われる)私の知らない女の名前を叫んで、それが父の断末魔になった。


ぽきぽきっ・・・ごきんっ


首の骨が折れるひときわ大きな音が響きわたり、マリオネットの糸を切ったように父の全身から力が抜け、父はオマモリサマに巻きつかれたまま膝から崩れ落ちた。


からからんっ


父が倒れる直前、父の右手から包丁が離れ、地面に落ちて軽い音を立てた。


 父は地面にうつぶせになり、ぴくぴく体を痙攣させていた。オマモリサマは少しの間そのまま動かずにいたが、やがて父から胴体をほどいた。そうして父のそばに頭を移動させると、また少しの間動かずにじっと父を見つめていた。それからぱかっと口を大きく開いて、父を丸呑みにしようと、父の頭をくわえこんだ。


 オマモリサマはゆっくりゆっくり父を呑み込んでいき、数十秒もすると父はオマモリサマの胴体の中に入ってしまった。オマモリサマは、とっくりのように、首の辺りから胴体の前半部分にかけて太くなった。しばらく満足げにその場にとどまっていたが、やがてその体を重そうに引きずって、元来た山の方へ戻っていき、モミジの木の陰へ姿を消した。


「よし、良かった。一時はどうなるかと・・・」


 私の隣でアンドウが呟いた。父とオマモリサマの居た池のふちには、包丁だけが、忘れ去られたように落ちていた。何事も無かったかのように、セミたちが相変わらず騒がしく鳴いていた。


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