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そのトタン造りの古い賃貸住宅に、私は八歳の時まで住んでいた。
私は今年三十歳になるから、そこに住んでいたのはもう二十年以上前のことになる。しかし、今でもいやにはっきり、その家の間取りや内装などを覚えているのである。
その家の狭い玄関口から中へ入ると、そこは台所になっていて、左手にはほとんど使われていないガスコンロ台と、洗い物がいつも散乱しているシンクが並んでいた。それからその奥には、食器棚と、緑色をした古い冷蔵庫。冷蔵庫の上には、油で汚れた小さな電子レンジが置かれている。全てがカビっぽく、薄暗くて、見ていると陰鬱な気持ちになる台所だった。その反対側、つまり玄関口から見て右手は、風呂と便所になっており、それらの入り口の扉が壁に並んでいた。
台所から中へ進むと、引き戸があって、その奥は六畳の畳敷きの居間である。居間の右手にはふすまがあり、その向こうは四畳半、更に奥は三畳の寝室になっていた。
居間の中央にはこげ茶色のちゃぶ台が置いてあって、それをぐるりと囲むように、本棚、タンス、テレビなどが置かれていた。タンスの上には母の遺影が埃かぶっていた。部屋の南側には大きな窓があり、そこからは庭と言うべきか物干し場と言うべきか迷うような狭いスペースが見える。長年、その窓からの陽射しを受け続けた畳は、ひどく赤茶けていた。
私が学校から帰ってくると、いつだって父は、この居間の南窓のそばで、座布団を二枚並べた上に横になって、テレビを観ているのだった。私が帰ると、既に安い甲類焼酎を飲んでいる日もあって、ピーナツをかじりながら、なんの番組か分からないが、一人でテレビを観て笑っているのだった。
彼は酒を飲んでいるときは大抵機嫌が良く、帰った私が居間に行くと、焼酎の匂いを口の周りに漂わせながら、
「ああ、タカシ、帰ったか。どうだった?え?学校は。お父ちゃん、待ってたんやで」
などと言ってしきりに話しかけてくるのだった。
私は子供ながらにこの父のことをよく思っていなかった。父は常に家にいて、巨人戦のナイター中継を観ながらの晩酌と、週一回程度のパチンコ屋通いを楽しみにしていた。先ほど述べたとおり、昼間から酒を飲んでいることもあった。また、私はよく知らないが、いわゆる夜の遊びも、こっそりとちょくちょくしていたようである。幼い私がいるというのに、まともに料理をしたことが無く、近所のスーパーで買ってきた惣菜に、米だけ炊いて、食事はいつもそれで済ましていた。年に二、三回しか髪を切りに行かず、髪は白髪が混じってぼさぼさ、服装にも無頓着で、着ているTシャツは大抵襟の部分がほつれていた。
私が小学校一年生だった時に、一度だけ父が授業参観に来たことがある。父は蓬髪にジャージの上下という、家の近くのコンビ二にでも行くような格好で参加し、私が手を挙げて先生の質問に答えると、
「ヨシッ、正解や。よく答えた、えらいでタカシ!」
と大声で叫ぶので、周りの父兄や先生は失笑し、私はかあっと顔が赤くなるのが自分でも分かるほど恥ずかしく、もうそれ以後は質問に手を挙げることもせず、授業参観に父を呼ぶこともなくなった。
自分の親ながら、こんな父がよく子供を育てられたものだと思う。母は私が物心つく前に交通事故で死んだと聞かされていたし、全く働かない父が、どうやって家賃や生活費を工面していたのか、私にはまるで分からなかった。
ただ、一回だけ、ある日の夕方、私をスーパーへの買い物に誘い、その帰り道にそれらしきことを話してくれたことがある。
その日も父は既にアルコールが入っていて、上機嫌で鼻歌を歌いながら歩いていた。私は父に買ってもらったアイスを舐めながら、父の後ろを黙ってついていった。その日は綺麗な夕焼けで、黄昏が私たちの歩く住宅街を赤く染めていた。
私たちの家が近くなってきたところで、父はふっと鼻歌をやめて、
「なあタカシ、お父ちゃんが何してるか、分かるか」
とおもむろに私に聞いた。
「何って、何が?」
私が要領を得ずに聞き返すと、
「お父ちゃん、何のお仕事してると思う?」
と言う。私は(それは、何もしていないんじゃないか)、と考えた。しかしそれは言いづらいので答えずにいると、父は、
「お父ちゃんな、本当はヒーローやねんで。アンパンマンみたいな・・・、アンパンマンは違う、あんまりカッコようないな、ウルトラマン、いや、あんなにおっきくもないなあ、そうや、ゴレンジャーとか仮面ライダーみたいな、あれやあれ、あんなヒーローやねんで。今は悪いやつがおらんから何もしてへんけど、悪いやつが現れたら、退治しに、いくんやなあ」
その声は、いくんやなああ、とまぬけな余韻を残し、私たちの歩く道の両脇に建つ家々の壁に吸い込まれていった。私は、明らかな嘘に思える父の言葉に呆れ、何も答えずにアイスを舐めた。