世界摂理
葉羽市の中心部からだいぶ離れ、街を囲む山の途中に、僕、高見カケルの通う葉羽高校がある。
そこは、市内の何処からも遠く、平日の朝夕は十五分に一回はバスが出てはいるが、その他の時間帯は一時間に一回くらいしかなく……
なのでバスを待つなんてことがめんどくさいと思う、大抵の生徒は自転車で通学をしていた。
もちろん僕、高見カケルもバスを待つなんてまどろこっしい事をするつもりはないので、毎日自転車で通学しているわけなのだが、山の途中の校舎にたどり着くにはきつく長い坂をひたすら上ることになり、僕の十年もののママチャリでは毎日がとてつもない苦行となるのだった。
今日もまた、登り坂もまだ半ば。
自転車を降りて押している女子の姿を見て、自分も降りて押してしまおうかと心が折れかけそうなそんな時に、
「おい、カケル、ずいぶん辛そうだな」と、
僕に声をかけてきたのは同級生のススムであった。
「うる……さい、今声をかけるな、精神が乱れる」
「あらら、その自転車いい加減買い替えなよ」
こいつは先月まで僕と同じようにぼろ自転車でこの坂を毎日ひいひい言いながら登る仲間だったのだが、先月、春休みにバイトしたとかで新しい自転車を買いやがって、そのクロスバイクとやらで毎日僕を軽々と追い抜く事に楽しみを感じているのだった。
ススムは、ギアを落として僕のスピードに合わせると、鼻歌でも歌いそうな余裕の表情で、僕の横を並走する。
僕はススムの質問に息も絶え絶えになりながら答える。
「そんな……金……ないんだよ」
「何? 休みにバイトでもして買ったら良いじゃない」
「お前……と違って忙しいんだよ……」
「あれあれ、帰宅部仲間が何時間無いんだよ」
「……いろいろいそがしいんだよ」
と、ススムは一瞬口ごもり、そういえば、と言うような顔になり、
「へえ、まあ、そうだろうなあ」と。
「なんだよそりゃ」
「いやカケル君におきましては休み中もいろいろ忙しいことかと思いましてね……幼なじみの同級生とデートとか」
僕は少し悪い予感がしながら、
「おい……おい、何を言ってんだい」と。
「あれ、知らないの、もうバレバレなんだけど」
「……バレバレって何だよ」
「昨日、商店街で業羅の出現にお前は巻き込まれただろ」
なんでそれを知ってると思いながら、
「ああ?」と曖昧な疑問系の口調で僕。
「お前が業羅を引き起こしたおじさんに手を差し出して引き起こす所が新聞のトップで写真が出てたんだけどな……」
家では新聞を取らないのでそんな写真がのったなんて知らなかったのだが、でもそれとデート疑惑と何の関係がと思いながら、
「……それがどうしたんだ」と僕。
「……で写真には、そのカケルのことをウルウルとした目で見つめているコン子……」
ススムの言葉を最後まで聞かないうちに、僕は今までの疲れも忘れ、全力でペダルをこぎ始めた。
「ススム、お先に!!」
やばい。やばいよ。
僕は焦って、足の疲れ筋肉の痛みなんて心そこにあらず、自転車の差もなんのその、瞬く間にススムを引き離し——坂道をもの凄い勢いで登り出す。
火事場の馬鹿力的に、いつもなら五分はかかる残りの坂道を三分程で僕は登りきった。
そして、校門を通り過ぎると、自転車置き場に自転車を放り投げるかのように置いて走り出す。
僕の血相を変えた顔を見て、そこに居合わせたクラスメイト達は、何事が起きたのかととびっくりしたような顔をしているが、僕はかまわずに……
その後も、自分史上最短のスピードで三階まで階段を駆け上がると、二年B組の扉をあけて中に飛び込んで行く。
そして、
「あれ、カケルどうしたの、やたらと息が切れてるけど」と。
コン子は窓際で、吹き込んで来る風に髪の毛を揺らしながら、
僕のことを見てにっこりと笑った。
やっぱりいつも通り、人一倍早く登校するコン子はもう教室にいて、まだ始業までは少し時間のある教室には、他はまだ数人しかいなかった。
よかった。これで騒ぎは最小限に抑えられると思いながら、僕はコン子のそばに行くと、
「ごめん!」と頭を下げた。
「ごめん? 何?」
「昨日の業羅の騒ぎの時、うっかり写真を撮られていたみたいで……そのまたあらぬ誤解が……」
「誤解?」
「さっそくススムが言って来たんだよ。新聞にいっしょに写真がのってしまった見たいで……昨日……あのう……デートしてたんじゃないかって……いやだろそんな風に思われるのは」
一瞬の沈黙。
コン子は僕のことをじっと見つめる。
そして口元が優しく微笑み、
「なあんだ、そんなこと?」と、
「えっ……あれ」と僕。
コン子は窓際から離れ、近くの机の上に軽く腰掛けながら言う。
「昨日、カケルはかっこ良かったわよ」
「はあ……?」
「もう大丈夫だと思っても、なかなかみんなあのオジサンのところに近寄らなかったじゃない。また業羅に変わって教われるんじゃないかってみんな思ってたんじゃないの? いえ、正直、私もそう思ってたわ。それでなんとなくあの人のそばに寄る気がしなかった」
「いや僕は何にも……ただすごい幸せな気分になっていて、それで倒れてる人をみたらほっとけなくて、それが誰だかなんかかんがえもしてなくて……」
「……何にも、考えないで、あんな風にやるべきことをやれるなんて……えらいと思うの……なのでそんな人を感心した目で見ていた私の写真が新聞にのってても何も後ろめたいこと無いもの」
「そうかな?」
「そうよ。だから、今回は、カケルも誰かに何か言われても気にすることは無いわよ。私がそいつをぶっ叩いてやるから」
コン子はそう言うと、またにっこりと笑った。
僕もつられて笑う。
そして、
「『感心』か、そりゃそうだよな……ウルウルした目と聞いたからちょっと期待したけどな……」と僕は小声で言うと、
「何?」とコン子。
「何も、何も!!」
僕は大慌て手で手を振って、逃げるように窓の外を見ると、ちょうどススムが校舎に入る所だった。
奴が来る前にこの話は終わりだ。
あいつは僕ら二人が一緒にいるのを見たら、奴は僕らをからかいに来て、それにコン子は逆上し、その怒りの矛先は僕に……と言うわけだ。
この自分とこのクラスと世界の平和の為にもそろそろ潮時と、僕は目で合図した後に振り返り、自分の席に戻ろうとした時、
「あと……カケル」とコン子。
歩きかけていた僕は足を止め、また振り返る。
「何?」
「ミクスも昨日、カケルのことをかっこいいって言ってたわよ」
「……やっぱり『感心』したって」
「いえ……そう言う意味ではないわよあれは……」
「あれは?」
「恋ね……」
「……?」
*
その後、僕は、授業に殆ど集中できないまま、午前中を終えた。
コン子が妙なことを言うもんだから、ミクスさんのことを過剰に意識してしまい、昼休みにやってきた時なんて顔もまともに見れなくなってしまうくらいドギマギしてしまっていた。
明らかに挙動不審になっている自覚があった。
このままでは、恋だ愛だ以前の問題で、変人と思われかねない状態だった。
なので、声をかけられても適当にごまかして、用があると嘘をついて、食べかけの弁当を一気に掻き込むと一目散に屋上にあがり……
残りの休み時間を一人で、そこでつぶすことになったのだった。
——まあでも別にそれはそれでも良かった。
学校の屋上から見るこの街の風景が僕は好きだったのだった。
僕は、ちょうど良い高さの屋上のフェンスに肘をかけて、ただ風景を眺めていた。
いや、実は、僕は、こうやって屋上に来て、一人で風景の端から端まで見渡すことがあったのだった。
それは何故だか僕の心をとても落ち着かせるのだった。
この街、低い山に囲まれた盆地の中の街、この葉羽市を眺めること……
それは、それだけで、僕をとても楽しい気分にさせるのだった。
この街—葉羽市は—特に目立った産業も名産品もない何の特徴もない田舎街だが、しかし、その街に自分が住んでいる、この景色に取り囲まれている。それを確認する事が楽しいのだった。
ある事情で幼稚園の途中から僕の家族はこの街にやってきたのだが、家族全員がそのまま気に入って、住み始めてもう十年以上。
ここに不満を感じることはほとんどないない。
美しい自然に囲まれているが、首都圏からもそれほど遠くなく、物も人もそれなりやってきて、それなりの規模の繁華街もあるし、でも田舎なので物価も安く暮らしに余裕があって、そのせいか人々もどこか穏やかなこの街。
僕がここにずっと住み続け、そしてますます感じるのは、
……僕はこの街が好きだと言う事。
風景が、雰囲気が、人が——それら全部が好きだった。全部あわさって、一つ一つの要素の足し算の何倍も、かけ算で好きだった。
それが、自分が育ったこの街、自分の好きなこの街が、高台にある学校の屋上からならずっと遠くまで見渡すことができたのだった。
なので僕は屋上が好きだった。
遠くにかすむ山の稜線、その裾野に広がる新緑の森。
青空。
その真ん中の太陽がキラキラと照らす流れる川。
うれしかった。ここから街を眺めていると、とても楽しい気分になれた。
ここには僕の世界の全てがあった。
それが全部見えた。
それが僕に全てを与えてくれた。
僕は深呼吸をして、そのすべてを吹き抜けてくる風を吸い込んだ。気持ちよかった。
この心地よい何もかもに満ち足りた世界。こんな美しい自然に囲まれているここには何も悪いものなんて無いように思えるのだが、
「それでも業羅が出るんだよな……」と僕はひとりごとを言った。
不思議だった。
昨日のあの穏やかな街中でも憎しみを抱え業羅に変貌してゆくものはいるんだと思うと、なぜそんなことが起きなければならないのだろうかと、僕は、不思議に、悲しく思う。
もちろんどんな場所でも、人でも、いつも楽しいことばかりではないだろうし、落ち込むことだってあるんだろうけど……
「なんで業羅になるまで思い込んじゃうのかな」と僕は声に出してその疑問を口に出す。
すると、
「みんな……あなたみたいな……適当ではない」と声。
振り返ると、
「え……シズコ」
そこにいたのはシズコだった。
彼女はいつも通りの無表情な顔で、僕に小さな紙袋を手渡す。
「パパに頼まれた……君にこれを渡せ」
シズコは、昨日僕が行こうとして行けなかった国道沿いのジャンク屋の娘だ。
僕が良く父さんから頼まれたてそこに行くものだから、たまに店番をしているこのシズコとはずいぶんと昔から顔見知りなのだが、どうにも、無表情で感情の起伏の無いこの子とはなかなか会話が噛み合ない。
今も、受け取ったあと、どんな言葉を出せば良いのか、微動だにしないシズコの表情を見ながら頭を抱えていると、
「ずいぶん探した。聞いた。突然教室から飛び出した」とシズコが先に言う。
「……ああ、ごめん、君が渡しに来ることは父さんから聞いてたんだけど……すっかり忘れてしまって……少し事情が会って……」
「ならいい」
「……そう、これにはいろと事情が……あれいいの?」
「いい」
「……そう? それはよかった」
全く弾まない会話で、場は微妙な雰囲気。
僕は、何か言おうと思っても、次の言葉が出てこない。
シズコのじっと見つめる目が、それはまるで、僕がどうでも良いような適当な言葉で場を取り繕おうとでもしないように監視しているように思え……
なんか無意味に緊張してしまう。
まったく容姿だけなら「ミクスさんよりも」と、学年一の評価をする人も多いシズコが「でもねえ……」と微妙な評価を受けているのもこの性格と言うか行動のせいだ。
無口と言うか、まるで話さないわけでもないのだが、会話が無機質で、どうにも取り付きにくい。
もっとも、彼女を余り深く知らない下級生(の主に女子生徒を中心)にこのクールなのをデレさせるのを夢見てる彼女の熱狂的ファンも多いと聞くが、同級生では今ではまともに話すのは僕とコン子くらいだった。
まあしかしまともに話すといったってこんな風にでではあるが……
「ともかく……これありがとう」と僕は包みを見ながら言う。
すると、
「カケル、それ、間違いない」とシズコ。
一本調子で疑問形なのか確認なのか判断に迷う言葉に、
僕はとりあえず相づちを打つ替わりに頷きながら、
「ああ、これこれ」と。
僕はシズコから渡された包みをあけて中を見ていた。
そこに入っていたのは小さな部品、そう、昨日父さんに頼まれていたものに間違いなかった。
僕はほっとして、
「ありがとう。昨日は業羅の騒ぎのせいでいけなくなっちゃって……事情が事情なので父さんも怒りはしなかったんだけど……このままじゃ一日持たないかもしれないのでまずいのでどうしようかなって……電話したらシズコが学校で渡せば良いって君のパパが言ってくれて……助かったよ……お金はいま渡す?」と。
するとシズコは、
「次に来るときでいい」と。
「そう……? 今でもお金持って来てるけど」
「私がいる時に来ると良い」
「……」
普通なら、これは僕に会いたいと言うアピールの言葉に聞こえなくもないが。
相変わらずの無表情で感情の抑揚のないシズコの言葉は何かの業務連絡のように聞こえる。
「カケル、来るとうれしい」
うああ、続けてアピールっぽいの来た……
がここで図に乗ると足下すくわれるよな。
これはやっぱり友達として「来ると」嬉しいだよな……
とシズコの顔を見るが、やはり表情が読めない。
ここで勘違いして壮大にこけて、ここであの無表情な目で睨まれているのに耐えられそうもなかったので、
「ああ、なるべくそうするよ」と、
僕は当たり障りの無い回答をして場を濁す。
すると、
「用事終わった」とシズコ。
相変わらず、抑揚が無くて、疑問系なのか確認なのか判断に迷う、言葉に返す言葉に迷いながら、僕はまた頷くと、
「まだもう少しここにいる」とさらに同じような口調でシズコ。
でも今回は疑問系だろうと勝手に予想して僕は言う。
「僕が? いるよ」
「私もいる」
と言うとシズコは僕の横に来て、フェンスの向こうの景色を眺めながら、
「綺麗」と。
「ああ、そうだね」と僕。
それ以上はシズコは何もしゃべらなかった。
僕も何もしゃべらなかった。
でも不自然でない沈黙は、不思議に息苦しくはなかった。
僕らはただ景色を見ていた。
それで十分だった。
昼休みは残りわずか、僕らはそうやって何も話さないで残りの時間を過ごした。
そして午後の授業に間に合うように、チャイムのなる直前に、校舎の中に入るが……
「あれ」
僕は何か、妙な視線を感じて振り返った。
シズコは怪訝な風に僕を見ていたが、かまわずに屋上を見渡す。
しかし誰もいない屋上に、気のせいかと思い直し、チャイムの鳴る中を慌てて階段を駆け下りてゆく。
その時、何か妙な胸騒ぎがしたが、その時は僕はそれ以上は深くその視線の事は考える事も無かった。もう授業に遅れそうだと言う焦りが、そのとき感じた微妙な違和感を心から吹き飛ばしてしまったのかもしれない。
後から思えばそれがその後に僕が巻き込まれる事件の始まりであったのだったのだが……
*
ところで——
業羅とはなにか。
正直なところそのその正体は今でも謎に包まれている。
実際、二十年ちょっと前、突然にこの世界に現れた正体不明の化物である、と言うこと以外は何も分かっていないようなものだ。
その発生の原因も、正確な生態も未だまったく不明なままであった。
それは地球には存在したのだがいままでに知られていなかった謎の生き物なのか?
それとも宇宙よりの飛来した侵略者なのか?
人間の科学ではまだ理解できない超自然のものなのか?
それとも密かに世界を騒がす事を狙う狂った科学者の創造物なのか……?
色々な意見があり様々な学会でも議論は紛糾——
つまりその正体については人間は何も分かっていなかったのだった。
分かっているのはそれが現れてからの行動だけだった。
現れればそれは世界に災厄をもたらすものと言う事がが知られているだけの……
業羅。
それは、出現時には、黒い霧の姿であったり、悪臭を放つ液体の姿であったり、不定形のすぐにでも散り消えてしまいそうな脆弱な物質にすぎない。
しかし、現れた時に、その近くに何らかの恨み、悔恨等の負の感情をもっている人間がいたら——
それは、核にその人間を取り込んだ業羅はたちまちのうちに怪物へと変貌するのだった。
なぜそんな怪物になってしまうのか、人間の負の感情がどう作用しているのか、それはやはり全く謎のままだった。
しかし、いろいろな事例から推測されるには、業羅は、人の歪んだ思いにつけ込んでそれを自らの核として取り込むと、人間の身体をその感情にあわせて変貌させ……
そしてその後の業羅は、人間の兵器はまったく通用しない怪物となるのだった。
現れたならば世界を手当り次第に破壊し尽くす——
それは止める事のできない災厄となるのであった。
それに、そのことに、世界は恐怖した。
——いや、もちろん人間もただ敗北を重ねていた訳ではない。
業羅が現れ始めた始めの頃には、その撃破のためいろいろな武器が試されたものだ。
人は、業羅に向かって、あらゆる銃弾やロケットを撃ち込み……
他にも熱、酸、あらゆる破壊兵器を試してみたのだった。
しかしその全てが無駄だった。傷つけることはできても、破片からすぐに再生する業羅を消滅させる事はどの国のどの軍隊にも警察にもできなかったのだった。
核爆弾までを試されたわけではないが——
人間の心の歪みを元にする以上、殆どは市街地での出現となる業羅に対して、街を全滅させる気にでもならなければ、使用できる武器には限りがあった。
核はもちろん、大規模破壊兵器の使用にはかなり制限がある状態であり、それであればなおさらのこと、出撃した各国の軍は、業羅の前に、すべてなす術も無く敗北した。
どの国も、決定的な撃退方法は何も編み出せないでいた。
世界中の軍事関係者、科学者があらゆる案を考え尽くしてみたのだが、業羅に対しては何もできる事はなかった。
業羅が現れ始めてからの数年間。世界は業羅に蹂躙され、人々はその発生をおそれ続けていた。
業羅の個体の出現時間は、平均的には、約1日程度で、現れる時と同様に、突然に消えうせるのだが、その間に、出現した街に筆舌に尽くしがたい破壊と、恐怖を運んで来るのだった。
業羅が消えるまでの間、なんとか街の被害を少なくしようと、兵士が通りにバリケードをつくり、戦車を盾にして、決死の覚悟でその通り道をふさいだ。
それでもすぐに破られるにしても、それならば次の部隊が次の決死隊を作ってまた盾となった。
それしかなかった。
何十万人もの犠牲者を出し、何個も業羅に街をつぶされながらも、人類には、それしかやりようは無かった。
それでなんとか、人類は、絶対的な破滅から逃げ仰せていた。そんな時代だった。
問題の本質的解決ではない、対症療法しかできていなかった時代だった。
業羅が消えるまで、封じ込める事、それは、また新たな業羅の現れるまでの一時しのぎであっていつか無理が来るやり方であった。
次第にその出現の頻度の増えて来た業羅に、常に世界の何処かの都市が破滅の瀬戸際にあるような綱渡りは、とても長く続くとは誰にも思えなかった。
なので世界中が業羅への対処方法を渇望し、世界中で研究されていた、
そんな頃……
偶然にそれは見つかったのであった。
二十年前、ロンドンの市街に現れた業羅が引き起こした災厄の途中での出来事だった。
テムズ川の上に漂う霧が風でシティに流れ込んだとき、その日の取引で身の破滅となったエリートビジネスマンの心の闇に魔が取り付いた。
それは瞬く間の出来事、瞬間の、この世界への魔の侵入であった。
男が苦悩に満ちた顔で下を向き、世の中を呪う言葉をふと漏らした瞬間——
霧に取り囲まれた男の顔は、解放されたような愉悦の表情を浮かべた後、感情を剥き出しにしながら歪み、身体は冷たい光に包まれたのだった。
男は喜びの声を上げた。
快感を口に出して叫んだ。
そして、男の身体は砕け、その砕けた破片が罪上がり、瞬く間に金色のピラミッドのような姿に変わった。
男は吠えた。
いままでのビジネス上では決して言う事のできなかった、我慢していた、悪態の数々を叫びながら、業羅となったその男は、偽黄金と人造ダイヤ(ジルコニウム)をマッハのスピードで体中からまき散らしながら夜のロンドンの市街を進んだのだった。
ロンドンは突然の災厄の直中となった。
何もかもが破壊し尽くされた。何者もそれを止めることはできなかった。
業羅は人々に避難の暇も与えず素早く移動し、殺戮と破壊の限りをつくした。
緊急で要請されたが、市街に出動するべき部隊の選定の押し付け合いのためいまだ到着しない英国軍、その不在の中、業羅は何者にも阻まれずに街の中を進んで行った。
そのスピードは非常に早かった。
業羅がビジネス街から繁華街への移動をして行った時、数キロも離れたその地区の人々は、まさかすでにそこまで到達しているとは思ってもいない状態であった。
なのでそこにいるのはこのままではあっという間に虐殺をされるのが必須となる大量の逃げ後れた人々。
業羅は、そんな場所……ロンドンのとある巨大クラブのダンスフロアに現れたのであった。
その時、そこでは千人を越える人々が、業羅の出現などまだ何も知らずに、ただ踊り狂っていた。そんな中、突然、壁が破壊され、金色の業羅が、目に狂気を浮かべながら、人々を一気に惨殺しようとでも思っていそうな不適な笑いを浮かべながら入り込んで来たのだった。
業羅は口を開き何か呪詛のようなものを漏らした。
体が禍々しい光に包まれた。
それは、街を破壊し尽くした、偽宝石の銃弾が発射される直前の状態であった。
この閉鎖された空間にそれが打ち込まれたなら、瞬く間に、ここにいる人々は全滅してしまうだろう。
いきなり人々はそんな絶体絶命の状態に追い込まれていたのだった。
それに気付いた人々の恐怖の叫び声が直ぐにフロアを包んだ。
なにしろ現代兵器が全く通用しない怪物が、目の前に現れたのだ。
人々は何も出来ず立ちすくみ、ただ悲鳴をあげた。
射すくめられ、逃げようとする事さえできなかった。
逃げ道などなかった。
業羅の体から冷たく光る偽の宝石が浮かび出て、すでに体の周りを回り始めていた。
それは今発射される直前だった。人々は皆、死を覚悟しその場で目をつむった。
——しかしそれは起きなかったのだった。
なぜか業羅はその場で固まり、動かなくなった。何事かと人々は業羅を見つめ、そして業羅の見つめる方向を振り返って見つめた。
そこはDJブースだった。
「新しいお客さんのおでましだぞ」
DJの男は、彼の横にに呆然と突っ立っていたMCからマイクを取ると、そう言った。
「このフロアに入った奴は業羅だろうが悪魔だろうが俺はみんな踊らしてやるんだよ」
業羅の見つめるその先には、一段高いブースの中で、DJをやっている男がいた。
男は業羅を見て、かすかに笑う。
業羅は睨み返し、吠える。
しかし業羅の叫び声は少々遠慮深げで、少し楽しそうでさえあった。
普通の神経であれば、いくら少しおとなしくなっているとはいえ、業羅に睨まれたその状態ならば誰でも逃げ出してしまってもおかしくないだろう。
今世界を荒らし、壊しまくっている、制御不能の怪物が自分の目の前に迫って来たのだ。
しかし男は逃げず——音を止める事は無かった。
音楽が、ビートが流れた。グルーヴがフロアを満たした。
業羅は動かななった。
ここまで無人の野を行くように街を破壊しながら動いて行ったこの業羅がなにもできずにじっとしているのだった。
人々はもしやと思い、DJと業羅を交互に見た。
業羅は微かに身体を揺らしているように見えた。
「踊っている?」
誰かが叫んだ。
周囲の騒ぎをよそに、DJは冷静に、イコライザのつまみをいじりながら、次の曲につないで行った。
ドラムロールが続き、ブレイクに会場からは歓声が上がり、業羅も体をゆすって踊っていた。
それは、もう誰が見ても踊っているとしか見えない体の律動であった。
リズムに合わせ、会場のグルーヴにあわせ——それならば、業羅であったとしても、このパーティの参加者であった。
人々は踊り、業羅も踊り、DJはひたすらに会場を盛り上げて、そしていつの間にか業羅は、解放されたような表情で呆然と立ちすくむ中年男性の姿に変わる。
これが史上始めて業羅への対処——踊らせ人間と結びついた因果を解く——が分かった瞬間であった。
そして……
*
「その時のDJと言うのがあなたのお父さんのDJキョウこと高見響なのよね」とウェブレイドのMCラン。「……もちろんそれは知ってたわよね」
僕は首肯する。
「父さんのことは……それはもちろん……その後、対業羅DJとしてずっと活躍してたのも知ってますよ」
今、僕は業羅の出現を、そしてその対処法確立の経緯をランさんに向かって話したところだった。
ランさんは、今日家に帰ったらなぜか妹の舞と一緒にいたのだが、その理由を問う前に、逆に、僕は業羅の説明とその対処法確立の経緯を言わされ、そして続けてその対処方法を見つけた父さんへと話題が移った所だった。
「そうなのよね。キョウの他、五人のオリジネーター達の活躍はもう伝説なの。今見たいに業羅への対処スキルがまだ確立されていない時代、それは本当に命がけのプレイだったはずだわ……」
「……そうですかね」
「そうよ。あれ自分のお父さんのこと疑っているような口ぶりね」
「いえ……」
いや、疑っているのではなく、この人の勘違いをどうやって解いたらいいのか僕は困っているのだった。
父さんは、きっと何にも考えていなかったはずだ。身近で暮らしていると分かるのだが、外では気取ってかっこつけているが、本当の本人のあの能天気さというか適当さは……
いやそれが自分に少し遺伝しているのでますますわかるのだが……
——底抜けだ。
その時だって、きっと、何となるさくらいにしか考えていなかっただろう。いや、多分、DJをする事以外は何も考えていなかったに違いない。
と言うか、無理だ。
踊らせるべき相手がいて、それを自分に頼まれたなら、それ以上の事を考えるのは父さんには無理に違いなかった。
それしか考えていなかったはずだ。
命がけとか、ありえない……
でも、この人が抱いている幻想を僕は壊すべきかどうか。
父さん達オリジネーターの伝説にあこがれて、この人はウェブレイドに入ったのかもしれないし、本当の事を話して幻滅されて、業羅に立ち向かう人たちが意欲をそぐのもなんだしな……
とか考えていると、僕は言葉に詰まってしまうのだが、
「まあいいわ、子供にはあまり自分の事話していないのかしらね。でも、確かにそんなのペラペラと語る事では無いのかもしれないわね。家族に語るにはあまりにも凄惨な事が多いのかもしれないしね」とランさん。
僕は、曖昧にうなずく。
まあそりゃ危険もかなりあったのだろうが、それを全部冗談にして語ってしまうのがキョウ、父さんなんだけど……
なんかあこがれにうるうるしたような目をしているランさんを見て、僕はそんな事を言うのも無粋だと感じるくらいは心配りをしてそれを語る事は無かった。
しかし、
「でもどこいっちゃったのかしらね。私が訪ねてきた直ぐ後に、少し用事があるからってキョウは出て行っちゃったわ」
と言われて、僕はちょっと悪い予感がした。
なので探りをいれて、
「あのそもそもランさん。この家に何をしに……」と僕は言った。
すると、顔を輝かせながら。
「そりゃ、会いに来たにきまってるじゃない! 業羅が出たと言うので、たまたまこの街に来てみたらここが今あのキョウが住んでる所だって言うじゃない、こんな偶然ないわよ! 伝説の人に会うチャンスなのよ、こんなの逃がすわけにいかないじゃない、昨日は業羅出現の後処理でばたばたしてしまったけど、私だけここに残こしてもらって、今日こうやって会いに来たと言うわけ——あら、住所はウェブレイドの力つかったら警察の方が一瞬でおしえてくれたしね」
おい警察、個人情報保護はどうした。
でも対業羅と言い出せば警察は何も逆らえないのだが、これは明らかに職権乱用と思いながら、
「いや、でも父さんにあって何を……」と僕。
「そりゃいろいろ話を聞くに決まってるじゃない! 業羅と相対するものとしての覚悟と哲学を聞くのにこれ以上はない人じゃない。オリジネーターの中でもミスタークールとして知られるキョウなのよ。現役時代に残した数々の言葉しびれるわよね、何だっけ、——そうそう、『死は踊りよりも近い所にある。だったら遠い方に行って見ようと思わないか。俺たちは音の探検家だからな』——だったかな……良いわよね。今までで最強と言われているデトロイトで出現した業羅へ向かう時に言った言葉よね。きっと死を覚悟してたのよねその時は」
はあ、それはその日一緒にいったもう一人のオリジネーターのエリックの言葉のはずだ。エリックおじさんって、何度か家に遊びに来た時に会った事があるけど、見た目が能天気アメリカンと言う感じのせいで真面目な言葉はいつまにか、いつも苦悩したふりをしている父さんが言ってた事になってしまっていると愚痴っていたっけ……
「あとは何だっけかな?
『ビートはどこまでもつながってゆく。お前の人生だって続いてゆく。俺が続かせてみせる、だからもうちょっと生きていろ』とか。
カリフォルニアで瀕死の状態になった、ティムに向かって言った言葉よね。そのあと、キョウは重傷を負いながら、業羅を踊らせる事に成功するのだけど……しびれるよね」
ああ、それは「生きていろ」の後に「生きていて、金返せ」と言うのがいつの間にか抜けてるんだけどな。
で父さんとティムはDJの間、金の額の多い少ないでずっと口喧嘩してたと言う……
「……ともかく、ああ、キョウは早く帰ってこないかしら。いろいろとお話したいと思うの」
……あああ、たぶんしばらく帰ってこないぞ、と僕は思った。
きっといろいろ聞かれてその間体面保ってるのが面倒くさいと思って出て行ったのだ。
そんな時の父さんはその面倒がいなくなるまでしばらく戻ってこない。
今回もきっと二三日と思っていると、
——あれ?
ポケットに入れていたスマホが震え、
僕はその時に調度来たメールを見る。
——後の事は適当に頼む 父より。
僕はため息をつきながらスマホをも一度ポケットに入れる。
すると、
「あれどうかしたの」
「いえ……」
「でも顔が暗いけど」
「……あの言い出しにくいのですが、父さんは、今日は帰ってこないようです」と声も暗く僕。
「ええ、なんで!」とラン。
「少し急用ができたようで」
「じゃあ、明日は? 私、三日こっちにいる許可とったのでそれまでの間ならいつでも良いんだけど」
きっとあなたがいる間は帰ってきませんよ、と思いながら、
「……きっと、明日も、多分もっとかかるかもしれなくて……」
「そうなの……」
ランさんは少し落胆したような表情となった後で顔を伏せる。
そりゃそうだよな。実際がどんなでも、彼女みたいな人達にとっては父さんはあこがれの伝説の人なんだ、父さんも少しはサービスしてやれば良いのにと思っていたが……
でも、
「じゃあ、しょうがないか」と言いながら顔を上げたランさんの顔は悪戯っぽい笑みに満ちて、
「私は、実はあなたにも用事があるんだけど……カケルくん」と言ったのだった。