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始まり

 その日は、五月のゴールデンウィークが終わり早くも二週間が経った、ある晴れた春の日だった。わくわくする連休も終わり、陰鬱な梅雨にはまだ早い——そんな頃。特に目立った特徴もないが、そのかわりに特に嫌な事も無い。とりたて何かの日と言うわけではない本当に平凡な一日であった。

 しかし、それゆえに、そんな平凡な日だからこそ感じられる穏やかさに包まれた、本当になんの変哲も無い日曜の午後であり、でもそんな日に、そんな日だからこその平和がこの葉羽市には満ちていたのだった。

 つまり街は笑いに満ちていたのだった。家族連れやらカップルやらが楽しそうに通り過ぎる、まさしく平和と言うのはこんな日の事をさすのだろうと思える穏やかな風景だった。

 まったく——全き——平和な光景であった。楽しそうに笑いながら歩いている人、人、人。

 ある人は家族の手を引いて、ある人は恋人と手を組んで、ある人は友達同士楽しそうにおしゃべりをしながら歩いている。一人でベンチに座る老人も楽しげに待ち行く人々を見つめていた。一人でいても、街に満ちる平凡な日常に、その幸せに、自分がどこかで結びついているのが感じられるかのように、そのおじいさんはとても幸せそうな表情をしていた。


 良い日だった。爽やかで、でも暖かな、太陽が照らす——そんな午後。そんな街の中を、僕は、周りの人達と同じように、つい何となく微笑んでしまいながら自転車で走り抜けている所だった。

 とは言え——この光景を見て楽しい気分なのは間違いないが——僕は、何か楽しい事をするために街中にやってきたわけではなかった。自転車で向かっている先は、郊外の国道沿いのジャンク屋で、父さんが店主に言って特別に取り寄せてもらったある物を買いにいくところだった。つまりは、つまらない話、つまるところ僕はお使いの途中だったのだ。


 が、しかし良い天気の中自転車を走らせるのはそれだけでも楽しい——遠出でも何も問題は無かった。まだ時間もたっぷりとあった。そのジャンク屋は気まぐれに午後四時半くらいに店をしめてしまうこともあるのだけど、今はまだ三時を過ぎたばかりで、時間的には何も問題がなかった。(いや一度日曜は四時で閉めてたことあったよな……いやそれでも十分に間に合った)

 なので、僕はゆっくりと自転車を走らせながら、ほんわかな気分になりながらぼんやりと街の風景を眺めるのだが……


「おら、お前気をつけろよ」


 突然飛び出して来た男に、怒鳴られて、僕は急ブレーキをかけてあわてて自転車を止めた。

 危うくこけそうになって、なんとかバランスを取りながら頭をさげる僕を、男はギロリと睨んだ。


「すみません」


 思わず謝る僕に、男は、もう一度、良く聞き取れない、罵るような言葉を呟いてから、地面につばを吐く。それを見て、なんだかずいぶん失礼な人だなと僕は思った。よそ見してしまったのは自分が悪いのだけど、車道に突然飛び出してきたのは向こうの方なのに。男の方にはまるで反省してる様子は無し。


 僕だけでなく、なぜか、何もかもにも怒ったような顔をして周りを睨みながら、男は車道を横切って周りをクラクションの嵐にさせている。

 なんだあれ——僕は正直ちょっとむっとしたが……


 でも、まあ、いいか。こんな良い雰囲気の日に、あんなのにかまっていてもしょうがないもんね。さっさと忘れよう、と僕は思った。あんな男の事はもちろん、買い物とか、なんか気にかかってる事あると、ゆっくりできないでいたら、こんな日にもったいないもんね、と。

 なので、僕は、もう一度自転車をこぎ出そうとペダルに足をかけた。しかし——その瞬間……


「あれカケルじゃない」


 また突然の声に、僕は、走り出しかけた自転車を止める。

 横を見れば今度は……


「なんだ、コン子かい」と僕。


 そこに立っていたのは、華渡寺今子——本当はイマコと読むのだが小さい頃からみんなずっとコン子と呼んでいたので今更誰も呼び名を変えられない——同じ高校の同級生でもある幼馴染みと……


「あれミクスさんも」


 コン子と一緒に立っていたのはやはり同じ高校のミクスさんだった。

 一年のときは僕やコン子と同じクラスだったが今は隣のクラスの栖原未来=ミクスさん。一年の時にクラスに未来と言う名前が二人いたので、呼び分ける為にミクに栖原の「す」をつけてスミクと呼ばれていたのが、いつのまにかひっくり返ってミクスと呼ばれるようになっていた女の子だった。


 対照的な二人だった。小柄で可愛い感じのコン子と背が高くすらりとしたミクスさん。少し丸い可愛い感じの顔立ちのコン子と真っ白でシャープなまるで女優にでもなれそうな美人顔のミクスさん……


 いや、外見だけじゃない、この二人で一番対照的なのは性格だった。何事につけ積極的で元気一杯のコン子と、おとなしく恥ずかしがりやのミクスさん。

 そんな正反対の二人だから、かえって仲が良いのかもしれないが……この二人が一緒だと僕的には少し困ったことになりそうである。


 と思ってると、

 ——やっぱり、ほら来た。

「あらあら、カケル、何赤くなってるの……」と僕に近づいて来て耳打ちをするコン子。


 そのまま僕は引っ張られて、不思議そうな顔をしているミクスさんから少し離されて、

「一年の時にもじもじしてて告れないままクラス変わって、まだうじうじしてる……」

 といつもどおりの説教をコン子に言われる。


「おいやめろよ」

「こんな日に偶然会ったのもなんかの縁だし……ここで言っちゃう?」

「おい……」


 コン子は典型的なおせっかい焼きタイプの幼馴染みだった。

 コン子とは、家が通りのはす向かいで僕がこの街に来た六歳からずっと一緒に遊んでいる仲なのだが、いつも優柔不断な僕に決定を下すのが彼女と言うパターンが幼い頃から染み付いてしまっていて、高校生になっても、自分が世話しないと僕が何も出来ないと思っていろいろと口出しをして来るのだった。


 しかしコン子のやる事は、どうにもちょっとずれている事が多い。このミクスさんを僕が好きだと言う話も、クラスの中で誰が一番可愛いかと言うのの誘導尋問にひっかかってうっかり言ってしまった一言を、どんどん拡大解釈して、最後には「私にまかせろ」みたいになったのが始まりだった。


 誤解を解こうといろいろ説明しても意に介さない。

 走り出したこいつはもう誰にも止めれない。

 その後、コン子はいろいろと機会を作って僕にミクスさんに告白させようと企んで来るのだが、いつもうまくはぐらかして逃げる僕。


 ……なので今日はたまたま街で出会ってこれはよいチャンスだと、一気にたくし込んできたようだった。でもミクスさんなんて高校に入ってからもう六十人以上に告白されて、でもすべて断っていると言う、みんなの憧れの的、高嶺の花的な存在なんだけど……

 僕が告白してどうなるもんでもない、と言うか、僕も別にそんな高嶺の花に自分が釣り合うと思ってないから、告白なんてする気がないと言うか、別に自分的にはまったく盛り上がっていないのだけど……

 コン子には、何度もそう聞かせたのだが、彼女の一度決めた決定は決して揺るがない。


「おい、カケル、聞いてるの……さあ早く、決心なさい。進むか、それとも前に出るか?」

「それどっちも、今、告白しろと言ってるじゃないか」


 強制的に告白を迫るようなコン子の声に、僕は慌てて、


「待って、今日は、急ぎの買い物があるんだから、話している暇は無いんだから」と話をはぐらかすが、

「また、そうやって逃げる。良いじゃない。言うのは一言なんだから、一瞬よ、一瞬」とごまかされずにコン子。

「一瞬と言ったってね……」

「あなたみたいなのは、言えば良いこといわないで、ぐじぐじと余計なことばっかり言って、核心になかなかはいらないタイプなのよね、いいじゃない一言で良いのよ」

「と言ってもね……」

「どうせ『本日はお日柄も良く……』とか『最近クラスの様子はどう?』とか余計な事からじゃないと話を始められないんでしょ、そしてそうやって回りくどくやるから、大事な事話さないまま機会を失ってゆく」

「いや、でもいきなり言うのはおかしいというか、と言うかそもそも誤解だと言うか……」

「言訳無用!」


 妙に力が入ってきたコン子の声は抑制しながらも、いつの間にかかなり大きくなっている。


 通りの周りの人々も、何が起きてるんだといいたげな表情で僕らの事に注目しているが、コン子は周りの視線なんて何にも気にならないようで、構わずにそのまま僕への説教を続ける。


「そう言う、うじうじいつまでも言い訳がましくしてるのがあなたの悪いとこなのよ。ただ言っちゃえば良いのよ!」

「まあまあ、そう興奮しないで……」


「だいたい何よあなたは小さい頃から私が無理矢理言ってやらないと、アイスの種類一つ決めることできなかったじゃない……そうしないといつまでも迷ってしまってソーダ味とイチゴ味のあいだずっとうろうろしちゃって」

「それはそうだったけど、それとこれとは話が別で……」


「別じゃないわよ。そんなんじゃあんた一生、彼女できないわよ、それじゃ私が心配でお嫁にいけないじゃない……」

「いや、お嫁に行かれちゃうのは、それは逆に心配だと言うか何と言うか……」


「何が逆なのよ」

「いや自分でも意味がよく分からないと言うか……」


「ともかく! あなたはいますぐ言わなきゃいけないのよ!」

「何を?」

「決まってるでしょ! まだ言わせる気なの、さっさと言っちゃえば良いのよ」


 コン子は一度言葉を切って、息を吸い込んで、今まで以上に大きな声で叫ぶ。


「『あなたが好きです!!!』

 ……と? って?」


「「あれ?」」


 いつの間にか人だかりになっていた周り。

 血相を変えて大声で叫ぶコン子を見て面白そうな痴話げんかとでも周りに思われたのか、僕らは足を止めた周囲の人たちの注目を浴びていた。


 んっ?


 僕は今の自分たちの様子を冷静になって分析する。

 僕を説教するコン子の声は、かなり大きく周りの注目を引いていたが、この雑踏の中では周りに会話の詳細が聞こえている程ではなかっただろう。少年と少女ががなにを揉めているのかなと思って野次馬根性で聞き耳を立てていた人達は多かったかもしれないが……

 ミクスさん含めて、一番近い人でも数メートルは離れていたので、中身の詳細が聞き取れる程ではなかったと思う。

 しかし最後の叫ぶように発した声は……?

 もし途中の会話がすっ飛ばされて、最後の言葉だけ回りに聞こえていたのだとすると?


「なんだ女はもうデレたか」


「こんなところで良いものを見せてもらった」


「いまどきこんな典型的ツンデレ見せてもらって私得した気分」


 妙にシーンとした街角。周りの人々の漏らす声がやけにくっきりと耳に入る。

 僕とコン子は思わず目を合わせ、両方ともが同じ事を考えているのを確認する。

 二人でゆっくりと周りを見回してみると、みんなの暖かい視線に包まれていて、次に拍手が巻き起こり、


「なんだ男どうした」


「女を泣かす気か」


 とかヤジも飛ぶ。

 コン子の顔が真っ赤になり、つられて僕の顔も真っ赤になってくるが、

「カケルの馬鹿ああ!!」と言う声の後、腕を引っ張られて、僕らはその場から駆け出して逃げる。


 振り返ると、ミクスさんは僕らを応援してるわよとでも言いたげな優しい笑顔で手を振っている。ああ、なんかこっちにも大きく誤解されてしまったかな、と僕は思いつつ、引きつった笑顔で僕はミクスさんに手を振り返し……


   *


 僕らは——僕とコン子は——繁華街の外れにあるファミレスにいた。

 騒ぎの現場から走り去った僕らは、何度も何度も、交差点の角を曲がり、小さな路地に入り、同じような場所をぐるぐると何度も回っていたが、騒ぎの目撃者達を完全に振り切ったとコン子が確信できてやっと、そこに調度良く現れたファミレスの中にとりあえずは逃げ込んだのだった。


 そしてそこで説教を受ける僕。


 ミクスさん以外で騒ぎに居合わせたのは見ず知らずの通りすがりの人達だ。僕らの事なんて、もう誰も気にしてないと思うのだが、まだコン子は気になるらしい。


「ああ恥ずかしい」とか何度も言いながら、コン子はまだ顔を赤くして、怒ったような口調で僕に説教をし続けている。

「まったく、カケルのせいで、なんで私が恥ずかしい思いしなきゃいけないのよ」


 ほぼ百%お前のせいだろと思いつつ、反論したら余計に説教が長引きそうだと思って、僕は適当に相づちをうつが、

「……ほら、カケル反省に心がこもってない。あの場にミクス以外の同じ高校の人がいたらどうなっちゃってたと思ってるの。へんな噂がたって私の身の破滅よ」と。

 なんで僕と噂立つと身の破滅なんだよと、それは大げさ過ぎるだろと思いつつ、

「——って、ミクスさんはいいのかい? へんな誤解してそうな雰囲気だったぞ」と僕。


「いいのよ。あの子には私が後で誤解を解いといておいてあげる……なに? やっぱりミクスさんに——私とそう思われたんじゃないかと心配?」とコン子。

 あれこいつ怒ってるだけでなく少しすねたような顔をしてるけど……

 なんで?

 と思ってもう一度しっかり顔を見ようとすると、コン子はさっとメニューで隠す。

「……ハンバーグのランチだけじゃ許さないからね……これ」


「は?」

「パフェもつけてね、ランチのちっちゃなパフェじゃ駄目だよ。この……」

 コン子が指差しているのは

「スペシャルフルーツパフェ全部盛り!」


「えっ?」

「何? どうかしたの」


 おいおい、これってカップルが一緒に食べる用で、お前一人で食べるようなもんじゃないだろうに。でもまっったくそれに気づいてないコン子。

 指摘したら逆切れされそうだし。ああ、コン子がパフェ指差したの見て隣の席のおばさん達が「あらあら」と言うような目をしてるよ。

 ちょっと気まずい。

 ……気まずいが、ここはこのまま気付かないふりをするのが良い。

 それが一番事を荒立てないなと思った僕は、

「いやなんでもない。それよりそれはいくらするんだよ」と言って自分のメニューを見る。

 と、


 うわっ……


 このパフェは千五百円もするのかいな。

 それで自分のランチも頼んだら……


 金あったかな? 

 と思って財布を確かめる僕。


 すると、

 あれやたらと金が入ってる……?


「——ん? まずい!」


 その理由に気付いて思わず青くなってしまう自分。


「まずいってなにが? まだ料理は何も来ていないけど」とメニューを下げて僕の事を疑わしげな目で睨みながらコン子。

 そうだ——この騒ぎで、すっかり忘れていたが、僕はジャンク屋に買い物に行く途中だったのだ。あのやる気のない店は、夕方までには閉まってしまうので——


 僕は腕時計をちらりと見る。


 今は午後三時半。


 あの店までここから自転車で三十分だが、気まぐれに四時過ぎに店を閉めちゃったりするからもうぎりぎりではある。ああマズい。

 僕は約束破った時の父さんの怖さを考えて僕はぞくっとなって、すぐに出発しようと思わず腰を浮かすが……


 その僕の心を見てか目の前のコン子の目がギラリと光るのにもぞくっとなって——

 どうすりゃいいのと頭を抱えて逃避するように見た窓の外に……

「あれ?」と僕は思わず声を出す。


「なによ、どうしたの」


 僕は窓の外の通りの向こうを指差しながら。

「あの男の人、さっき僕の自転車の前を横切ったんだけど……」

「あのオジサン?」

「なんかやたらと怒りながら街中を歩いてたんだけど……」

「大方、奥さんと子供に逃げられた駄目親父ってとこじゃない……なんかデリカシーのない横暴親父みたいな感じに見えるわ」

 通りの向こうでギクッという男が聞こえたような気がした。


 しかし、

「いや、僕が言いたいのはそうじゃなくて……」

「何?」

「あれ危ないんじゃない?」


   *


 その男はむしゃくしゃしていた。彼は通りを下を向いて歩きながら、ぶつぶつと呪詛のような口調で呟いていた。


 ——悪いのは俺じゃない、あの俺を無視する連中が悪いんだ。

 ——家族も、職場も、みんな……そうだおれを妬んでるんだ。

 ——おれが全部優れているのを妬んでるんだ。そうだおれは悪くない。

 ——なんだ、たかが殴ったぐらいで。

 ——仕事さぼったあいつが悪いんだ。やめさせるならあいつを止めさせろ。

 ——しつけだ。

 ——子供なんて殴られて育つんだ。それなのに俺を非難するような目で見やがって。

 ——妻だからっていいきになるなよ。本来なら土下座し戻って来るのはあっちの方なんだ。

 ——もう一週間も戻ってこないとは何のつもりだ。

 ——なのに……

 ——寂しい?

 ——俺が?

 ——まさか? 後悔している? まさか?

 ——俺は……

——そんなの認めない!!!


 男は大声で叫ぶと、ガッツポーズのような握りこぶしで顔をあげた。

 その瞬間に彼の身体は黒い不定形の霧のようなような物に包まれ始めた。その霧は彼の身体と解け合って、固まり、おどろおどろしい異形の姿に変えて行った。


 腕は、その先に毛むくじゃらの大きな拳をつけた、粘液のしたたる軟体動物のような触手に替わった。その触手は背中から何本も、何本も新たに生え、怒りのまま道路を殴り、アスファルトが砕け散った。足は、退化するかのように、小さく細くなり、替わりに腰の辺りから背中にかけてが大きく伸び、地面を這うように歩き始める。


 まるで大きなナメクジが歩いているかの様だった。

 人間の、怒りに醜く歪んだ顔をつけ、次々に現れては消える触手で、世を恨むように、辺りの物を殴りながらそれは進む。


 ガードレールが引きちぎられて宙を飛んだ。電柱が倒されて車の上に落ちた。


 悲鳴が上がる。


「業羅だ」と誰かが言った。

 無魔、そう、それはこの怪物の事だった。

 醜く歪んだ怒りを発散させながら、周囲の人々が逃げ惑うその中に、ナメクジのような姿らしからぬ素早さでそれは追いつき、人々を傷つけようと次々に触手を繰り出す、それは、一瞬前まで人間であったそれは——吠えた。


 もはや人間の言葉ではなかった。

 怒り狂う野生動物、いや伝説の中の悪鬼のごとく、それは周りの人間達に向かって吠えていた。

 その声だけで、近くのビルのガラス窓は割れ、それを見て腰を抜かし倒れてしまった小学生くらいの少女二人がいた。


 怪物は少女達を見つけると、嬉しそうに舌なめずりをしながら近づき、必死に逃げようと這って進もうとする二人の逃げ道を塞ぐように、何十本という触手を伸ばし二人を囲んだ。


 悲鳴。

 

 銃声。


 この騒ぎを聞きつけてやって来た警察の撃つ銃は怪物にはまるで効き目は無い。


 それもそのはず。この業羅は、自衛隊が完全装備でやってきてもその攻撃をあっさりと撥ね除ける化物なのだから。街の警察の攻撃程度では気をそらす、ちょっとの時間稼ぎ程度にしかならない。

 なので事態は——今のこの状況は絶望的に見える。


 この怪物に立ち向かえる者がこの場にはいないのだ。


 また悲鳴。

 警察の攻撃にも飽きた業羅は、触手の一つであっさりと警官をなぎ倒すと、再び二人の少女を絡めとろうと進む。

 じらすように少しずつ触手の間隔を狭めて。

 少女達は絶対絶命のピンチに……


 しかし——その瞬間。


「あれは?」


 空に光る物があった。

 空には、高くから、まるで宇宙から、まっすぐに落下して来たかの様に、その怪物に向かい迫る、銀色の円筒形のミサイルのような物があった。

 人々は、空を見上げ、

「ウェブレイド!」

「パラダイスロフトだ」

 と口々に言う。


 ウェブレイド、それは何者か? パラダイスロフトがこの円筒形の名前なのか?

 ウェブレイド、パラダイスロフト、それは市民達の味方なのか、この怪物、業羅の味方なのか? 

 空よりきたる、その物体は果たして、何をしにやって来たのか?


 猛スピードで急降下、大きな振動とともに、パラダイスロフトと呼ばれた物体は、少女と怪物の地面に着陸する。

 それはそのまま、沈黙して、しかし無言の圧力を怪物、業羅に与えているようだった。

 業羅は動きを止め、触手を引き戻すと、それを睨む。


 一瞬の沈黙がその場に生じた。

 突然の静寂に、見守る市民達も息を飲む。その場に張りつめる緊張——しかしそれは長くは続かない。


 業羅は、少し考え込むような雰囲気になって数十秒、ついに心を決めたようだった。

 業羅は、自分の楽しみの邪魔をした、その円筒形のロケットのような物——パラダイスロフトに向かって、雄叫びをあげると、拳のついた無数の触手をものすごい勢いで伸ばしはじめたのだった。


 その触手がその勢いのままにぶつかったならば、いくら頑丈そうに見えるそのパラダイスロフトでも無事では済みそうにないと見えた。その触手の勢いは、先ほど、街中の何もかもを吹き飛ばしたものであるのだ。


 しかし、パラダイスロフト側も次の行動を取る。

 業羅の触手が筐体に到達しそうになった瞬間、その真ん中がぱっくりと開き、突然飛び出したバルカン砲から銃弾が放たれたのだった。


 銃弾の雨を浴びた業羅は吹き飛ばされ、地面を二三度転がる。

 そして尚も撃ち続けられる、その銃撃に、業羅はそのままもっと遠くまで転がって行く。


 ——が、業羅はもう二三度転がった所で、触手を巧みに使い、回転を止める。

 そして、すぐに立ち上がるとまた触手を伸ばし、それはまたパラダイスロフトに向かい伸び始める。


 パラダイスロフトからも、いまだ銃弾が放たれ続けては入るのだが、触手の先端が変化した無数の触手により阻まれていて、業羅は、じりじりと、近づいていた。

 このままではそのパラダイスロフトは業羅と言う怪物に捕われてしまいそうだった。


 しかし、ならば、このまま、砲撃が効かないのであれば、パラダイスロフトには、もはや打つ手は無いのだろうか?

 業羅はまた我が物顔で街を暴れ始めるのだろうか?

 円筒形の後ろで震える少女達はついに業羅に捕われてしまうのだろうか?


 いや——見守る人々は知っていた。これで終わりではない。

 実のところ、始まってさえいない。今はまだ始まる為の準備段階にすぎないのだった。

 そのため、その準備のため、その時間を稼ぐために、円筒形の底部が下に向けて開き、中から何やらパワードスーツの様な物を身につけた男女二人がそこから現れる。


 男女は明らかに生身の人間の出せる速度を超えて怪物に向かって走り出すと、右へ左へとジグザグに走りながら、捕まえようと伸びる触手をくぐり抜け、二人ともほぼ同時に怪物の真横にまで到達した。

 そして、抱えていたランチャーからロケット弾を発射。

 そのロケットは怪物の身体にめり込み——業羅は、一瞬その動きを止め——爆発。

 爆風はパワードスーツの二人により展開された包囲フィールドにより押さえ込まれ、押さえ込まれたフィールドによりさらに勢いの倍加した爆発により業羅はさらに激しくその身体を切り刻まれる。


 爆発が終わると、路上には、切り刻まれ、無数の破片へと分解された業羅の姿があった。

 ——しかし、それはまだ生きている。まだ終わりではない。

 その事を知るパワードスーツの二人も油断なく業羅の残骸に向かって構えていると、散り散りとなった怪物の破片は不気味に脈動を始めた。


 破片はそれぞれが自律的に動き出す。

 地面を痙攣するように跳ね回りながら、それぞれが小さな触手を出し、近づいたら破片どうしが互いに引っぱり合いながら融合し、渦のように回りながら、それはまたどんどんと大きくなった。

 それは、いつのまにか、またさっきと同じ、ナメクジのような怪物の姿に戻っていた。


 業羅は、先ほどにも増した、怒りと怨念に満ちた叫び声をあげる。

 しかし、それを見守る人々は、少し緊張した表情を浮かべるが、誰もまだ希望を捨てていない。この円筒形——パラダイスロフト——に乗ってやって来たウェブレイドは、この怪物に対する特殊部隊は、まだその最後の手を出していないのだった。

 周りの誰もが「それ」を期待し、待った。

 息をのみこみながらその瞬間を誰もが待ち望んだのだった。


 しかし「それ」はまだなのだろうか、怪物はまた触手を天に向かい伸ばし、今にもまた攻撃を始めそうな様子。

 怪物の前のパワードスーツの男女二人は、地面に倒れた少女二人を守るように怪物の前に立ちふさがると、またランチャーを構え次の攻撃に備えるが、その瞬間……


「はあい、お待たせ。準備完了。リップちゃんとマット君、もう大丈夫よ。女の子をつれて下がってね」と言う声。


 声は、銀色の円筒形、パラダイスロフトの中から聞こえて来たようだった。

 そして、声に続き、円筒形の姿が変形して行く。

 まずは両脇に、支柱のような棒が飛び出して地面につっぱると、その上に高さ十メートルはありそうな正方形の箱がはり出してくる。

 箱にはネットが張られその奥には沢山の円形の部品が整然と並べられ表面を覆っていた。

 それはスピーカーだった。

 それはたくさんのスピーカーを並べ作られた巨大なサウンドセットであり、そこからはすでに太いベースの音が漏れ始めていた。

 その音を聞いた業羅は飛び出させた触手の勢いを一瞬弱め、その隙にパワードスーツの男女は少女達を抱えてその場から後方に飛び去った。


「さあ、始まるよ」


 スピーカーからはベースの音に合わせてシンセサイザーの奏でる幻想的なメロディーが聴こえ始めた。

 続けてドラムのハイハットの細かく刻む音がだんだんと大きくなり……


 パラダイスロフトの一番上からはせり上がるように、男女二人が現れる。

 男は下を向いてディスプレイのついた何か機械のような物を操作していて、女はマイクを持ってニコニコと笑いながら眼下の怪物と遠巻きの街の人々を優しい目で見つめている。


「みなさん、今日は到着が遅れまして申し訳ありません。対業羅特別攻撃部隊ウェブレイドのランです。今日はこの戦いのMCを勤めさせていただきます。よろしくお願いします」


 すると周りから歓声が上がる。

 さらに喜ぶ、声。


「なんだランが来てくれたんじゃないか」

「あの子なら実力も人気もナンバーワンだ、今日はこれでもう安心だ」

「わあ、最悪な休日だと思ったけどランが見れたんなら逆にラッキーなんじゃないの」


 あちこちからほっとしたような安堵の声が上がる。


 しかし、

「でもMCだけじゃ業羅は倒せないぞ、今日の……は誰?」とまだ不安の声が残るのだが、

「はい、みなさん。安心してください、今日は私はとびっきりの腕利きを連れてきましたよ」と言う声に群衆はまた沈黙し、

 しかし期待して待ち……


「……今日のDJは……エイト!!!」


 DJの名前が告げられたその瞬間、人々は今までで一番の歓声を上げた。

 そしてDJは顔を上げ人々の歓声に応えながら、手元のコンソール(それは対業羅用に改造されたDJミキサーであるのだが)のつまみを回す。


 四つ打ちのバスドラムがスピーカーから流れ出す。

 そのリズムに合わせ、細かく動かされるフェーダーにリズムは素敵なグルーヴをかなで始め、

 ブレイク……そして始まるレゾナンスのかかった電子音の連続。


「カモン!」ランと呼ばれた女が叫んだ。


 街の人々はたまらずに踊り出した。

 そして業羅と呼ばれた怪物は身動きもせずにその場にじっとしている。

 しかし無数に生えていた触手は力なく地面にむかってしなだれて、さっきまでと違い、何か考え込んでいるような様子であった。


「みんな——みんなのグルーヴが業羅を倒す助けになるのよ。さあ、踊りましょう」


 ランはフライングブースと呼ばれる対業羅用強襲型兵器のDJブースの中で、曲に巧みなラップを入れながら踊り始める。


 その様子を見ていた周りの人々も歓声を上げながら踊り始める。

 ——そして数分間、

 エイトと呼ばれたDJのかける曲は、いつの間にか二曲目へとつながれて行く所だった。

 二つの曲のピッチをあわせ、低音と高音のバランスをうまく取りながら、スムースに、しかしスムースすぎない、心にひっかかる揺らぎも残しながらエイトは曲をつないでゆく。


 このミキサーには、ピッチを合わせる機能はもちろん、音響のバランスを取る機能、適度なピッチの揺らぎを与える機能、今までの業羅との戦いで蓄積されたデータにより導かれた、自動で最適のミックスを行えるような調整がなされていた。

 しかしエイトはその機能のほとんどを使わずに手動でミックスを行っていた。

 自動でも、殆どの場合、対業羅で十分な効果はあるはずなのだが、平均的な予測と現場の微妙なずれが効果が出るまでに時間がかかってしまうかもしれない。

 その間に起きるかも知れない人の犠牲をエイトは嫌う。

 なので現場で空気を肌で感じ、その場に合わせたミックスを行うのだ。

 それが彼のやり方であり、彼を世界で有数の対業羅DJとして際立たせていたのだった。


 この男にかかっては業羅もなす術がない。

 彼の作り出す音空間により捕われて、業羅は身動きができなくなっていたのであった。


 そして、そんな状態のまま、いつのまにか曲は三曲目、じっと身動きしなかった業羅に少し変化が見られ始めた。

 エイトのかけるエレクトロハウスに合わせ、触手が波を打つように揺れ始めてきたのだ。


 エイトは四曲目の用意をしながら、今回の業羅の反応するポイントを探って行った。


 ——レゾナンスのかかった電子音でより大きな身体の揺れが生じているように思える。

 ——リズムのブレイクではそれほどの反応はない。

 ——ベースを抜いて、高音を強調する変化をつけた場合にもやはり大きな反応をしめす。

 なるほどそれならば……


 エイトは「マッシーヴ!」とかいって群衆をあおっているランにアイコンタクトをして近くにこさせると、耳元で、


「次の曲で決めるぞ……あれを」と言う。

 頷くラン。

 そして三曲目に四曲目のビートが混ざり始めたとき、ランはMCを止めて、大きく深呼吸をすると、ゆっくりと、歌い始める。


 始まるのは、エイトが作ってランが歌う、対業羅用聖歌( アンセム)、トラックナンバーET101、通称エレクトライバルだった。


 曲名がモニターの上に点滅する。

 エイトがフェーダーを切り替える。

 ドラムロールが始まり歓声が上がる。

 呪術的で強烈なドラムに乗って、モジュレーションのかかった電子音が飛び回る。それに、ソウルフルなランのボーカルがからみ、両者が混じって混濁したカオスの中で、声も電子音も共振して高く高く上ってゆく。


 三曲目ですでにかなり踊り始めていた業羅は、この曲が始まって、狂ったように身体を揺らし始めていた。あれほどおどろおどろしく地を這い回っていた触手も、今はリズムに合わせ、整然と揺れていた。

 怨恨におそろしく歪んでいた顔も、和み、笑みさえ浮かべ始めていた。


 次第に業羅の、その怪物の様相は変わり始めていた。

 触手は、少しずつ、草の茎のような物に変わって行った。

 纏っていたどす黒い黒い霧のような妖気は、晴れて、光に変わって行った。


 体は融けるように崩れ、薄く、広がりゆく。

 それは、まるで太陽に照らされて輝く草原に変わりつつあるように見えた。

 業羅は揺れた。音楽に合わせて——業羅の変わりつつある——その草原は、何時のまにか花をつけ、音楽に合わせて緩やかに揺れていた。

 業羅は、ますます広がった。遠巻きに眺め、踊っていた人々の元にもその草原は近づきつつあった。


 それにびっくりして後ずさろうとしてしまっている者もいたが……


   大丈夫、怖くない


 ランの歌う歌詞の一部だった。


   何時だって思い出せる

   君はすべてをくれた

   僕らは覚えている

   君がいた

   その場所を

   

 歌に勇気づけられて、広がる草原から逃げかけていた人も、そのまま踏みとどまって踊り始める。

 草原はますます広がり、輝きはますます増した。


   永遠に

   ひとりなんかじゃない

   僕らは踊る

   君にあげる

   この感情を

   すべて


 歌詞が止まり、美しいシンセのドローンが響く。

 歓声が上がり、美しく清浄なその草原の中に、人々はどんどんと入り込んで来ていた。

 踊りながら、その中心にむかって歩き集まって来た。


 もはや誰も何の危険も感じていなかった。

 穏やかな気持ちでただ音楽を楽しんでいた。

 人々は森の中心を囲むように輪を作り、その輪は次第に狭まってゆく。

 そして、その中心にいるのは呆然とした表情で寝転がっている男——業羅へと変貌したあの男だった。


 人々は男に少しずつ近づく。

 しかしちょっと前まで業羅となり、暴れ回っていた男に、人々は少し警戒しているようだった。

 誰も、ある一線を越えては男に近づかない。


 もしかしてもう一度業羅に変わるのを警戒しているのだろうか。

 呆然とした表情の男は、その様子を見て、納得しつつも、少し悲しげな表情を浮かべている。


 男は薄くなっていた。

 まるでこの森に捕われ、吸収されるかのように、その存在が消えて行くように見えた。


 しかし、人々の輪から抜けて、その男に手を差し出した少年がいた。


 ——カケルだった。


 男は少年の手を掴むと少しバツの悪そうな表情をしながらも、立ち上がり、頷くと、皆と一緒に踊り出した。彼はこの事態を引き起こしたあの男であり、ちょっと前まではあの怪物であった男であったが、今は恨みもつらみも虚飾も傲慢も、余計なものをすべて消した、ただそこにあるだけのもの——全き人間であった。


 彼は悪夢ののなかから帰還し、現実に帰るための、一時の微睡みにある、生まれて来てすぐの赤子のような、白紙ダブララサとなった人間であった。

 男は楽しそうに踊り、周りもそれを受け入れた。


 業羅と言うのは誰でもがなり得る、災厄であった。

 業羅となった事の罪は問わない——その前の罪が無くなるわけではないが——それがこの世界でのルールだった。


 男は自分の過去を受け入れ、そして今、それでもそこで立ち上がった。

 ともかくは踊ろう。

 そしてまた始めよう。


 それがこの世界のルールだった。

 カケルは微笑み回りを見渡し、コン子と目が合うとさらに親しげな笑みを浮かべた。


「踊ろう」とカケルは言った。

 コン子は頷く。


 いつの間にかその横に来ていたミクスさん(業羅が現れたと聞いて人間に戻す為のパーティに参加しなくてはと駆けつけて僕らを見つけたらしい)。


 僕らは三人とも目が合いニッコリとしながら首肯する。


 そして、パーティは続く。業羅が変わった森が世界に混ざり合って消え去るまで間。

 穏やかな春の日のこの思いがけない災厄の終わった後のパーティは楽しく、心地良く、この後もしばらく続くのだったが……


   * 


 業羅が消えるまでのパーティをパラダイスロフトから見ているうちに、ランはある者の存在に気づき、次の曲を選んでる最中のエイトのそばに行くと、そっと耳打ちをする。

 ランは人々の先頭で楽しそうに踊っている一人の少年を指差していた。


「もしかしてあの少年」

 エイトは微かに頷く。

 すると、

「……やっぱり!」と嬉しそうな声でラン。

 エイトはもう一度、確認するように大きく頷いた。


 そして、再び無言となった二人が見つめるその視線の先にいるのは、先頭で楽しそうに踊っている少年、

 ——カケルであった。


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