君がくれた出逢い(2)
***
咲也が不登校になったのは怪我が原因だった。
彼はテニスが好きで、幼少の頃からラケットやテニスボールで遊んでいたのだと言う。中学ではそれなりのいい成績を残していて、高校最初の大会では一年生ながら入賞することが出来た。
しかし利き腕の調子が悪く、大会後に受診してみれば肩や肘に異常が見つかった。日常生活に問題はないが、テニスを続けることは難しい。
ずっと側にあったテニスと別れる選択を迫られて、学校に行くことさえ苦痛になって不登校となった。
「改めて考えてみたらさ、テニスを取られたらなにも残らないんだよ。おれ、すごく成績いいわけじゃないし、人付き合いがいいわけじゃないし、仲間と呼べる奴もあんまいなくてさ。怪我したって言ったら、部活の奴らみんな離れていったよ」
「……そう、なんだ」
掛ける言葉が見つからなかった。慰めるのも、励ますのも違うと思ってしまい、花奈は思った以上に冷たい言い方で質問していた。
「そのこととジャックと、なんの関係があるの?」
「あー。それは……」
二人は寒さから逃れるためにコンビニエンスストアにいた。その一角、カフェコーナーでミルクティーを飲みながら、花奈は咲也の言葉を待つ。
同じくコーヒーを飲んでいた彼は少し俯いて、どこか赤らんだ顔をしていた。
「実はジャックのこと、知ってんだよ」
「知ってる?」
「あいつ、脱走して一週間帰らなかったことあっただろ?」
花奈は思い出していた。
それは春頃。散歩の途中でうっかりリードを離してしまい、ジャックと離れ離れになった。
どんなに捜してもいなかったジャックは、一週間後に家の庭で遊んでいるところを発見した。
「学校の近くにいてさ。リードついてたから、飼い主捜してたんだ。しばらくおれの家で預かってた」
初めて知ったジャック謎の一週間。必死に捜していた自分とは裏腹に、違う場所で楽しんでいたのだと思うと、急に可笑しくなってきた。
「それで?」
「あいつに助けられた。ちょうど落ち込んでた時でさ、傍にいてくれたんだよ。ジャック」
毎日、咲也に散歩を要求して、ご飯を要求して、気楽に過ごしていたジャック。飼い主のところへ帰る気配もなく、気がつけばジャックの世話が日課になっていた。
だから咲夜は知っていたのだ。ジャックが好きな散歩の場所がどこなのか。
商店街でじっと待つ素振りから、花奈が好んでそこを通っていたこともわかったのだと言う。
「でさ、なんか落ち込んでるのが馬鹿らしくなってきて。用事済ませて帰ったら、ジャックいなくなってたんだ」
そして、いつの間にか花奈の所へ帰ってきていた。確かに行方不明だったというのに、ジャックは汚れていなかった。
そういうことだったのかと、ジャックを撫でたくなった。
「気のせいかもしれないけど、ジャックが勇気くれた。元気になったから、安心して帰ったのかなって」
「そうかもね」
花奈はふと思って咲也を見つめた。
「じゃあ、なんで学校来ないの?」
「あ……それは、なんとなくタイミングが」
「ジャックが悲しんでるわ、きっと」
「……うん、わかってるけど」
「じゃあ、さ」
花奈はその時、なぜそんな風に思ったのかはわからなかった。
ただ、ジャックが心配して咲也のそばにいた。前に進む勇気をくれたのだと言うのに、言い訳をして進むことを拒み続ける咲也が気に入らなかった。
ジャックの行動を、一週間を無駄にしたような気がして、花奈は腹が立ったのだ。
「どうかな? わたしの考え」
「本気で言ってるの? なんでおれのため――」
「違う。ジャックのため」
まるでジャックの後を継いだような気分だった。
花奈にとっても、第一歩。咲也にとっては大きな一歩だ。
***
降っていた雪が花弁に変わった春の日。進級した花奈はホームルームが終わると、職員室の前にいた。
それぞれが部活をするために教室を離れていく。廊下はあっという間に静かになった。
「失礼しました」
待っていた人物が出てきたのを見て、花奈は笑った。
「行きましょうか、後輩くん」
「全く。カッコつかねえ」
咲也は笑顔で花奈の隣に並んだ。そのまま歩き出す。
ずっと学校を休んでいた咲也は、進級することはかなわなかった。一年からまたやり直すことになり、一度は退学を考えた。しかし、花奈の説得で頑張ることを決意したのだった。
「花奈ちゃん、よかったの?」
「なにが?」
「部活だよ、部活」
「わたしが決めたことよ。あそこにいたら、辛いことを思い出すだけ」
花奈は部活を辞めた。あの日にすぐ帰れなかったせいで、ジャックの最期を看取れなかった。
それは今でも傷として残っている。とても、あの場所ではやっていけないと思ったのだ。
「ここにきて、新しいことを始めるなんて強いな。花奈ちゃんは」
「ジャックのお陰よ」
「なんか、ジャックに妬けるな」
「なに、それ」
咲也の顔がみるみる赤くなっていく。顔を見られないように背く咲也に、なぜか自分も熱くなる。真っ直ぐに目を見られなかった。
「一目惚れ。だけど、ずっと勇気なかったから」
言葉を選びながら話す咲也。花奈は黙って聞いていた。
「……ずっと好きだった」
立ち止まる咲也を置いて、花奈はスタスタと歩いていってしまう。失敗したとガックリ肩を落とした咲也はそれでも花奈を追う。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「なに?」
「なんで、わたしのこと知ってたの? 」
「ああ、言ってなかったっけ。商店街で花奈ちゃんとすれ違ったから。ジャックと散歩してる花奈ちゃん見つけてびっくりしたんだよ。花奈ちゃんのところの犬だったのかって」
「そうなんだ」
「揚げ物屋のおじさんが、花奈ちゃんって呼んでてさ。それで――」
外に出ると、すでに部活動を始めている姿がちらほらとあった。
花奈は急ぎ、グラウンドを横切り、奥にあるテニスコートに足を踏み入れた。咲夜もそれに続く。
――ジャック。あなた、こうなることわかってた?
すでに新入生や先輩たちがコートにいた。今日は挨拶だけなので、みんな制服を着たままだった。
「遅いぞ!」
「すみません」
顧問に呼ばれて二人は駆け足で、その中に混ざった。
「じゃあ、軽く自己紹介をするぞ」
隣にいるのはジャックが引き逢わせてくれた人。ジャックがいないことに涙してくれた純粋な男性。
風が二人の間を通り過ぎた。桜の花弁が舞っている。
たかが部活動。でも、この場所が最高の舞台になるように祈っていた。咲也のためにも、自分のためにも。
「次、マネージャー」
「はい」
咲夜が進み出る。
「プレーヤーとしては引退しましたが、マネージャーとしてバックアップしていきたいと思います。よろしくお願いします!」
「二、三年のみんなは知ってるな。マネージャーではあるが、コーチ役としてもやってもらおうと思っている。まだテニスに馴染んでいない一年は、こいつから学ぶことになるからな」
顧問が付け足すように咲也の紹介をした。
「じゃあ、次! 念願の女子マネージャーだ」
「初めまして。マネージャーとして今年からやらせてもらいます。テニス経験は少しだけなので、これから頑張って勉強していきます。それから――」
花奈は決意した。
あの日、テニスから離れることを考えていた彼を救いたくて考えたのは、もう一度コートに戻ることだった。
プレーヤーではなく、マネージャーとして戻ることがどんなに辛いことかはわかっていた。表舞台から姿を消すことは、咲也にとって苦痛でしかない。今までライバルだった彼らと同じコートには立てないのだから。
でも、咲夜を最も傷つけることはテニスから離れることなのだ。それは咲也自身が話をしてくれた。
ならば、やってみようと咲也を誘った。
辞めるなら辞めていい。辛ければ逃げてもいい。一つのことが出来なくなったからと、全てを諦める必要はないのだ。
彼には実績がある。違う道を模索して、苦悩して、がむしゃらに歩いて、走って。その先に"逃げ"があるのなら、それは彼が頑張って選んだ道だ。間違いではない。
地に足をつけて歩いた咲也が必死に生きた証だ。誰にも馬鹿にさせない。
だから、花奈も一緒に歩こうと決めた。隣にいようと思った。
――先に、卒業しちゃうことになるけどね。
常に一緒だったジャックがいなくなり、まるで闇の中にいるようだった。一人になってしまったような虚無感の中に見つけた光。それを見守りたいと花奈は思った。
「ねえ」
自己紹介が終わり、解散となったところで咲也が話しかけてきた。
「答え、聞いてないんだけど」
「じゃあさ、もう一度言ってくれる?」
彼、咲也のことはまだよく知らない。
しかし、ジャックが二人の間を走り回っているような気がしていた。
「また言わせるのかよ」
「嫌?」
「意地悪すぎるだろ」
そう言いながらも、咲也は花奈の手を取った。
「付き合ってくれますか?」
耳まで赤くして目を閉じる咲也。そんな彼に惹かれたのは、一緒に歩こうと決意したあの時だった。咲也の不登校の理由を聞いた後だ。
「好きだよ。あの日から、ずっと好きだった」
花奈が言うと、咲也の表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ、付き合ってくれるの?」
「はい」
ジャックが導いた最高の笑顔。最高の出会い。
――これから先。きっと、もっとあなたを好きになる。
花奈はそんな予感に微笑んでいた。
二人の笑顔が花開く。
咲きほこる彼らを祝福するのは、笑顔を導いたジャックと晴れた空に舞う桜だった。
4話目ですが、あまりに長くなりすぎてしまったために2つに分けました。
愛犬ジャックが導いてくれた出逢い。
犬を軸にしたストーリーを考えて書きました。
他サイトで公開したものを大幅に修正しました。