届かない声は距離のせい(1)
寒くてどうしようもない朝。肩にかかる髪も冷たくて、晴香はぎゅっとマフラーをしめ直す。
久しぶりに晴れたとはいえ、冬真っ盛りの今日は登校するのが苦痛になるくらい。仮病でも使って休みたくなるのを我慢して、歩いている学生の波に晴香も加わった。
一週間ほど前に降った雪が交差点の角に集められている。近々、また雪が降るという朝の天気予報を思い出して、晴香は高校に行くことが急に憂鬱になる。
雪は好きではない。特に晴れた日、道に積んである雪を見ると異常なほど眩しい。キラキラと輝いて、美しさを見せつけられているみたいだからだ。
彼も同じように輝いている。暗いところなどなくて、頼りになって、優しくて、どうしても自分と比較してしまうことに、晴香はますます憂鬱になる。
「ふう」
ため息とともにベージュ色のコートが風にふかれる。さすがに寒さが身にしみ、晴香は首元を押さえた。
いつの間にか足元ばかり見ていたことに気づいて、ゆっくりと頭を持ち上げる。
そこに彼はいた。日に焼けた顔を太陽に向け、恐れることなく両足でしっかりと立つ彼の姿。羨ましいほどに恰好よくて憧れる。だからこそ、晴香は嫉妬してしまう。
自然と人々に受け入れられる太陽が羨ましくて、嫌いだった。
「……おはよう」
「お、おはよう」
待ち合わせ場所にいた彼、光哉は少しだけ穏やかな顔をした。
全体的に短く整った黒髪。日に焼けた肌は応援部に所属しているから。誰が見ても男らしくて恰好いい。
特に夏。晴香は様々な大会でその姿を目にしてきた。
「行こうか」
「……うん」
光哉はすぐに前を向いて歩き出す。晴香は慌てて着いていく。
朝の光は強くて迷いがない。まるで彼のようだと晴香は思う。
その光は優しかったり、厳しかったり、弱く強く。惑わず真っ直ぐに見つめる光哉の瞳を思い出す。
その瞳を信じていた。その言葉に涙するほど嬉しかったはずなのだ。
「ねえ、期末どうだった?」
「それ朝から言いたくないって」
学校に近づく度に人が増えていく。少し前にあったテストのことを話す生徒が増え始めた。
楽しそうな声が飛び交う中で、まるで世界が違うかのように前を歩く彼――光哉。それに数歩離れてついていく晴香。一緒に登校しているはずが、これでは一人で歩いているのと変わらない。
晴香は告白された日のことを思い出す。とても暑い夏の陽射しの中だった。高校二年。長い応援期間が終わったその日に、晴香は呼び出された。
自身も吹奏楽部として、応援部と共に大会があるたび忙しくしていた。だから呼び出された時は、部の伝達事項かなにかかと勘違いしたものだ。
『好きだ』
学校の応援団として活躍する、あの無表情で真面目な光哉が告白など、晴香は信じられなかった。
叶わぬと思って、晴香は想いを永遠に告げないと決意したばかりであったから余計だ。
まさか彼から告白されるなど予想出来るはずもなく、晴香は戸惑うばかりだった自分を思い出す。
それを光哉は断られたと勘違いして、謝って去ろうとしたのだ。晴香が慌てて手を握って止めた。
今はそこまでの勇気がなくなってしまった。うっかり咲いてしまって、雪の底で震えるタンポポのようだと晴香は思う。
『登下校、一緒にいてもいい?』
それは晴香からの告白のつもりだった。好きな人と一緒に学校に行き、手を繋いで帰る。映画やドラマで観てから、晴香は憧れていた。
光哉とそうなりたいと、ずっと思っていたのだ。
しかし。
あの日以来聞いていない、光哉の気持ち。同じく告げていない晴香の気持ち。憧れの登下校は思っていたものと違って、ただ心細くなるだけだ。
――付き合っている意味、あるのかな……。
ふと晴香は思う。
念願の恋人になれたはずなのに、これでは恋人とは言えない。友達とも違う。一体、どんな関係なのか。
晴香は自問自答を繰り返し、もやもやしたまま学校まで歩いた。
***
教室に入ると、二人は当たり前のように離れる。同じ三年のクラスなのに、お互いに違う友達と過ごし、授業中はまた彼の後ろ姿を見つめる晴香。
後ろ姿も嫌いではない。でも、やっぱり隣にいたいと思う。横顔を見ることも叶わないなんて切なすぎる。
晴香は友達と過ごしながら、頭は彼のことでいっぱいだった。
『アイツの家、なんか複雑みたいよ』
数日前に、晴香は友達から噂話を聞いた。彼女は晴香と光哉が付き合っていることを知らない。
『小学生くらいの時に親が再婚して、それぞれの連れ子が兄弟になったとかで。仲はよくないみたい』
その時に初めて兄弟がいることを知った。
『年の離れた兄貴がいるって』
噂話だ。複雑とは言っても、再婚した話が広がって大袈裟になったに違いない。そう思っていたのだが――。
『兄弟喧嘩してたの、見た人がいるんだって。というか、それあたしなんだけどさ』
友達の言うことを信じないわけにはいかない。晴香は酷く落ち込む自分が、よく分からなかった。なぜ、落ち込んでいるのか。
いや、本当は気づいていた。認めたくないだけなのだ。
――彼女なのに、なにも知らない。
お互いのことを知っていって、信頼関係を結び、もっと距離を縮めたい。そう思っていた晴香だが、光哉はそんなこと考えていないかもしれない。
光哉の心がわからなかった。
抜け殻のように空っぽのまま、今日最後の授業。あっという間に時間は過ぎて、授業が終われば下校時間。
「就職コースは話がある。多目的室に集まるように。他は教室で自習」
また光哉とは別々だ。晴香は大学進学、光哉は就職。
すれ違いばかりを繰り返し、不安で俯き加減の晴香。そんな晴香の横を通り過ぎて、光哉は廊下に出た。
"光哉のばか"
ノートに書きなぐる。
もやもやした感情が晴香を悩ませる。はっきりと言えばすっきりするのかもしれない。しかし、言ったことで距離が開いていく気がする。言わないまま同じ距離を続けることも、晴香には苦痛でしかない。
今は二メートルくらいの距離。
卒業すればその距離は確実に開いていく。気がつけば届かないところにいるかもしれない。そんな恐怖に苛まれる。