コンソメスープが重たくて(2)
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ブログを始めてから十年。
現在、三十五歳になった瑠美は不況の波にのまれて閉店を余儀なくされていた。
三月まで頑張ろうと思っていたが、それも叶わず一月いっぱいでカフェ・ルミエールは終わる。五年ももたなかった。
ルミエールは光という意味。瑠美の名前の一部も入っていて気に入っていた。そのカフェは瑠美にとっての希望、光だったはずだ。
――人気ブロガーなんて、天狗になっていたのかもね。
過去を振り返り、瑠美は思う。
『美味しい』
『また来るよ』
その言葉が瑠美を幸せにしてくれた。
人を愛せないのなら、お店を愛そうと思っていたほどに仕事が好きになっていた。嫌でしかなかった仕事を初めて愛せた場所がカフェ・ルミエール。
しかし、今では常連客しか足を運ばない場所だ。
静かなBGMが流れる店内にいるのは、やはり常連客。
午後五時。
最終日の今日は早めの六時に閉店。その知らせは店内の壁に貼ってある。
『閉店のお知らせ』なんて、本当に素っ気ない文章だと瑠美はため息をつく。
最近は『美味しい』の言葉すら聞かない。食事の終わった食器を片付けるのも虚しくなってしまうほどに、瑠美は気持ちが後ろ向きだ。
「ありがとうございました」
あと一時間を残して、店内は静まり返ってしまう。BGMが瑠美を慰めるようにひたすら音を出していた。
「いなくなっちゃった」
一人呟いた時だ。カウベルの音がして瑠美は振り返る。
「いらっしゃいませ」
「いつものお願いします」
瑠美と同じ歳の男性客。以前、話をした時に同じ歳だと盛り上がったことを思い出す。
「かしこまりました」
彼も常連客の一人。いつも通り、カウンターの隅に座った。瑠美も厨房に入り、働きながら彼を見つめる。
短髪は乱れがなく、着ているスーツにもシワがない。
脱いだコートを隣の椅子に掛けると、すぐにカバンの中を探り始める。営業をしているからなのか、カバンはいつも重そうだ。やっと見つけ出したのは文庫本。
注文した料理がくるまでの間、彼はいつも読書をする。名前も知らない常連客だが、瑠美は長い間見てきたからわかっていた。
表紙カバーを取り外すのは、大事な本に手垢がつくのが嫌だから。しっかり両手で本を持つのは、極力曲がらないようにするため。
本を愛する彼が言っていたことだ。
「お待たせいたしました」
瑠美はカウンター越しに声をかける。すると、慣れた手つきで文庫本をカバンに入れる。
フォークとスプーンをテーブルに置く。それからナポリタン大盛りとカップに入ったコンソメスープ、サラダを並べた。
「いただきます」
彼は幸せそうな顔をして、ナポリタンを食べ始めた。
時間は五時半。最後の客になりそうだ。
ナポリタンが半分なくなったところで、もう一つの注文メニューを届ける。
「アイスミルクティーです」
「ありがとう」
彼に用意するミルクティーはミルクが少なめで、シロップが多め。それが好みだと知っている。
彼が店に通い始めたのは、開店して間もなく。その日も同じくナポリタンとコンソメスープとサラダ、アイスミルクティーを注文した。
ずっと変わらない注文。
だからナポリタンだけはメニューから外すことはしない。価格も出来るだけ変えないように努力してきた。
「ごちそうさまでした。今日も美味しかったです」
彼がそう言って手を合わせたのは、閉店まで残り十分というあたりだ。
「お会計、お願いします」
「はい」
瑠美はいつも通り、カウンター越しにお金を受け取り、お釣りを渡す。
「ありがとうございました」
長かったような短かったようなカフェ生活がついに終わる。
そう思うと瑠美は切なくなる。
――でも、こんな脱線した人生も悪くないかも。嫌なこともあったけど、それでも充実していたから。
瑠美はふと、カウンター席から立とうとしない男性客に目をやる。帰り支度をするわけではなく、ただ黙って下を向いていた。
「……あ、あの……」
瑠美が恐る恐る声をかけると、彼はやっと顔を上げた。
「瑠美さん。お疲れ様」
「……え」
「今日で終わるんでしょ?」
彼は壁の方を見て、閉店を知らせる紙を見つめている。
「はい。今日で終わります」
「……寂しいな」
「いつも、ありがとうございます。すごく嬉しかったです」
瑠美は彼の目を見つめて言う。すると、なぜか急に切ない気持ちになる。
この常連客とも会えなくなるのだと、改めて思ったからだ。
「僕、瑠美さんのコンソメスープが好きなんです」
「え。ナポリタンじゃなくて?」
「ははっ。ナポリタンも好きだけどね」
笑うとくしゃっと皺が刻まれる。瑠美はそんな彼の笑顔が好きだ。
「すごく美味しくて……」
「他のメニューも美味しいのよ」
「だって……」
彼は言葉に詰まる。
急に顔を赤くして、耳まで真っ赤になる彼。沈黙が瑠美を緊張させた。
「毎日、同じメニュー注文したら。僕のこと、覚えてくれるんじゃないかって思って」
確かにそうだと思った。いつもナポリタンを大盛りで、夏でも冬でもアイスミルクティー。
「確かに、それで覚えたのかも」
「……よかった」
彼はまた笑う。
「僕は瑠美さんの料理が好き」
「ありがとうございます」
「でも……」
彼は勢いよく立ち上がった。そのせいで、椅子がバタンと大きな音をたてて倒れる。
「もっと好きなのは! 瑠美さんだから!!」
六時。閉店時間になった。
彼の後ろにある壁掛け時計が瑠美に教える。秒針が進むにつれて、瑠美は理解し始めた。
――告……白?
BGMが急に消えてしまったような感覚に戸惑う。お互いの心臓の音が聞こえそうで、呼吸の方法も忘れてしまったようだった。
「あ……わたし……っ」
「その。駄目、ですか?」
古いビデオテープを再生するかのように、いろんな彼の姿が思い出される。
初めて店に来た日。
汗だくになりながら店に来た夏の日。
コートを着て、雪を被った彼。
成績が悪くて上司に怒られたと言う彼。
初めて部下が出来たと喜んだ彼。
好きなカウンター席を取られて困っていた彼。
そして、真っ赤な顔をして告白した彼。
――そっか。わたし、気づかなかった。
瑠美は蓋をしていた。
自分の想いに蓋をして、閉じ込めて、二度と出られないように抑えつけていた。
『僕は瑠美さんの料理が好き』
その言葉で蓋が緩んだ。
――彼に恋をしていたんだ。ずっと好きだったんだ。
恋することから遠ざかり、人と関わることを諦めた。全て初恋の思い出があったから。
恋は恐怖でしかなかった。恋をすると傷つくと思っていたからだ。
「付き合ってください!」
瑠美は思う。
自分の作った料理を愛し、相原瑠美を好きだと言ってくれる男性。彼をもう一度、信じてみてもいいのではないか、と。
「お願いします!」
再び言われて、石のように固まっていた蓋が割れ、恋心がやっと動き出す。
重い女と傷つけられた心が癒されていく感覚。
終わりに訪れた始まり。
料理が繋いだ恋心。
重いと言われたコンソメスープは、彼には美味しくて温かいものだった。
彼女は手料理で笑顔になる彼の顔を見るのが好きだった。
嘘ではない。優しい彼の真っ直ぐな気持ち。何よりもコンソメスープが好きだと言ってくれたことが嬉しい。
溶け出した心があっという間に動き出す。
「でも、あなたのことはよく知りません。カウンター越しに話すあなたしか、わたしはわからない」
「じゃあ……」
彼は俯いてしまった。
カフェ・ルミエールは終わる。でも、彼にはもっと料理を楽しんでほしいと瑠美は思う。
「でも、あなたに料理を作りたい。好きな人のために、作りたい」
「え?」
「あなたをもっと好きになりたいから」
たくさんの人に喜んでもらえる料理から、たった一人の彼のために作る料理へ。
店員と常連客の関係を終えて、カフェ・ルミエールを出ていく時。その先に待つ恋人となれるように。料理の力を借りて、彼を知っていきたいと瑠美は思った。
「教えてください。あなたのこと」
「僕も知りたいです。瑠美さんのこと」
手料理は彼のために、幸せな時間は彼と一緒に――。
短編集の一話目。
手料理というテーマで他サイトに掲載していたものです。
2016/11/25 大幅に改稿したところ、長くなったので二話に分けました。