コンソメスープが重たくて(1)
『なあ、教科書見せてくれない?』
大学時代の相原瑠美は、近寄りがたいものがあった。優等生タイプというのか、真面目で曲がったことが嫌い。見た目は清楚で綺麗なのに、几帳面なその性格が勿体ないと思うほどだ。
そんな瑠美に彼氏が出来たのは、入学して半年ほど経った頃。
『授業を受けに来て忘れたのですか?』
『まあ、そう怒らないでよ』
『あきれているだけです』
彼女に臆することなく話しかけてきたのが彼。講義を受ける際、無遠慮に隣に座ってきた。
茶髪で屈託の無い笑顔。両耳にピアスをして、長い指には指輪。腰にはキーチェーンをジャラジャラいわせている。どう見ても瑠美とは不釣り合い。
『見せてくれんの? くれないの?』
『……今日だけよ』
だからこそ瑠美は彼に惹かれたのだった。
初めて出来た彼氏に舞い上がっていた。そんな自覚が持てるほどの経験はなく、瑠美は流されるように彼との時間を過ごした。
それが終わったのは交際一年目。記念日だった。
夕食を振る舞おうと、瑠美は時間をかけて食事を用意した。
唐揚げ、サラダ、スープなど。特にスープはこだわっていて、野菜を煮込み一から本格的に作ったコンソメスープ。
『お前、馬鹿じゃねえの?』
瑠美の住んでいる狭いアパートに、彼の声が響く。その時の引き攣った表情は忘れられないものとなった。
喜んでもらえると思っていた瑠美は、驚きと戸惑いで声が出ない。
『普通にレストラン行けばいいだろ』
『でも……』
『お前、重すぎる。もう、付き合ってらんねえよ』
激しく叩かれたテーブルが揺れ、料理が皿から飛び出す。まるでスローモーション。自分で作ったものが簡単にテーブルから落ちるのを眺めていた。
最後に瑠美が見たのは、去っていく彼ではなくて零れるコンソメスープだった。
常に彼は瑠美に対して思っていたのだ。重い、と。コンソメスープはただのきっかけにすぎない。
『お前、重すぎる』
その言葉は瑠美を傷つけ、恋愛に対して恐怖に近い感情を抱くようになった。そして人を好きになることもなくなってしまった。
人は居心地の良いものを求める。
地面に沈み込みそうな重さを持った人も、重力に逆らってふわふわした軽い人も、なかなか受け入れてもらえないもの。
二人は元々、重さが違う人間だった。だからこそ居心地の悪さを感じる。
でも、初恋だった瑠美にはわからなかった。彼氏がいるという事実が嬉しくて居心地の悪さなど感じなかった。
居心地が良いと錯覚してしまったのは、舞い上がっていたから。
本当に彼を愛していたのか、そんなことまで疑問に思う。瑠美は自分が誰からも必要とされていないと思っていた。
***
その後、普通に就職をしてOLになって働き始める。最初の失恋がきっかけで、人との関わり方がわからなくなっていた瑠美は、職場で浮いた存在になっていた。
要領が悪く、ミスばかりで、仕事を楽しむことが出来ない日々。だからと言って改善出来るほど器用ではなかった。
上司に嫌味を言われるのは日課になっていて、初めての部下はいつの間にか瑠美を抜いて上司になっていた。
退職してほしいという空気が漂う職場に顔を出すだけで精一杯。
必要とされていないことは苦しくて悲しい。それでも瑠美は立ち続けるしかなかった。
そんな瑠美の生きがいは、やはり料理だ。趣味として作っていた瑠美だが、それだけでは物足りなくなった。
そこでブログを始めてみた。作った数だけブログを更新。写真と一緒にレシピを載せる。
瑠美にとっては自分のためにしているただの日記だった。それが続けていくうちに閲覧人数が増え、コメントも書き込まれるようになったのだ。
顔のわからない、誰かもわからない人物からのコメントに瑠美は喜んだ。
異性に凝った料理を作ると重すぎると言われるが、ブログでは違う。
『すごい!』
『美味しそう!』
『他のレシピも期待してます!』
そんな称賛の声が癖になる。辞められないほどに楽しかった。作った分だけ褒めてもらえるなんて、現実ではなかったのだから。
ブログを始めて二年。瑠美は仕事を辞めた。ブログと現実のギャップに、精神的にもたなくなっていたからだ。
アルバイトをしながら、頭は料理のことばかり。ブログは五年以上続き、いつの間にか人気ブロガーとなっていた。
そして激動の日々が始まる。
出版社から書籍出版のオファーがきた。OLとして働いていた時の貯金もなくなり、これ以上フリーターは無理だと思っていた矢先のこと。
もちろんお金のこともある。でも、一番は見てもらえることだ。
ブログだけではなく、本になればもっとたくさんの人に見てもらえる。そう思うと嬉しくて、瑠美はますます料理が好きになった。
そして書籍出版に打ち込んだ。レシピ本としても、エッセイとしても読める本が完成。それだけで満足だった。
だが好調に売れたことで欲が出た。勢いで必要な資格を取り、小さなカフェをオープン。
雑誌に載るほど話題になり、客足が途絶えることがない。瑠美はカフェ・ルミエールを成功させた。