雨曝しの約束
一昨日の日照時間、0分。
昨日も0分。
今日も0分。
天気予報によれば明日も、0分。
気が滅入る。きっと所謂健常者だってこう何日も陽光が射さなかったら身体のリズムを崩してしまうだろうし、いい加減晴れてほしいと思う。雨は嫌いじゃないし、暑いのは好きじゃないけれど。
突っ伏した机から湿気を吸った木の匂いがする。あと鉛筆の匂い。肌寒いくらいにクーラーを効かせた教室で、カーディガンを指先まで伸ばして。どこか懐かしい匂いと心地好い空気の中で、こうやって過ごすのがとても好き。唯一つ、このだるさを抜けば、の話だ。
「コンコン、失礼しまーす」
「よお、優馬。お前ノックする気ねえだろ。今日はどうした? ……も何もねーか。もう日課だな」
「うっす、尾山先輩。冬川先輩のお迎えに上がりました」
「本当お前マメだな」
「そっすか?」
「前は火曜日だけだったじゃん?」
「ああ。この時期、冬河先輩よく体調崩すんで。先輩がオッケーくれれば毎日迎えに来ますよ」
「これでお前らデキてないとか、信じらんねーわ……」
「あっはは、俺らまだそういうんじゃないっすよ」
「まだ、ね。おーい冬河、浅野来てるぞー」
呼ばれてるなあ。起きなきゃなあ。
ちゃんと声は耳に届いている。浅野くんの声によるノック音から尾山くんが声をかけてくれるまで。全部聞いてはいたけど、身体が重くて動くのが億劫だ。今顔を上げたらきっとおでこに赤い跡ができてるんだろうなあ。
もうかれこれどれくらいこうしているか。確か放課後に入って、部活に行くクラスメートたちを見送って、「仕事はやっておくからゆっくりしてなさい!」なんて、すずちゃんに委員会に行くのを阻まれて、それで今出るには雨が強いから少し寝てようかなって。
なんとなく足元がふわふわするし、元々の委員会っていう予定もなくなってしまったし、帰るなら誰かと一緒がいいなあなんて思ってはいたんだけども。タイミングよく(こういうときは大抵毎回)訪れる浅野くんはエスパーなんだろうか。
「ふーゆーかーわーせーんーぱい。冬河先輩。調子悪い?」
「眠いだけ」
「ほんと?」
「うん」
「ふうん……ま、いいや。家まで送っていきますよ」
◆
この歳になってやっと病名がわかった。それはついこの間のこと。梅雨に入って身体が思うように動かなくて病院に行ったときのこと。
長い間、病気なのかそうじゃないのか、ただ身体が弱いだけなのかわからずに、手がかりもなく彷徨っていたお母さんとわたしにとって、それは大きな変化だった。傍目には症状が見えづらいこの病気。幸いなことに、わたしの周囲には「サボりたいだけだろ」とか「怠け病」とかそういうことを言ってくる人はいなかった。けど、自分自身がこの状態に納得できてなかったから。そういう意味では本当に大きな一歩。
でも。……でも。
「何でさっき嘘吐いたの。顔真っ蒼じゃん」
「……」
「はあ……。ねえ、何かあった?」
「……」
学校を出て、電車に揺られて、雨の中を歩いて。家に着く頃には体力は底を尽きていた。もう慣れたケースだと。台所に立っていたお母さんとわたしの肩を支える浅野くんの目配せは、そう物語っているようで。
言うことを聞かない身体が憎らしくて、持ち堪えられなかった自分の弱さに腹が立って、悔しくて。涙まで出てきて。たぶんきっと今、酷い顔をしてる。
セーラー服を着たままベッドに倒れこんだ。申し訳なくて顔を見れないのと、こんな顔を見られたくないのと。その両方でかぶったシーツから出られなかった。
「せーんーぱい」
「……」
「先輩ってば」
「……」
「黙ってないで何とか言ってくださいー。そんな風にシーツにくるまって、てるてる坊主みたいじゃないですか」
「……」
「あーもう。ちょっと失礼します」
「っ、!?」
目の前がチカチカする。横になっていたところからシーツごと勢いよく起こされたせいだ。目が回って気持ち悪い。
「うう」
「あ、ごめん。よく考えないでやっちゃった」
ぐっと瞼を閉めてぐらぐらするのに抵抗する。真っ暗になった視界の中で、かぶっているシーツがまるでベールみたいだなあなんて、くだらないことを思った。
そんなことより。
「あの、」
「何?」
「ち、近くない、ですか」
「そう? いつもと変わんないよ」
「えええー……」
頭が揺れる感覚が少し治まってきて瞼を持ち上げると、浅野くんが此方を覗き込むように真っ正面にいた。わたしの身体が倒れないように両肩をその手で支えて。
これでは、逃げようが――
「逃げられないでしょ?」
「う」
そんなものあるわけなかった。
「ねえ、何があったの? ちゃんと話して」
「……」
「珍しいね、先輩がここまで意地になるのも。じゃあ俺も意地ね、先輩が話すまでここから動きません」
「うっ」
「話す気になりました?」
本当は話したくなんてない。むしろできることなら、今すぐにでもこの部屋から浅野くんに出てってもらってドアの鍵を閉めて引き籠りたいくらいだった。
けど、怒るでもなく急かすでもなく、ただただ笑ってわたしの口が開くのを待つ浅野くんに、わたしの意地なんてすぐに折れてしまった。
この歳になってやっと病名がわかった。死ぬことはない、けれど、一生付き合っていかないといけない。治ることはなく、日々を重ねる中で自分の限界を学んでそれを超えないようセーブしていかなきゃいけない。いつだって体調に波があって、誰かに頼らなければならず、必ず迷惑をかけてしまう。
今日だってそうだ。今だって、そうだ。
こんな風に寄り掛かってることしかわたしはできない。わたしはきっと、対等になることは、できない。
「そっか、つらかったんだね。でも、ちょっと安心した」
「安心……」
「うん、死ぬようなものじゃないって」
「それは、そうなんだけど」
「けど?」
「……この病気では、死ねないってことだよ。どんなにつらくても……死なせてはくれない」
例え身体が言うことを聞かなくなっても、周りに迷惑をかけて心が苦しくても。この病気はわたしを殺してはくれない。どん底に突き落とすだけ。そうなったときわたしはまた、誰かの手を借りなければいけない。返すことができないまま、求めることばかりが増えていって、またわたしの首を絞める。
「そんなの、惨めだ」
「先輩?」
「何でわたし生まれてきたの。何のために生きてるの……いっそ死にたい」
途端、肩を掴んでいた手に力が入る。それは痛みで小さく悲鳴を上げさせる程に。
恐る恐る顔を上げると、そこには驚嘆と悲痛と少しの憤りと狼狽と。いろんな感情の入り混じった表情があった。
「本気で言ってるの? 死にたいって」
「……」
怒ってる。
初めて見る顔。初めて聞く声。唇が微かに震えて、握力は全然緩まる気配がなくて。目には確かに怒気が混じってて。
怖い。喉の奥がぎゅっと締まる感じがする。
――でも。
「ねえ、先輩」
「……」
「答えて」
「……だって」
「先輩?」
「だって!」
生きてたって何もできない! 人に迷惑かけることしかできない、何もできないの! それなのに生きてる意味なんてどこにあるの!? 何もないよ! なのに死なせてもくれない! ……誰のせいでもないし、文句言ったって仕方ないのはわかってるの……むしろわたしはラッキーな方なの。助けてくれる人がいて、死ぬ恐怖なんてなくって。わかってるつもりなの。でも、でも……。
「もうやだ、生きてたくない……」
「……」
溢れるままに言葉を吐き出してしまった。
全部、本心だった。でも、こんなことを話すつもりはなかった。誰かに言うつもりはなかった。迂闊だった。やってしまった。
次から次へと零れてくる涙と一緒になって激しい後悔が押し寄せる。沈黙が痛い。顔を上げられない。
「そう、そっか……そこまで思うくらいに、先輩はいろいろ感じて、考えてたんですね。ごめんなさい、俺が早計だった。すみません……でも」
「あ、浅野くん!?」
ひんやりと冷たいシーツの上からゆっくり体温が伝わってくる。引き寄せられて腕の中に捕まって、肩越しに伝わってくる声は少しだけ震えてるような気がした。
「これだけはわかって。俺は先輩のこと迷惑だなんて一度も思ったことない。むしろ先輩は気を遣い過ぎで、何でも一人で頑張っちゃって、もっと人によっかかれば良いのにって思ってます。どうしてそんなに自分を責めるの。そりゃ苦しいよ、そんだけ追い詰めたら……あー、違う、ごめん、責めたいわけじゃない、これを言いたいわけじゃない。……お願いだから、死にたいとか死ねないとか、言わないで。先輩がどれだけつらいか、たぶん俺はわかってないし、きっと理解することはできないんだと思う。でも、先輩がいないなんて俺は嫌です。理解できなくても捌け口になるし、いくらでも受け止めるから、だから……とかって。はは、ごめん。全部俺の事情だね」
天の邪鬼。こんな表情をさせたいわけじゃなかった。こんなことを言わせたいわけじゃなかった。浅野くんが優しいことをわたしは知っている。わたしはその優しさに浸け込んでいるだけだ。こうやって少しずつ返すことのできない負担を背負わせていくのだろう。どうすれば良いというのだろう、これじゃ浅野くんを縛るだけだ。
「もし、本当にもうダメってなったら、言って? その時は一緒に死んであげる」
「そ、そんなこと、」
「約束。ね?」
先輩はもっといろいろ話していいし、甘えてくれれば良いんだよ。自分からできないなら、俺がやってあげる。
ぎょっとする言葉を平然と放る。その言葉は、瞳は、まるで全てを赦してくれるようで。
正しいかなんてそのときのわたしにはわからなかったけど、ただその約束に縋った。
◆
相変わらず、今でも梅雨は嫌いだけれど。
でも、窓の外に自身を誇るように咲く紫陽花は、約束を思い出させて、わたしに生きるように囁いてくれる。
だから、梅雨も悪くないかな。
なんてね。