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ゆりちゃんと浅野くん  作者: 侑日
1/8

Epitaph

 ここ数日、雪が深々と降り続いている。ヘラで絵の具を塗り伸ばしたみたいな濁って斑のある灰色の空から、ふわふわと柔らかい白い粒が幾つもいくつも真っ直ぐと地面に落ちていった。

 降り積もった雪には一人分の足跡だけが残っていて、その上にも薄らと白さが載っている。それ以外に人のいた形跡はなく、辺りは無音に等しく静まり返っていた。


「うう」

「ねえ、こんな所で寝てたら風邪引くよ。起きて、ほら。ゆりちゃん」

「うーん、あーあー、うー、う、寒い」


 足跡の持ち主がぐっと閉じた瞼をゆっくりと持ち上げる。真っ黒のAラインコートに、銀色の金具のついた黒いブーツ。対照的に色身のあるマフラーを鼻まで隠してぐるぐるに巻き付けた彼女は、唸りながらぶるるっと体を震わせた。


「当り前でしょ、全く。おはよ」

「うわあ、わたしどれくらい寝てたんだろ……おはよう、浅野くん」


 まだ眠たげな目をして、白を通り越して赤くなった指を擦り合わせる。ショッキングピンクのマフラーを下ろして手に吐きかける息がぼんやりと広がっていった。


「珍しいね、ゆりちゃんの手いつも温かいのに」

「浅野くんの手は、いつも冷たいよね」

「手が冷たい奴は心が優しいって、誰が言ったんだろうね」

「前にもこんな話ししたよね、懐かしい。その時は、「俺の心が優しい証拠じゃない?」とかって、得意げに笑ってたよね。でもその話してるときに優しいって思ったことはなかったなあ」

「え、あれ、俺優しくなかったっけ?」


 長く伸びた前髪の下で眉間に皺が寄せられて、細めた目線は左下に流されて。右頬がぷっくりと膨らむ。「理不尽!」って訴えるときのゆりちゃんの表情。


「だって、氷みたいな手で首とか触ってくるんだもん、全然優しくない!」

「あっはは、ごめんごめん! だってゆりちゃんは手っていうか、体温高かったから全身ホッカイロみたいにあったかくてさー。それに反応がおもしろくて、つい、ね」

「……別に嫌じゃなかったけどさあ」

「……、」


 ねえ、ちょっと、それは、それはさ。

 反則じゃないですか。


「あ、そうだ、これ!」


 はにかみをかき消すように、彼女は脇に置いていた紙袋を手に取った。ビニールの覆いを取ると、中からは、丁寧に葉が切り落とされた薄紫色の花束が顔を出す。


「これシオンっていう花で、別名はジュウゴヤソウなんだって」

「十五夜草、ってことは九月の花?」

「お花屋さんてすごいね。季節外れの植物でも取り扱ってたり、なかったら取り寄せてくれたり」

「便利なもんだな」

「よっしゃ、綺麗に飾れた! いやー、わたしすごいわー、センス溢れてるわあ」

「ふは、ねえそれやめよ? 特に人前でやっちゃだめだよ? ほんとアホっぽいから」


 思わず笑ってしまう。こういう抜けたところは、普段から気丈に振る舞う彼女とちょっと距離が近くならないと見られない。ガードが固いと言うと違うような気もするけれど、警戒心が強めだったり。ゆりちゃんにはそんなところがある。だから、こんな風な戯れ方ができるのはやっぱり嬉しかったりする。


「こんなこと言ってたら「アホみたいだからやめろ」って言われちゃうかな」

「わかってんなら直しなって。別にいーんだけどさ。それより、気になったんだけど」


 何でその花にしたの?


 季節の花じゃないならそんな目につくところにあったわけじゃないだろう。ゆりちゃんは特別花に詳しかったわけでもないし、こだわってシオンを選んだのなら理由があるはずだ。そう思った。


「店員さんにね、どれを買おうか迷って、聞いたの。それでシオンのことを教えてもらったんだよ。花言葉はね、『あなたを忘れない』、『追憶』。……ね、浅野くん。今日で一年だよ」


 そっか、それでだったのか。

 もう、一年が経ったのか。


「時間が経つのってこんなに早くて、こんなにゆっくりなんだね」

「俺はなんつーか、案外あっという間だった気がする。まあ、当然か」

「知ってたつもりだったんだけどな、あはは……」


 手から擦り抜けるように呆気なく時が流れ去っていく残酷さを。真綿で首を締めるように揺蕩ってまとわりつくじりじりとしか過ぎない時に拘束される苦痛を。身をもって知っている。ゆりちゃんは、特にそうだ。


「まだまだってことなのかな、でもしょうがないよね。頑張るしかないもんね。……神様ってほんと、意地悪だ」

「それでも嫌いにはなれないんでしょ?」

「こうやって浅野くんに随分八つ当たりしちゃったなあ、ごめんね。……ね、忘れちゃった日なんて一日も無かったんだよ? いろんなこと、全部、ぜんぶ」

「わかってるよ。何年一緒にいたと思ってんの」


 気付けば灰色の空は黒くなっていた。雲が去って、何日かぶりに月明かりが射している。膝を突くようにして俺の前にしゃがみ込む彼女の姿は、コートも影も、暗さの中に溶けて線が曖昧だった。

 沈黙。俯いた彼女がどんな表情をしているのか。今の俺では、顔を上げさせることも、目線を固定することも、言葉をかけることも、促すことも、できない。


 歯痒い。


「お花、また持ってくるからね。また、会いに来るからね。喜んでくれてる、のかな……わかんないけど、それくらいしかできないから」

「そんな顔しないで。来てくれるだけで嬉しいからさ」


 きっとさ、俺にとってこの一年があっという間だったのは、ゆりちゃんが会いに来てくれてたから。退屈になることなんて無かったよ。寂しいと思うことも、まあそれは無いって言ったら嘘になるけどさ。でも、楽しかったよ。


 驚いたことは幾つか、何度か、あったけれど。

 ふと目が覚めたら此処にいた。ゆりちゃんの泣きじゃくる声で飛び起きた。でも、どんなにこっちから声をかけても泣き声は止まなくて、触れることもできなくて。その時に悟った。ああ、そういうことなのだ、と。

 どうして自分がこんなことになったのか、それは未だにわからないままだ。でも、一人でいる時間とこうして話を聞ける時間を経て、自分にはこれだけで充分だと、そう思うようになった。


 未だに受け入れたくない現実だって、素直に言ってしまえばそうなんだけど。

 けどさ、いつまでもそう言ってはいられないじゃない?


 だから。

 ねえ、だから――。


「わたし、今まで浅野くんに何かしてあげられてたのかな。いつも支えてもらってばっかりで。こんな風になるなら、もっとちゃんとありがとうって言っておきたかった。毎日ほんとに楽しくて、会うたびに嬉しくて、幸せでしあわせで……本当に大好きだよって! あはは、今になって言ったって遅いのにね。ごめんね。浅野くん、ごめんね……っ」

「相変わらずネガティブだなあ。俺だって、ゆりちゃんからからいろんなものもらったよ? 昔も、こんな形だけど、今も。だからそんな風に謝んないでよ、頼むから。もうしてあげられることなんて殆ど無いけど。……ねえ、また来てくれる? いつでも待ってるからさ。ね、お願い」


 ――ねえ、ゆりちゃん。

 だからさ。


 そんな風に泣かないで?


「……ん」


 触れることの適わない、もう二度とその温かさを感じられない腕の中で、彼女が頷いた気がした。


 仰いだ空には雲間ができていた。冬空にばら撒かれた星々に囲まれて一層明るく地上を照らした月が、この上なく綺麗だった。

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