一、青天の霹靂
「あーー気持ち良い……」
自分好みの適温に設定した浴槽に、お気に入りの入浴剤を入れてお風呂を楽しむ私こと斎藤ちづる、四十歳。
「綾人、かっこよかったなぁ」
一人息子の綾人は昨日二十歳を迎え、その晴れ姿を母である私にしっかりと見せてくれた。早くして結婚したのは良いけど旦那の度重なる浮気で離婚し、シングルマザーとして綾人を育てた私にとって、綾人のスーツ姿はどんなものよりも輝いて凛々しくて、息子を成人式に送り出した後盛大に泣いてしまった。だってさ、泣いてばかりいたあの子があんな立派な大人になったんだよ?「ママ」呼びからいつの間にか「母さん」になって、背も伸びてガッチリしてさ。一人で全てやるのは本当に大変だったけど、綾人のあの笑顔を見たら今まで頑張ってきて良かったなって思ったもん。
そんな綾人は初めて出来た彼女とお泊りデート。今頃に夜景でも見に行ってるのかな。
「あー、私も母親卒業かぁ!」
毎日が怒涛の日々で、自分の事なんて考える余裕なんてこれっぽっちもなかった。でも綾人が一人暮らしを始めた今、労働以外の時間はすべて自分の時間となるのだ。
「一人焼肉に一人カラオケ……連休取って旅行にも行っちゃおうかな~」
明日は午後からの仕事だし、今夜は飲むぞー!と意気込み湯に浸かっていると、とんでもなく眠くなってきた。
「やば……でもちょっとだけ」
五分で起きようと、私はそっと目を閉じる。
入浴剤入りのお湯に身体を包まれながら、私はどこともわからない真っ白な空間をぐるぐる彷徨っていた。
(ここ、どこだろ……すごく心地いい)
卵のような形でお湯にコーティングされている私。思考はぼんやりとしているが全く息苦しくないのが不思議で、思わず手を伸ばしてお湯の断面に触れようとする。
その時ふと、声が聞こえた。
「……、ってる?」
「ぁ、……!」
「……ま、どぅ……!」
日本語のようにも聞こえるそれに意識を集中しようとすると、突然強い引力によって後方へと引っ張られた。その力はまるでジェットコースターに乗せられたように爆速かつ右往左往に引っ張られるので身体が驚くも、お湯がクッションとなり衝撃はほとんどないが、身体が湯の中でぐるんぐるん回るので気持ち悪さが半端じゃあない。
(は、吐きそう……! 誰か止めて!)
押し寄せる吐き気にぎゅっと目をつぶった、その時。
ドン!
「ぃ、たぁ……っ」
身体が何処かに落とされた。お湯のコーティングが弾けたような衝撃で目を開いた私が見たもの。それは……。
「な、なに、ここは……」
どこまでも続く深い青と、砂の地面に生えた色とりどりの珊瑚や海藻。ユラユラと揺れるのは風などではなく、水だ。
「……うそ、まさか海底?」
目に見えるものだけを見て判断すれば、ここは海の中だと思う。だって、この景色は昔綾人と良く見た青いネコ型ロボットが眼鏡の少年達とひみつ道具である四駆の車に乗り海底に冒険に行ったあの映画の、海底の映像に酷似していたから。
しかし更に驚いたのは、「そこの者、こちらを向け」と声を掛けられ振り向いた先にいた者達の姿である。
人魚、といえばいい? 人間に近い頭部と顔つきだけれど、頬から下にかけてビッシリと鱗に覆われている。剝き出しの上半身には西洋騎士のような甲冑を身に着け、二本の足はなく絵本で見た人魚のようになっていた。その人魚達(私の後ろを囲うように十人はいる)は長い爪をした指に槍のようなものを握りしめ、ギラリと鋭い視線をこちらに向けている。
「すっごい、ファンタジーな夢……」
まさかこの歳になってこんなファンシーな夢を見るとは。仕事と育児に追われて禄に夢も見ず寝落ちしていた時の反動かしら、と思ってぼんやりしていると、その人魚の一人(赤い髪の、多分男性)がチッと舌打ちしてきた。
「いいか、偽りなく答えろ。お前は何の罪を犯して此処に来た」
「罪? どういう事ですか?」
見た目はめちゃくちゃファンタジックなのに日本語なのは夢だからだよね。っていうか、罪って何よ?
私が首を傾げていると、人魚は更に苛立ったように問い詰める。
「惚けるな! お前は異界で罪を働いてこちらに来たのだろう!」
若い男の声で怒鳴る人魚。全くもって身に覚えがない私は「んん?」と曖昧な返事をした。いやだって、なんで夢の中でこんなわけわからん人魚に尋問されているの? さっきまで良い気分でお風呂に入っていたのにこんな事になっているのか全く意味がわからない。あ、これはきっと夢だ! そして私はきっと浴槽内で眠りこけている筈だ。早く起きなきゃ。折角今日のために用意した、プレミアムビールが堪能できないじゃない。
「ちょっと、起きて、起きてよ私!」
ペチペチと頬を叩いたり抓ったりしても、全く景色も意識も変わらない。って、あれ?
「なに、このほっぺた……」
先程抓った時、妙にざらついた私の頬。まるで、この目の前の人達のように鱗が生えたみたい。ずっと座り込んでいた私は、ゆっくりと視線を下に落とした。そしてその時見た自分の姿に、私は「えええ!」と飛び上がらんばかりに驚いた。
「なにこれ! なんで私も人魚になっているの!」
下を向いた時に見た自分の腕に衣類はなく、ビッシリと黒の鱗が生えていたのだ。首から下、ブラジャーをする部分には鱗はないが、腹部から再び鱗が生えている。更にその下……大腿部から下は魚の形になっていて、そこも黒の鱗で覆われていた。てっきり横座りをしているものだと思っていた私の身体は、完全に人魚と化していたのだ。
(てか胸! 丸見えじゃん!)
運良くも腰まで伸ばした髪が張り付いて髪ブラ状態になってそれは見えていなかったが、私は慌てて両腕で胸を隠した。
その行為が人魚の空気を一変させ、皆一斉に槍を構えて私を見た。
「手を下ろせ! 攻撃を仕掛けるつもりか!」
「はあ? 自分の胸が晒されているのに隠さないわけにいかないでしょうが!」
「アンタ馬鹿ぁ⁉」と某朱色長髪の女の子のように言い放つと、苛ついた若い人魚は声を荒げて槍を近付けてきた。
「おい、手荒な真似はよせ」
その時、低いバリトンボイスが聞こえた。人魚達がさっと道を開ける。その時も、ヒレを左右に動かして移動していた。
(地面にヒレが付いていないという事は、ここはやっぱり水の中なの?)
私の脳内は疑問で一杯になる。
道を開けた先からずいと身を乗り出したのは、先程の人魚の倍以上の胸板がある、鮮やかな橙色の髪と鱗を持つ筋骨隆々の人魚だった。この筋肉量とあの声は、男の人だ。年齢は……日本人というか人間よりも凹凸の少ない顔つきなので難しいけど、多分あの騒いでいる人魚よりも年上だと思う。目尻に少しだけどシワあるし。というか、雰囲気は四十代の真摯なおじさんのよう。
「突然の無礼をお詫びする」
頭を下げる人魚に、無意識に私も座ったまま頭を下げた。
「この地に来た事を、覚えているだろうか?」
落ち着いて話すこの人魚に、私もここに来た経緯を説明した。
「本当に、入浴中にうたた寝したらここに来ていたんです。子供が読むメルヘンでファンタジーな小説じゃああるまいし……」
ここまで話して、私は胸の奥が冷え込むような感覚に襲われた。まさか本当に自分が、息子の部屋に置いてあったファンタジー小説の中に来てしまったのかと思ってしまう。
「……まずは、俺の話を聞いてくれ」
そう言って、おじさん人魚は語り出した。
此処は海底にある人魚の国、カンシーラ。この地には数年に一度、異界人が落ちてくるのだという。その者の前世が何であれ、此処に落ちてくると皆この姿になっているらしい。言語が日本語……自身の母国語に聞こえて喋れるのは、所謂脳内補完というやつで、実際私はこの国の言葉で話しているという。そして前世にどんな行いをしたのかは、鱗の色でわかるらしく、それによってここでの生活がほぼ決定する。鱗の色は色が薄ければ薄い程徳を積んだ偉い者で、カンシーラの都市部にある高級マンションに住み、この国でも医師、技術者、教育職など地位の高い職につける。逆に、濃い場合は罪を犯した罪人が多く、都心から遠く離れた僻地の、厳しい環境下での強制労働を強いられるそうだ。ここカンシーラは長い間そうして異界人の住み分けをしているらしい。
「て、事は……」
「貴方の鱗は紛れもない黒だ。それは即ち、咎人としての扱いになる」
「待ってよ、私そんな事してない! 息子と二人、ただ平凡に暮らしていただけなの!」
必死に訴える私に、おじさん人魚は複雑そうな顔をする。
だって、信じられる? 突然謎の、アニメでしか見た事のないファンタジックな世界に落とされて更に魚だか人間だかわからない生き物に問い詰められその挙句鱗の色でその先の事が決まるなんて。夢じゃあなくても猛反発するわ。
しかしおじさん人魚の後ろに控えていた、先程から盛んにキレている若い人魚は「煩いぞ年増! とにかくお前は牢獄行きだ!」と槍の先で脅してきた。
あのさ、歳は確かに食っているけれどその言い方はないわー。アンタの見た目が、おじさん人魚よりも若いからって人を指すな粋がりヤンキーめ! その暴走族みたいな赤毛と特攻服カラー鱗が似合いすぎてるわ!
深紅の鱗に燃えるような赤毛を逆立て、目じりを吊り上げる若い人魚に心の中で文句を言っているとおじさん人魚が手でヤンキー人魚の槍を制した。
「マクザ、いい加減にしろ。まだ何も分からない異界人に、乱暴はするな。俺達が野蛮な種族だと思われるだろう」
「ですが隊長、コイツの正体はこの鱗が物語っているでしょう!」
「落ち着け。レイズ、ライズと共に異界人を地下へ連れて行くように。くれぐれも、手荒な真似はするなよ」
「「はっ」」
呼ばれた人魚ふたり(二匹?)はすっと前に出て、同時に返事をした。深緑色の髪と鱗をした人魚の顔はよく似ていて、双子かなと思うほど。そのふたりに両脇を抱えられて連行される時、触れた身体は吃驚するほど冷たくて驚いた。でも、魚だからそうだよね。ここ海底っぽいし。
先程私が居た場所は、異界人が落ちてくる場所となる広場のような場所で、その隣にあるピサの斜塔ばりに高い塔(色形はそっくりだが傾いていない)の地下にある牢獄のような場所に私は連れていかれた。暗いそこは深海のようで、暗闇が苦手な私は身震いするが、人魚のひとりは淡々と牢屋の鍵を開け上の方にあるランプに明かりを灯し、もうひとりが私の腕に日本の手錠を十倍頑丈にしたような鎖を巻いてから牢屋に私をいれた。鎖の先は石壁の突起に繋がれており、絶対外れそうにもない。
「こちらで暫く待つように。奥の扉がトイレで、そこまで行けるよう鎖は調節してあるので。ですが、強く引っ張ると危険なのでしないでください」
「危険……わかったわ。ねえ、悪いのだけれど何か着るものをもらえない? 一応女だから、上半身くらい隠したいのだけれど」
ここで女性の人魚を見ていないのでどう過ごしているのかわからないが、私はとりあえず胸は隠したい。
ふたりは顔を見合わせて、右の人魚がどこかに消えたが、数分もしないうちに帰ってきた。その手には黒い布があって。
「これでよければ、どうぞ」
それはサラシのような素材でできた長方形の布だった。バスタオルより小さいけれど、スポーツタオルよりも幅があって私はくるりと後ろを向くとそれを胸に巻き付ける。両手に鎖が巻かれている為身体を捻ったり反らせたりしながら漸く巻けた。私は元々やせ形でそれほど胸も大きくないが、それでも二周くらい巻けそうな長さで安堵した。
「ありがとう、助かったよ! おまけに黒だから透ける心配ないし良かった~」
ふたりに向き合ってお礼を言うと、人魚は驚いたように目を見開いた。え、なにその顔。普通だよね、お礼って。
その時ふと、その人魚の腰当たりの鱗の一部が剝がれかけているのを見た。人間と同じで、赤い血が滲んでいる。
「あの、そこの鱗血が出ているけれど大丈夫?」
「……大丈夫です」
「絆創膏があればいいんだけれど……文字通り裸で来ちゃったからなあ。何もできない私が言うのも悪いんだけれど、その、お大事にね? 引っかけないように、気を付けて」
「……はい」
「レイズ、いくぞ」
私を置いて、二人は無言で扉を閉め出て行った。
「本当に、夢じゃあない?」
いきなり知らない場所にいて、自分は人魚みたいな姿になって投獄されて。なんで私こんな扱いされているのだろう。
「……」
最後の望みを賭けて、痛い思いをすればきっと夢から醒めると私は腕に巻かれた鎖のまま、腕を思い切り左右に引っ張ってみた。その瞬間。
「きゃああっ」
焼けるような痛みが手首から発し、私は思わず叫んでいた。見ると、鎖から静電気のようなパチパチという音がして電流が流れている。水の中だが、私は感電したのだ。
「う、そ……」
夢じゃあない。本当に、カンシーラという異世界に来てしまったんだ。呆然となった私は、しばらくその場から動けなかった。




