チェスを指すように生きる貴族――婚約者を軽んじた男の行く末
メイドなのに、奥様のお茶に誘われてしまった。
趣味で作っていたお菓子が奥様の出身地のものだったため、お目に留まってしまったそうだ。あんな素人のお菓子を……。
家政婦長に、「奥様のご要望だから大丈夫」と励まされ、料理長に助手をしてもらって作った。畏れ多いけれど、料理長様に「手伝いは要りません」とも言えず。
「ほう、豆を甘く煮るとは」と、すごく感心された。ただの郷土料理です。
上手に美味しく美しく煮るのは難しいけど、焦がさなきゃ食べられるものは作れるんですぅ。
あんこの甘い匂いが厨房に漂った。
田舎では小麦粉を水で溶かして焼いたもので包むんだけど、料理長が薄焼きのクレープを作ってくれた。
そこにあんこを載せて、折りたたむ。
おお、なんか突然、上品なお菓子になったぞ。
これ、手でがぶりといきたいけど、きっとフォークとナイフで食べるんだろうな。
とっても、とっても緊張する。
メイド長に粗相のないようにと言われ、思わず「無理です」と返してしまった。「なんで私が」と泣きたいくらいだ。
侍女には「奥様は貴族のお付き合いに疲れていらっしゃるので、そのままの貴方でいいわよ」と言われた。
そ、そういうものだべか……いえ、そういうものでしょうか。
サンルームで、私は奥様の前に座った。
奥様の侍女たちは後ろで立っているのに、メイドの私が着座してるとか居心地悪い。
「旦那様とは仕方なく、結婚したの。
恋人がいてね、わたくしの目の前でイチャイチャするの。信じられないでしょう。
両親は『それくらい我慢しろ』と言って婚約を解消してくれないから、仕方なく、よ。
子どもも無事に成長したのだから、そろそろ離婚したいわ」
奥様が爆弾発言をなさった。
侍女たちがうろたえていない様子から、いつもおっしゃっているんだろうか。
相槌が打ちにくいわぁ。
「それなのに、今さら愛してるとかふざけていると思わない?
婚約者だから仲良くしたいという乙女心を、さんざ踏みにじっておいて、よ? 嬉しくないわ。
そのくせ、同じくらい愛し返すことを求めてくるのよ。自分がしたことを棚に上げて、図々しい」
あれ、これはただの恋話でしょうか。
あんまりこちらの返事を求めていないやつ。侍女さんの顔を見ると、それで正解みたい。
クレープにナイフを入れると、ぐじゅっと潰れてはみ出してしまった。やっぱりかぶりつきたいわ。
「自分が『仲のいい夫婦がやりそう』と考えていることを、やりたがるの。
わたくしが里帰りしたいと言っても、許してくれない。あんこが食べたいと言っても、田舎くさいと取り寄せてくれないのよ。
こちらには、街中に甘味処もないしね」
奥様はため息をついて、お上手に切り分けて一口。
目を見開いた後に、閉じ、片手を頬に当てて、恍惚の表情になった。
一方で、わたしは衝撃を受けていた。
しょ、ショックだ。
若いメイドたちで「憧れのご夫婦」と言っていたのに、奥様は全然幸せそうじゃない。
日常的に甘い言葉を囁いて、夜会では旦那様が奥様のドレスを注文して、外出はいつも一緒。愛されてるねぇと噂していたのに、中身はコレか。
古参のメイドたちが私たちを複雑そうに見ていたのは、コレを知っていたからか。
理想を押しつけて、ご満悦の夫。
諦めて、抵抗しないだけの妻。
愛情たっぷりの旦那様に、微笑んで受け止める奥様……そんなイメージがガラガラと音を立てて崩れていく。
「あ、あんまりだ」
旦那様の声がして、慌てて振り返った。
「本当に愛しているのに。
いつまで経っても許されないのか。
若い頃の過ちじゃないか。
一体、いつまで、ネチネチ、ネチネチ……。
そういうところが嫌なんだ」
旦那様は奥様を怒鳴りつけて出て行った。
「申し訳ございません! 私の不注意な発言で……!」
私は青ざめて、立ち上がり、頭を下げた。
「いいえ。ノックもせずに入ってきたあの人が悪いのよ」
奥様は変わらずに微笑んでいた。……微笑むところ?
その日、旦那様は娼館に行って帰ってこなかった。
翌日、奥様は朝食の席でそれを聞いて、「そう、やっとね」と嬉しそうに顔をほころばせる。
奥様と坊ちゃまの分だけセットされ、旦那様の席には何も置かれていない。
「今日は、美味しく食べられそうだわ」とまで言った。
執事長は少しうなだれ、家政婦長はそっと涙を拭いた。
奥様付きの侍女は一人を残して、食堂を出て行った。何やら準備を始めるらしい。
坊ちゃまは、奥様の様子を気に病む様子はない。
「まあ、仕方ないよね。僕は浮気しないように気をつけよう」
坊ちゃま付の侍従が苦笑いした。
「世の中には、浮気をする人種と浮気をしない人種がいます。
惹かれることは気持ちの問題で止められませんが、行動するか我慢するかは選べます。
それをしたらどんな結果が待っているかをシミュレーションできるか、できないか。
バレなければいい――では、ありません。それをしたら誰を傷つけるかを考えるのです。
チェスでその場しのぎの手を指すか、一手先を見越して指すか……心構えのお話でございますよ」
「相手の反応を待ってから考えるのでは、遅いということだろう?」
「はい。慌てるとミスをしやすいという面は、確かにございます。
それに加えて、受け身のままですと、失敗したときに、そこから学べないというデメリットがあります。
後悔するだけで、どこがまずい手だったか振り返ることができません。『次はこうすれば上手くいくかも』と試行錯誤に活かせないため、同じ失敗を繰り返すのです。
……旦那様のように」
坊ちゃま付の侍従さんは、時々何を言っているのか分からない。坊ちゃまと対等に難しい話ができるんだ。すごいな。
旦那様がいらっしゃるときは、侍従がこんなふうに会話に入ってくることはない。
だが、奥様は坊ちゃまがどんな教育を受けているのかを知りたいと、朝食の場でおしゃべりすることを望まれている。
「本当にそうね。口で『もうしない』と言うだけで、ご自分と向き合おうとしませんでしたね。
『騙された』とまるでご自分も被害者であるかのようにおっしゃるのが、本当に嫌だったわ。
『貴方が一番わたくしを傷つけたのよ』と指を突きつけて罵りたいくらい。
あの頭がぽやぽやの毒婦によろめいたのにも、理由があるでしょうに。それを分析せず、相手のせいにして……恋愛は一人ではできないというのにね」
奥様は吐き捨てるようにおっしゃった。
平民なら、そんな男は箒で尻を叩いてやるもんだ。貴族の方々は、どうやって「分からせる」んだろう?
「あれは、ほぼ娼館の女の手練手管でした。
旦那様は、しばらく娼館にお泊まりになるようです」
執事長によると、伝言を持ってきた執事が着替えなどを持ってとんぼ返りしたという。
ええー、拗ねて当てつけに娼館に行ったのを、認めちゃうんだ。だから成長しないんじゃないかな。
「父上から早く家督を取り上げないと。高級娼婦に入れ込まれたら困る。領地に幽閉するか……。
万が一のために、飛び級して卒業しておいて良かった。
母上、私が当主になります」
坊ちゃまは覚悟を決めた顔になった。
「ええ、そうしましょう。あなたは後を継げるよう、頑張って準備してきましたもの。
旦那様の味方をしていた親族も、連日娼館から戻らないと聞けば、諦めるでしょう」
「早期卒業されたのは、誠にご慧眼でございましたね。
旦那様の執事は、私の息子が務めておりますが……。
学生時代も旦那様をお止めすることができず、今回も申しつけられたことを子どもの遣いのように熟すだけ。共に領地に送るのがよろしいかと」
「それでいいんだね?」
「はい。奥様にも坊ちゃまにも大変ご迷惑をおかけしました」
執事長は、もう情に振り回されないと拳を握りしめている。
「彼は父と一緒に、母上がいつまでも学生時代の若気の至りを許さないと愚痴を言っていた。
少し大きくなったら、僕に母上のご機嫌を取らせようとした。
母上に『父上と一緒にやりたい』と言ってくるようにと耳打ちされるのが、とても嫌だった。僕は操り人形じゃないんだ。
いい大人たちが子どもを利用しようとして、みっともないね」
執事長は、「教育が行き届きませんで」と頭を下げた。
「学園に通うようになって、父上が母上にしたことが常識はずれで、どれだけ淑女を侮辱する行いかよくわかったよ。
だから、一日でも早くあの男から家名を取り上げないといけない、と考えるようになった。僕は嫡男なのに、未だに婚約者も見つからないしね。
これ以上、評判を落とすわけにはいかない。
経験が足りない分は、お前とお前の後継者にできそうな者で補佐してくれ」
坊ちゃまの口調が変わった。当主になるから、お願いじゃなく、命令するんだね。
「早急に、人選をいたします」
坊ちゃまは、執事長の表情を確かめてから、うなずいた。
そこで、あんこに気がついたようで「これは何?」とおっしゃった。
「昨日メイドが作りました、あんこでございます。トーストに塗っても美味しいということで、お出ししました」
「ああ、母上の故郷の味か」
トーストに載せ、一口ぱくりと召し上がった。
「ん、美味しい」
坊ちゃまは少し寂しげな微笑みを、浮かべた。奥様の里帰りが許されず、坊ちゃまも奥様のご実家に行ったことがないのだ。
学生時代は奥様を放置していたのに、結婚したら独占欲丸出しだと、先輩メイドたちが言っていた。自分が浮気者だから、不安で奥様を束縛するんだ、とも。
奥様が離婚されたら、実家に行く機会はないだろう。
「気に入ったなら、午前の休憩に美味しいお菓子を差し入れましょう」
奥様が柔らかく微笑む。
私は食後の紅茶をいつでも淹れられるよう、奥様と坊ちゃまを見つめていた。
奥様は約束通り、坊ちゃまの執務室に向かった。私は侍女の後ろから、付いていく。
今度は小さなパンケーキにあんこを挟んだ。
「旦那様がお帰りになったら、サインしてもらうの」
奥様が持っているのは、離縁届だった。
「母上。お願いがあります。一緒にこの書類にもサインさせてください」
「あら、いいわよ。本当に賢い子に育ったわね」
「母上の息子ですから」
「旦那様が帰ってくるのが楽しみなの、初めてだわ。うふふ」
そう言って、奥様は少女のような笑顔を見せた。
「それなら、娼館から早く帰ってきてほしいですね。
また着替えを取りに来たら渡さずに、帰ってくるように伝えろ」
「かしこまりました」
執事長は、既に坊ちゃまを主として行動しているようだ。
「では、その前に親族を招集して、当主の交替を認めさせてしまいましょう。あとは日付を入れるだけよ」
奥様は侍女から封筒を受け取ると、まとめて坊ちゃまに渡した。
なるほど、一手先を読んで動く。
この人たちとチェスをやったら、一個も勝てねぇべな。




