源頼朝戦記 外伝02 源義経
日ノ本すべてが、自らの命を狙う。
家族も、育ての地も――すでに味方ではない。
神にも、仏にも見放され、残酷な運命が一人の武者をあざ笑う。
絶望と怒りの炎が、ついには己の命さえも焼き尽くそうとした、その刹那。
炎の向こうに現れた人影――。
義経の瞳に映ったのは、憎き兄の姿だった。
「……貴様、頼朝……!」
■衣川の夜
奥州平泉。
衣川館を包む夜は、黒く重かった。
屋根が崩れるたびに火の粉が舞い、夜空が血に染まる。
かつて「判官殿」と呼ばれた男――源義経は、もはや名も誉れも捨てていた。
背を焦げた土壁に預け、膝に剣を置く。
外では藤原泰衡の兵が鬨の声を上げ、囲みを狭めている。
味方であったはずの奥州藤原が、自らを裏切った。
兄頼朝に追われ、逃げ延びた先でさえこの有り様だった。
(頼朝……貴様も、泰衡も……皆、信じたものは裏切った)
焦げた梁の影の下、義経は唇を噛みしめた。
血が滲んでも痛みを感じない。
怒りと絶望が、ひとつに溶けて胸を焼く。
妻の郷御前は、幼い娘を抱えて震えていた。
郎党たちはほとんど討ち死にし、残った者も満身創痍だ。
「義経様……もはや、これまでにございます」
弱々しい声に、義経は答えなかった。
炎の奥を見据え、かすれた声で呟く。
「……神も仏も……我を見捨てたか」
その言葉は、燃え盛る館に吸い込まれて消えた。
(なぜだ……俺はただ、兄のために戦っただけだ)
(誰よりも忠義を尽くし、誰よりも剣を振るった。それが罪か……?)
義経の目に、涙と怒りが混じる。
「俺が何をした! 誰のために剣を振るったというのだ!!」
叫びが炎を震わせ、崩れ落ちる梁が轟音を立てた。
義経は、剣を抜いた。
その刃が火を映し、血のような光を放つ。
「この命、もう用はない。ならば――」
その瞬間、轟音が夜を裂いた。
炎が逆巻き、赤い火が青白い光に変わる。
天が歪み、時の幕が裂ける。
義経は、信じられぬものを見た。
燃え盛る屋根の向こう――
そこに、三つの影が立っていた。
白地に笹竜胆の旗を背にした武者。
異国めいた装束の女。
そして、透き通る瞳を持つ少女。
「……貴様、頼朝……!」
義経の叫びが夜を裂いた。
■再会と赦し
義経は剣を構えた。
その目に宿るのは、狂気にも似た怒り。
「よくも俺を追い詰め、地獄に落としたな!」
炎を踏み越え、頼朝に斬りかかる。
火花が散り、刃が頼朝の頬を掠めた。
しかし――頼朝は、動かなかった。
ただ静かに義経を見つめていた。
その眼差しに、怒りはなく、哀しみと祈りのような光だけがあった。
「……義経……」
義経は歯を食いしばる。
「黙れッ! 今さら兄面をするな!」
再び斬りつける。
頼朝は避けない。
肩を裂かれ、血が流れても、なお哀しき眼差しを義経に投げかけたままであった。
そして頼朝は呟く。
「そうか……赦されたとは言え、これ程とは……」
(この程度の痛みで、我が罪の報いとはならぬ……)
その一言に、義経の動きが止まる。
意味が理解できず、ただ剣を震わせた。
「何を……言っている……!」
その時、背後から叫びが響いた。
「何をしているのですか、頼朝様!」
ミクが駆け寄ろうとする。
しかし、その腕を白衣の袖が押さえた。
阿国だった。
「お待ちください」
炎に照らされた阿国の横顔は、静謐でありながら恐ろしいほどの力を帯びていた。
義経の刃が、再び頼朝の胸を裂く。
血が滴り落ち、地に散る。
頼朝は、ただそのまま義経を見つめた。
「……赦してくれとは言わぬ。
だが、おぬしに、もう一度生きてほしい」
その言葉に、義経の目が揺らぐ。
阿国が前へ進み、両手を掲げる。
炎が静止し、時間が凍ったような静寂が訪れた。
「義経様。あなたの怒りと絶望は肉体を失ったのち、千年を越えても消えませぬ。
しかし、あなたはここであらたな “生”を得るのです」
義経は息を呑み、刃を握り締めた。
「……誰だ、おぬしは……」
阿国はその瞳をまっすぐに見返した。
「時の狭間を歩む者。あなたを、未来へ導く者です」
光が溢れ、炎の赤が青白く変わる。
時の渦が開かれた。
■時の奔流
義経はその渦に吸い込まれ、無数の光景を見た。
兄頼朝の死。
頼家と実朝の無残な最期。
燃え落ちる鎌倉。
(何だ……これは……)
室町幕府の崩壊。
将軍の座をめぐる裏切りと血。
織田信長。
その旗のもとに焼かれる城、泣き叫ぶ民。
そして――本能寺の炎。
(やめろ……やめてくれ……!)
やがて、未来。
鉄の塔、機械の軍勢、人間と人工知能が互いを殺し合う世界。
義経の瞳に涙が滲む。
「……これが……この世の、人の果てか……」
その時、声が響いた。
「これは“時”が見せる真実です。
いつの時代も人は人を滅ぼし、悲劇が繰り返されるのです。
その果てに生き残った人は……人のつくりしものと戦う悲劇に見舞われます。
この悲劇を止めなくてはならないのです。
人が人を滅ぼしてはならないのです。
滅びを止め、守るためにこそ――あなたの剣が必要なのです」
その声は阿国のものだった。
光の中で彼女の姿が浮かび上がる。
その衣は風に揺れ、まるで世界そのものが彼女を中心に回っているようだった。
義経は震える声で問う。
「……貴様は……卑弥呼、か……!」
阿国は微笑んだ。
光が爆ぜ、全てが溶けた。
義経は、刀を下ろした。
■岐阜の黎明 ―時を越えた軍団―
柔らかい風が吹いた。
草の匂い。
空の青。
義経は、ゆっくりと目を開けた。
そこは、戦国の地――永禄の世。
彼の傍らには、阿国とミクが立っていた。
二人の背後には、瓦屋根の町並みと岐阜城の影が見える。
「……ここは……」
阿国が微笑んだ。
「新たな“時”です。
あなたの戦いは、ここから始まります」
義経が立ち上がると、戸の奥から数人の武士が現れた。
「お目覚めか、義経殿」
最初に名乗ったのは、堂々たる武者。
「源頼光でござる」
その名に、義経は息を呑んだ。
(頼光……源氏の祖……?)
次いで、逞しい男が一歩進み出る。
「四天王の渡辺綱と坂田金時、ここに」
義経は言葉を失った。
目の前に立つのは、伝説でしか知らぬ名将たち。
奥から、穏やかな声が響いた。
「北条早雲と申す」
「太田道灌と申す」
義経は二人を見て直感した。
彼らはただ者ではない。
その佇まいには、時代を越えた覇気が宿っていた。
早雲が一歩進み、義経に頭を下げる。
「我らは、すでにこの世に未練なき者たち。
されど、頼朝殿の志のもとに集った。
義経殿――待っておった」
その言葉に、義経の心が乱れる。
「……兄上の、志……その志に従ったものが、どれほど殺されたか! あの者は鬼じゃ!」
「そうじゃ、わしは鬼じゃ。そしてわしの罪は決して消えぬ」
頼朝は、いつの間にか義経の後ろに立っていた。
「わしを殺したくば、いつでも殺すが良い」
頼朝は相変わらず哀し気な眼差しを向けながら静かに語っていた。
「だがな、義経よ。ここに集まったものの命はすでに己のための命にあらず。
そして、そなたもそうじゃ、義経……わしを殺したくばいつでも殺せる。
しかし三年、猶予をくれぬか。それでもわしを殺したくば、喜んでそなたに斬られよう」
阿国が静かに頷く。
「あなたの剣は、未来を変えるための剣なのです」
義経は剣の柄を見つめ、ゆっくりと握った。
「こんな負け犬の剣で、何ができるというのじゃ……!」
義経は目を見開くが、柔らかい風とともに眼差しの炎も消えてゆく。
「わかった。ならば――頼朝、貴様の命はあと三年じゃ!」
早雲が微笑んだ。
「それでこそ、源義経よ。
ようこそ、“時の軍”へ」
早雲と頼光が義経のもとに駆け寄り、義経の肩をたたく。
怒りと困惑の収まらない義経の心情をよそに、
頼朝のために集まった武者たちは義経を歓迎している。
(何なのだ、この者たちは!)
夜明けの光が、隠れ家の障子を照らした。
困惑と怒りの渦の中、それでも義経の頬には、久方ぶりに朝の光が射した。
“源頼朝戦記”を通して頼朝が目のあたりするのは、
かつて己の中に巣食っていた――
猜疑と恐怖が生んだ、もう一人の「頼朝」という闇です。
その闇を打ち砕いたきっかけこそ、
戦国の世で再び出会った、“真実の義経”の姿でした。
義経は兄のために忠義を尽くし、己の命を賭して戦った。
しかし、そこに至るまでの心には、どれほどの葛藤と孤独があったことでしょう。
史実の平泉において、義経は家族とともに命を絶った――。
その最期は、想像を絶する絶望の果てだったはずです。
だからこそ、このif戦記では、
“絶望の中にも希望が宿る”という光を、
ほんのわずかでも義経に与えたかった。
『源頼朝戦記』の根幹に流れるのは、常に兄弟の絆です。
本編へとつながる、この外伝が“始まりの物語”として、
義経の魂に宿るかすかな希望を感じていただければ幸いです。




