80. はじまりは、甘く、いや、焦るような夢
はじまりは、甘く、いや、焦るような夜の夢
「はぁ、はぁ……」
すぐそこに感じる熱い吐息。ドクドクと、心臓がうるさいくらいに脈打つ。指先が、何か柔らかいものに触れて、ぞくりと震えた。暗闇の中、俺の腕の中に彼女の華奢な体が収まっているのがわかる。首筋に触れる唇が、ちゅ、と甘い音を立てて吸い付いた。ひゅっと息を飲んだ俺に、彼女は満足げに微笑む。
「……すてきよ、神崎さん」
その声に、全身の毛穴がぶわっと開く。耳元で囁かれる甘い言葉に、俺の理性のタガが外れそうになる。今にも触れ合いそうな唇。あとほんの数ミリで、俺たちの距離はゼロになる、その時……
「神崎様! 神崎様、朝でございます!」
ああ、なんてことだ! 清々しいくらいの執事の声で、俺の夢はあっけなく終わりを告げた。目を開けると、見慣れた質素な天井がそこにある。枕元には、相変わらず無表情な執事の田中さんが立っている。
「……田中さん、もう少し静かに起こしてくださいませんかねぇ?」
寝ぼけた声で呟くと、田中さんはぴくりともせずに答えた。
「申し訳ございません。しかし、本日も朝食のお時間が迫っております。冷めてしまいますと、お嬢様のお口に合わないかと」
ううむ、ごもっとも。だけど、今見た夢がリアルすぎて、俺の心臓はまだバクバク言っている。夢の中の彼女……って、あんな可愛い声で「すてきよ」なんて言われたら、そりゃあ夢でも焦るってもんだ。夢の続きを見せてくれ、田中さん! いやいや、そんなこと言えるわけがない。だって俺は、あの鳳凰寺麗華お嬢様の、専属ボディーガードなんだから。
世間知らずの出戻りお嬢様
自己紹介が遅れました。俺は神崎。ごく普通の、いや、ちょっとだけ腕に自信がある男だ。今から語るのは、俺が鳳凰寺麗華お嬢様のボディーガードになってからの、爆笑と胸キュンの日々。
鳳凰寺麗華お嬢様。世間知らず、わがまま、箱入り娘。世間一般から見たら、きっとそんなイメージだろう。そして、それはだいたい合っている。彼女は筋金入りのお嬢様で、世間の常識がほとんど通用しない。しかし、それがまた、彼女の魅力の一つでもある。
彼女がこの実家に戻ってきたのは、半年前のことだったらしい。それまでは、とある男と結婚していたという。政略結婚というやつだ。名家同士の結婚は、家と家との繋がりが全て。愛なんて、二の次、三の次。しかし、その結婚生活は想像を絶するものだったと聞いている。夫はとんでもないクズ野郎で、家庭内暴力まで振るっていたとか。さらに、彼女を家から一歩も出させない監禁状態にまで追い込んでいたというから、俺は話を聞いただけで怒りがこみ上げてきた。
そんな地獄のような日々から救ったのが、彼女の両親だった。夫側の会社の経営が傾き、もはや政略結婚を続ける意味がないと判断し、彼女を呼び戻したらしい。皮肉な話だが、彼女にとっては救いだった。
実家に戻ってきて、ようやく人間らしい生活を取り戻した彼女。しかし、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。
突然の悲劇、そして俺の使命
「神崎様、鳳凰寺のご両親が……」
田中さんの口から告げられた言葉に、俺は思わず息を飲んだ。麗華お嬢様のご両親が、事故で亡くなった、と。あまりにも突然の出来事に、俺の頭も真っ白になった。信じられない。だって、つい先日までお嬢様と笑顔で話していたじゃないか。
葬儀は、重苦しい空気に包まれていた。麗華お嬢様は、憔悴しきった様子で、ただ茫然と立ち尽くしていた。その時、彼女の祖父である鳳凰寺家の現当主が、俺を呼び出した。俺の家族が鳳凰寺家に仕えていたという経緯もあり、また俺の能力と経歴が祖父の目に留まったのかもしれん。
「神崎君、単刀直入に言おう。麗華の身が危ない」
当主の言葉に、俺は静かに頷いた。
「あの男が、何か企んでいる可能性が高い。両親の事故も、決して偶然ではなかろう」
当主の言葉に、俺はゾッとした。あのクズ男が、そこまで狡猾だったとは。
「そこでだ」当主は、どこからか取り出した書類を俺に見せた。「これが君の新しい任務だ」
祖父が指差す先には、「専属ボディーガード契約書」と書かれた書類があった。
「今日から、麗華のボディーガードになってもらう。常に彼女と行動を共にし、身の安全を確保しろ」
俺は二つ返事で引き受けた。元々、あの男から彼女を守りたいという気持ちはあった。だが、まさかこんな形で、俺の人生が彼女と密接に関わることになるとは、この時はまだ知る由もなかった。
そして、翌日。俺は麗華お嬢様の前に立った。
「今日から、お嬢様のボディーガードを務めさせていただきます。神崎と申します」
俺は努めて冷静に、そして真剣な眼差しでお嬢様を見た。彼女は俺の顔を見ると、なぜか頬を赤らめ、目を大きく見開いた。
「……神崎、さん?」
彼女の声は、ひどく上ずっていた。まさか、夢の彼が、現実に、私のボディーガードとして現れるなんて!――彼女の心の声が聞こえたような気がして、俺は思わず薄く笑いを浮かべた。――いやいや、これは俺の妄想だ。
ボディーガードは、お嬢様の変態紳士?
俺のボディーガード生活が始まって、俺の日々は一変した。まず、お嬢様の行動は全て俺が管理することになった。散歩に行くにも、買い物に行くにも。下手すればお手洗いにも同行しろと当主には言われたが、流石にそれは断固拒否した。
「お嬢様、本日のご予定は庭園を散策、その後、読書でございますね?」
「ええ、そうですけれど……何か?」
「いえ、念のため確認を。万が一の事態に備え、わたくしは常に死角に入り、お嬢様を護衛いたします」
そう言って、俺は庭園の木の陰に隠れたり、図書館の書棚の裏に潜んだりした。お嬢様は最初は俺を怪訝そうな目で見ていたが、そのうち慣れたようだ。
ある日、お嬢様が自室で読書をしていた時、俺は彼女の部屋を訪れた。
「お嬢様、少々よろしいでしょうか」
「あら、神崎さん。どうかなさいましたの?」
俺は真剣な顔で、お嬢様の目の前に分厚い本を差し出した。
「これです」
「……これは?」
「お嬢様が読まれております小説で、ヒーローがヒロインを背後から抱きしめる描写がございます。もしも不審者が同様の行為を試みた場合、瞬時に対応できるよう、体得しておく必要がございます」
俺は真顔で、お嬢様に抱きしめられ方をレクチャーし始めた。
「まず、このように背後から腕を回し、首元に顔を近づけます。この時、息遣いを意識し、相手に不安を与えないように……」
俺は彼女の背後に回り込み、まさかの実演。俺の腕が、お嬢様の身体を優しく包み込む。背中に当たる彼女の柔らかな感触、首筋に感じる甘い匂い。
「あ、あのっ……神崎さんっ……」
お嬢様の顔は、きっと真っ赤になっていたに違いない。心臓は、警報ベルのように鳴り響いていた。俺の、ではなく、彼女の心臓が。
「お嬢様、いかがでしょう? 何か違和感はございますか?」
俺は全く動じることなく、真剣な表情でお嬢様に問いかけた。この時、俺は彼女のあまりの可愛さに、内心では平静を装うのに必死だった。
「い、いえっ! 別に、違和感なんて、ありませんわ!」
彼女は精一杯平静を装っていたが、声は裏返っていた。その日以来、俺の脳裏には、俺の腕に抱きしめられた彼女の温かさが焼き付いて離れなくなっていた。
ドタバタお忍び外出
お嬢様は、屋敷に閉じ込められていた反動で、世の中のことに疎い。特に、巷で流行しているものなど、全く知らない。ある日、俺は「お嬢様は、何か世間との交流を図るべきでは」と当主に提案し、二人で街へ繰り出すことになった。もちろん、変装して。
「お嬢様、こちら帽子とサングラスでございます」
俺が差し出したのは、女優がプライベートで使うような、つばの広い帽子と大きなサングラス。
「わたくし、これで本当に目立ちませんこと?」
「ええ、お嬢様の美貌を隠すには、これくらいが限界かと」
俺は真顔でそんなお世辞を言った。彼女は少し照れたような顔をしていたが、俺の言葉に満足したようだった。
俺たちは、デパートへ行った。初めて見る賑やかな光景に、お嬢様は目を輝かせた。
「まあ! こんなにたくさんのものが売られているのですね!」
「お嬢様、あまり大きな声で感嘆されますと、目立ちます」
俺は注意しながらも、彼女が次々に興味を惹かれるものを見つけては、触ってみたり、匂いを嗅いでみたりするのを眺めていた。
化粧品売り場では、最新のリップグロスを見つけた。キラキラと輝くそのグロスに、お嬢様の心は惹きつけられたようだ。
「神崎さん、この色、わたくしに似合うと思いますこと?」
彼女が尋ねると、俺は真剣な顔で彼女の唇をじっと見つめた。その視線に、彼女はドキドキしているようだった。俺も、彼女の美しい唇を見つめながら、内心ではドキドキが止まらなかった。
「……お似合いかと存じます。しかし、お嬢様の本来の唇の色も、充分魅力的かと」
俺はまたしても、真顔で、恥ずかしいことを言った。彼女の顔は、きっとトマトのように真っ赤になっただろう。店員さんは、私たちを怪訝そうに見ていたが、俺の迫力に何も言えなかった。
次に、俺たちはゲームセンターへ行った。生まれて初めて見るUFOキャッチャーに、お嬢様は大興奮!
「神崎さん! あのぬいぐるみ、欲しいですわ!」
彼女が指差したのは、耳が長い巨大な黄色いネズミのぬいぐるみ。
「承知いたしました。わたくしにお任せください」
UFOキャッチャーは俺の得意技だ。俺は、淡々とUFOキャッチャーのレバーを操作し始めた。俺は集中力を高めてアームを動かした。額に汗を浮かべ、真剣な表情でUFOキャッチャーと格闘する俺を、彼女は食い入るように見つめていた。
そして、数分後。俺は見事にネズミのぬいぐるみをゲットした!
「やったー!」
お嬢様は子供のように跳ね上がって喜んだ。俺は、少しだけ口元を緩めて、満足げな表情を浮かべた。
「お嬢様が喜んでくだされば、何よりでございます」
俺はそう言って、巨大なネズミのぬいぐるみを、まるで自分の子供のように抱きかかえた。その姿に、彼女はまたしても胸がキュンとしたようだった。その時、俺は初めて、彼女の無邪気な笑顔が、何よりも俺の心を満たすことを知った。
急接近、そして俺の告白
お嬢様と過ごすうちに、俺は彼女に惹かれていることに気づいていった。彼女の真面目で不器用な優しさ、そして時折見せるクールな表情の奥にある、人間らしい温かさ。全てが俺にとって、新鮮で、魅力的に映ったのだ。
ある夜、俺はお嬢様の祖父である当主が書斎で、数人の使用人と何やら真剣な話をしているのを盗み聞きしてしまった。
「……麗華様の安全を、最優先で」
「うむ。あの男の動きが活発になってきている。油断はならん」
彼らの会話から、麗華お嬢様の夫が本当に彼女を狙っていることを確信した。そして、俺は命をかけて彼女を守らなければならないと、改めて決意した。
その日の夜、麗華お嬢様は俺を呼び出した。
「神崎さん、少しお話があります」
「はい、お嬢様。何でございましょうか」
俺はいつものように、真面目な表情で彼女の前に立った。彼女は意を決して、俺に尋ねた。
「神崎さんは……わたくしのこと、どう思っていらっしゃいますか?」
彼女の問いに、俺は一瞬、戸惑った。しかし、すぐにいつもの真剣な表情に戻り、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。
「わたくしは、お嬢様のボディーガードでございます。お嬢様の安全を確保すること、それが私の使命です」
俺はボディーガードとして、彼女に最も適切な答えを返したつもりだった。だが、彼女はがっかりしたように、視線を落とした。その時、俺の口から、抑えきれない言葉がこぼれ落ちた。
「……しかし、それだけではございません」
彼女はハッと顔を上げた。
「お嬢様は、わたくしがこれまで出会ったどんな方よりも、純粋で、美しく、そして……守りたいと、心からそう思える方でございます」
俺の言葉に、彼女の全身が熱くなるのがわかった。
「わたくしは、お嬢様を、一人の女性として、心から尊敬しております。そして……」
俺は、一歩、彼女に近づいた。そして、彼女の両手をそっと握りしめた。俺の大きな手が、彼女の小さな手を包み込む。
「お嬢様を、愛しています」
その言葉に、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。夢じゃない。これは現実だ。俺は、彼女に抱きついた。彼女の華奢な体が、俺の腕の中にすっぽりと収まる。こんなにも細くて、繊細な身体を、ずっと抱きしめていたかった。
「神崎さん……わたくしも、わたくしも、あなたを愛しています……!」
彼女の声が、俺の耳に優しく響いた。
最強の刺客、そして真実
しかし、俺たちの幸せな時間は長くは続かなかった。ある日、屋敷に謎の男たちが侵入してきたのだ。彼らは皆、黒いスーツに身を包み、鋭い目つきをしていた。
「お嬢様、こちらへ!」
俺は素早く彼女を庇い、男たちと対峙した。俺はまるで、映画の主人公のように、次々と男たちをなぎ倒していく。これまで培ってきた全ての技術を駆使して、彼女を守る。
しかし、男たちは次々と現れ、数で押されていく。その時、一際大柄な男が、麗華お嬢様めがけて飛びかかってきた。
「麗華! 諦めろ!」
その声に、俺はゾッとした。あのクズ夫の声だ。まさか、奴が直接乗り込んでくるなんて!
「お前は、俺のものだ! どこへ逃げても無駄だ!」
奴は麗華お嬢様の腕を掴み、無理やり連れ去ろうとした。その時、俺は血相を変えて叫んだ。
「お嬢様に指一本触れるな!」
俺は奴に飛びかかり、激しい格闘が始まった。奴は、驚くほど強い。しかし、俺の動きはそれを上回っていた。俺の目つきは、これまで見たことのないほど鋭く、全身から殺気にも似たオーラが放たれていたに違いない。
激しい攻防の末、俺は奴を組み伏せた。
「何のつもりだ、貴様!」
奴が叫ぶと、俺は冷たい声で答えた。
「お嬢様を狙う不届き者から、お嬢様を護衛する。それが、俺の使命だ」
その時、当主が駆けつけた。
「神崎君、よくやった」
当主は、奴に冷たい視線を向けた。
「貴様、ここまで落ちぶれたか」
奴は、悔しそうに顔を歪ませた。
「くそっ……! 俺の会社が倒産寸前なんだ! お前たちの財産さえ手に入れば、全て解決できたんだ!」
奴の口から、驚くべき真実が語られた。彼の会社は倒産の危機に瀕しており、その打開策として、鳳凰寺家の財産を狙っていた、と。麗華お嬢様のご両親の事故も、奴が仕組んだことだったのだ。
「許さない……! 私の両親を……!」
麗華お嬢様は怒りで、震えが止まらなかった。俺は、そんな彼女の手をそっと握りしめ、彼女の怒りを鎮めるように、ずっと手を添えていた。
そして、幸せな結末
夫は、その後、警察に引き渡され、彼の悪事は全て明るみに出た。彼の会社は完全に倒産し、彼は二度と俺たちの前に現れることはなかった。
麗華お嬢様のご両親の死の悲しみは、すぐに癒えるものではないだろう。しかし、彼女は祖父である当主と俺という、かけがえのない存在に支えられ、少しずつ前を向いて歩き出すことができた。
そして、俺と麗華お嬢様との関係も、ゆっくりと、しかし確実に進展していった。
「お嬢様、本日はどちらへお出かけになりますか?」
相変わらず、俺は彼女の行動を管理しようとするが、その表情は以前よりもずっと柔らかい。
「ふふっ、神崎さん。もうお嬢様なんて呼び方、お止めくださいまし」
彼女は、俺の腕にそっと自分の腕を絡めた。
「麗華、でございます」
俺は少しだけ照れ、口元を緩めた。
「……麗華」
俺の声は、自然と優しくなった。俺は、彼女の顔を見下ろし、満面の笑みを浮かべた。
「神崎さん、わたくし、貴方と出会えて、本当に幸せでございます」
俺は、彼女を抱き寄せ、その唇にそっとキスをした。それは、あの夢で見たキスよりも、ずっと甘くて、温かいキスだった。
麗華お嬢様は、もう世間知らずの箱入り娘ではない。大切な人を守り、愛する人と共に生きる、一人の女性として、これからも強く生きていく。
そして、彼女の隣には、いつも、ちょっぴり変だけど、最強で、最高に優しいボディーガード……俺が、いるのだから。
これからも、俺たちのラブコメディは、続いていくことだろう。どうか、お楽しみに!




