【空戦の章】
目の前に見えるのは、白いシャツとその上に纏う灰色の上着だけだった。白いシャツは部分的に赤く染まっている。何が起こったのか、セフィークには解らなかった。唯一、彼女が理解できた現実は、腹部に走る痛みだけだった。
「セフィー、セフィー!」
フェニーシアのナイフを腹部に受け、セフィークは倒れてしまった。あと一歩というところで、ティバロはセフィークを助ける事が出来なかったのだ。ナイフを抜く事が多量出血を引き起こす可能性が高いと考えていたティバロは、そっとセフィークを抱き起こしていた。
「ティバロ…君?…私…」
「喋るな!すぐ手当てを……」
応急処置をしなければと慌てるティバロの背後には、フェニーシアが呆然と立ち尽くしていた。
「私は…貴方と幸せになりたいだけよ?…どうして、そんな女と…」
左右に首を振り、フェニーシアは絶望した表情を見せるが、ティバロにはその言動など届くはずも無い。
「何か…何か言ってよ、ティバロ!」
「…もしも、まだ間に合う状態だったら、良かったのにな。
でも、やっぱ…フェニーは死んじまったんだ。
俺は『今』を生きて『今』を大切にしたいんだ、フェニー。
だから…俺は、俺には…こうするしか…!」
ティバロは悲痛な表情を浮かべたまま、懐からゆっくりと魔弾銃を取り出し、フェニーシアに向けた。
「ティバロ?何を…するの?」
背後で続く戦いの音を聞きながら、ティバロはフェニーシアを睨み付けた。
「俺は今度こそ、大切なものを守り通すんだ!」
フェニーシアは既にイヴルの配下として、忠実に仕えていた。それは彼女が一度死に、「黒の一族」の「聖水」を飲まされたからである。「聖水」に冒された者は、人間ではなくなる。それが例え人の姿をしていても、以前と同じ人間では在りえない。
セフィークが刺され、ティバロはようやく理解できたのだ。例え、過去に愛した者でも、今はもう異なる存在なのだ。
「フェニーシア、もう…苦しまなくていい…悲しまなくていい。
…ゆっくり…休んでくれ…!」
「ティバロ!」
フェニーシアの叫びは、銃声に掻き消され、ティバロの放った炎の弾丸によって、彼女の体は燃え上がった。断末魔とも言える叫び声が辺りに響く。ゆっくりと銃を降ろし、ティバロは悔しそうに奥歯を噛みしめた。
腹部を刺され、苦しそうに顔を歪めるセフィークを前にしながら、ティバロには何も出来なかった。彼女を助けようにも、傷を癒す薬も魔法も持ってはいない。
「ごめん…ね、ティバロ君。私が…回復係なのに…」
弱々しく笑みを浮かべ、セフィークはそう呟いた。
「自分を縛り付けても良いのは、それが自分にしかできない場合だけです。
回復は私にもできるという事を、お忘れなく…」
どこからともなく青が現れると、セフィークは困惑した。
「私にしか出来ない事…?」
「そうですね…例えば今なら、一声だけで士気を高める事ができるはずですよ」
何度も、心配そうにセフィークの状態を確認するユーク達を横目に、青は笑みを浮かべる。
「私には出来ない事です。…お願いしますね」
セフィークの傷が癒えると、青は彼女にそう言い残し、姿を消してしまった。
その様子を、戦いながら見ていたミティーは、ホッと胸を撫で下ろしていた。いくら青がいるとはいえ、傷を癒す人間が多いに越した事はない。
─ありがとうございます、青。これで彼女も自信を持つでしょう。
─私はただ、ミティー様の言葉を伝えただけです。
ミティー様からの託だと、やはり問題が生じるのでしょうか…?
姿を消した青にミティーが礼を言うと、青は悲しげな声を返す。
─もう心配はないと思うけれど…念の為、ですよ。
そう告げると、ミティーは右手を黒装束の男達に向かって翳した。そこから炎の球が飛び出し、男達の中心に向かうと、爆発を起こす。
ミティーは男達に攻撃を続けてながら、周りの様子を窺った。ユークの魔法、ライナの弓技、マティーナの連続攻撃により、確実に男達は倒れていく。一方、イヴルと直接対峙しているクライシュードは、涼しい顔をしているイヴルに些か苦戦しているようだった。初めて戦ったときよりも力を付けているイヴルに、クライシュードは舌打ちする。
「どうした?貴様の力はこんなものか?」
「うるさい!」
ブレイドを手に、何度も斬り掛かるクライシュードに対し、イヴルはそれを短剣で弾く。イヴルの短剣は黒い気に包まれ、如何なる武器でも弾き返すことができた。
「貴様も、口だけのようだな…。
まぁ…所詮、ミティーの後を歩くだけのような男は、どいつも口先だけだ。
…だが、俺は貴様らとは違う」
イヴルの目つきが鋭くなり、クライシュードはそれの放つ殺気に冷や汗を流した。本来ならば、イヴルが言い放った言葉に反論したいところだが、彼の殺気に飲まれ、それもできない。
「貴様などには解るまい。ミティーの放つ神々しいまでの光が…。
『竜の力』による光が魅せるもの…その素晴らしさ」
恍惚とした表情で、イヴルはミティーを見つめる。まるで愛おしい者でも見るような視線に、クライシュードは眉を潜めた。
「お前…は…何を言っているんだ?」
「だから言っただろう?貴様などには解るまい…と」
「そうじゃない!お前は……シューコアの事を…!?」
段々と、イヴルの目的が解らなくなってきたクライシュードはイヴルの言葉に混乱していた。
「…イヴル、一つ聞きたい。『竜の力』はどうやれば手に入ると言うんだ?
今の主はシューコアだ。それを殺しても意味は…」
「本当に、何も知らないようだな。冥土の土産に教えてやろう。
本来『竜』を従える事が出来るのは、その血を受け継ぐものだけだ。
しかし、『竜』の主と結ばれることができれば、その者は主と同等に扱われる。
即ち、もう1人の主というわけだ」
勝ち誇ったような笑みを浮かべ、イヴルは返した。
「昔は噂にしか聞いたことのなかった『竜の力』の持ち主…。
それを初めて見た時、俺は決めた。必ずや、その力を手に入れてみると…!」
そう言って、イヴルはクライシュードを睨み付ける。
「だから、貴様のような何も解らぬ人間がミティーの傍にいるなど、断じて許さん!」
間合いを取り、イヴルは遠くから短剣で切り払った。黒い気が剣閃に沿った形で放たれる。実体の持たない「ブレイド」の刃は黒い気を受け止め、クライシュードはそれをイヴルの方へと跳ね返した。
「…お前のそれは、ただの嫉妬だ、イヴル!」
高く跳躍して反撃をかわしたイヴルは、眉を潜めた。
「嫉妬…だと!?この俺がそんなものを抱くことなどない。戯言を…!」
地面に降りてきたイヴルは再びクライシュードを睨みつけていた。
「…まぁ…お前がそう思うならそれでいいさ。
だが、これだけは譲れない。俺はシューコアを守り抜く。
それが今の俺の使命であり、仕事だ。
お前をこれ以上あいつに近づけさせない為にも、ここで決着を付ける!」
イヴルは拳を強く握り締め、指の間から赤い血を滴り落としている。
「…何も知らずに大口を叩くな!」
スッと、イヴルがクライシュードに向けて手を翳すと、彼を目掛けて氷の槍が次々と降ってきた。クライシュードが後退し、やがて、ミティーの傍まで辿り着くと、イヴルは攻撃を止めた。それと同時に、イヴルとミティー達の間に巨人が3対現れた。
「!何だよ、こいつは!」
「あの時の巨人か!?」
「…こんな木偶人形に私の相手をさせるの?イヴル…!」
地下遺跡での戦いを思い出してみても、この巨人達と互角に戦えるかどうか疑問だったにも関わらず、ミティーは不服そうにそう返した。
「これはこれは…心外だな。一時だけ、お相手していてもらいたいだけだ。
すぐに、ミティーに相応しい相手をご用意しよう」
あざけ笑うように、イヴルはそう言った。すると、懐から銀の横笛を取り出し、徐に吹き始めた。透き通った綺麗な音が辺りに響き渡ると、ミティーは震え始めた。
「…シューコア…?」
「っ…だめ…!」
走り出そうとするミティーを、クライシュードは止めた。
「おい!シューコア!あの巨人どもに突っ込む気か!?」
「止めないと…!」
クライシュードの声はミティーに届かず、彼女は前へと進みたがる。
「……どうやら、詳しく話を聞いている暇はないみたいだな。
『あれ』を何とかする術はあるのか?シューコア」
ミティーのただならぬ雰囲気を察し、クライシュードは巨人達の動きを見ながら、ミティーの正面に立った。一瞬だが、ミティーの視界はクライシュードに遮られ、彼女は我に返る。
「あ…クライス…私…」
今にも泣き出しそうなミティーに、今度はクライシュードの方が困惑した。
「……正直に言え、シューコア。俺達が邪魔なんだろ?
俺達がいなければ、『竜の力』を最大限に使える…違うか?」
彼女が答える前に、巨人が1匹、クライシュードに襲い掛かった。彼は軽く舌打ちすると、大振りした巨人の腕を横に避け「ブレイド」でその腕を斬り落とす。
「どうなんだ!?シューコア!」
「…そう…だね…。みんながいると、みんなにも被害が及ぶから…。
だから…『竜』は呼べない…」
クライシュードから顔を背け、ミティーは小さく呟いた。クーオフク上空にあるこの戦場は障害物がない為、存分に力を使えるが、それを逆手に取ることもできる。仲間を仲間と思わないイヴルが成そうとしている事こそ、まさにそうだった。
「俺達のことはいいから気にするな。危なくなれば、どうにか逃げる。
…奴等を倒すことだけを考えるんだ」
─チカラヲサイダイゲンニヒキダシテハイケナイ─
もう一人の自分が警告を出してい。それを脳裏で聞きながら、ミティーは顔を上げた。
─ミティー殿は既に、力の制御ができるはずだ。
過去に起きたような惨事にはならない。自信を持つのだ。
過去に起きた惨事─。
それはいまだにミティーを苦しめていた。未熟な自分…暴走する力…、それに巻き込まれていく人々の死。休みなく響くイヴルの笛の音が、更に過去を呼び起こす。記憶を埋め尽くす赤の数々に、ミティーは気が遠くなった。
「…シューコア…?」
クライシュードの声に、ミティーは我に返った。
「っ…ぁ、ごめんなさい。…クライス、みんなを連れて…ここから立ち去って。
できる限り遠くに」
「お前なら、そう言うと思った…」
彼は解り切ったように溜息を吐いた。片腕を失った巨人がそんな2人の間に逆の腕を振り下ろす。それぞれ左右に逃げる2人に、さらに2匹の巨人が追い討ちをかけた。
「巨人はお前を狙っている!呪文の詠唱するヒマないぞ」
「そ…それは…、何とかするから、早く……」
「1人で何でもできると思うな!」
ミティーの言葉を遮り、クライシュードは声を荒げた。
「…お前は確かに強い力を持っているかもしれない。
だが、俺達と同じ人間なんだ。
どれ程強い力を持っていても、何もかもお前1人でできると自惚れるな!」
それはどこかで聞いた懐かしい言葉と良く似ていた。ミティーは一瞬、懐かしい人の影を見たが、巨人が攻撃してくると、その幻も消えた。
「…解りました…。それでは、暫くの間、巨人を抑えていてください…」
「シューコア…!…解った!」
クライシュードが巨人達に攻撃を始める。それを見ながら、ミティーは微笑んだ。
─ミティー殿…。
─…大丈夫です。私は…私の力を信じます!…皆、私についてきてくれますか?
竜達にとって、主からのその問いかけは愚問だった。
─聞くまでもない。
無愛想で不器用な翠。
─あったりまえだろ!
とにかく戦う事が好きな炎。
─勿論ですとも。
命の尊さ、優しさを教えてくれた青。
─今更、何を仰っているのか…。
そして、いつも冷静沈着な黄。
ミティーは瞳を閉じ、彼らに感謝した。
─ありがとう…みんな。…では…行きます!
ゆっくりと目を開けると、ミティーは両手を向かい合わせて構えた。一度深呼吸をして、口を開く。
「“我が身に宿り仕えし竜よ、久遠の絆にて結ばれし汝らを、今、此処に喚び給う。
其は我が血肉となりて舞い、我は其に此の詠を捧げん”」
その詠唱に反応するように、巨人達は一斉にミティーを狙い始める。彼女の詠唱と笛の音が重なり、その場は不思議な雰囲気に包まれ始めた。
何処か神秘的なイヴルの横笛の音は、禍々しい気を漂わせ、彼の周りに黒い気が纏わり始める。空もそれに比例するように、暗雲に包まれていった。
対してミティーの詠唱は4色の光が、それぞれ交互にミティーを包む。広がる暗雲に対抗するように、晴れ間からは月が顔を覗かせていた。
これから起ころうとしていることは、本人達以外には誰も分からなかった。
2人が織りなす不思議な旋律が、辺りに響く——。