【闇夜の章】
夜の闇は彼らの姿を隠すのには丁度良かった。駆け抜ける黒い影は、極力音を立てずに移動していた。地面から屋根まで跳び上がり、屋根から屋根へと移動する。それらは唯一つの場所を目指していた。
「鷹ノ巣」から少し離れた普通の宿屋─そこにミティー達がいることは既知の事だった。すぐに、黒い影達は宿屋を取り囲んだ。静まり返った街の一角が、怪しい雰囲気に包まれる。
「今日こそ、『竜』の力…いただくぞ、ミティー・フェン=シューコア。
……行け!」
男の声に応え、黒い影は一斉に動き出した。
ミティーの回復を待つことにした一行は、ミティーの取った部屋の両隣にも部屋を取り、ティバロ達にそこで待機してもらうことにした。「鷹ノ巣」へ戻ることが危険だと解したティバロ達は素直にそれに従った。ただし、そうなったのも自分達が原因なのだからと、黄は宿代を持つと言った。ティバロ達は自分達にも非があるのだからと、断ろうとしたが、現実問題として、彼らに部屋を二つ取れるだけのお金は持ち合わせていなかった。結果的に、ティバロ達はミティーのお金で部屋を取ってもらい、彼女が回復するのを待つに至っていた。
しかし、不穏な気を感じたミティーは、眠りから目覚め、体を起こした。流した血がすぐに戻るはずも無く、ミティーを眩暈が襲う。
「シューコア!?…まだ寝ていろ」
部屋へと入って来たクライシュードは、ミティーが起き上がっている様子を見て驚き、思わず声を上げた。彼は手にトレーを持っており、それには彼女の為に持ってきた食事が乗せられている。
「大丈夫、ちょっとクラクラするだけだから…」
「それは大丈夫とは言わないぞ」
「……五体満足でいることが大丈夫って事でしょ?」
自分の状態を理解しているミティーはそう言って、クライシュードに笑顔を向ける。
「五体だけじゃなく五感も満足なのが大丈夫って事だ!」
貧血を起こしているミティーに対し、きつい言葉を浴びせるつもりはなかったが、あまりにも通常と変わらないミティーに、クライシュードは呆れを通り越してしまった。
「五感も満足だよ。…イヤってくらいにね」
「ミティー殿?…ミティー殿も気付かれたのか…。やはり」
窓から外を眺めていた黄は、ミティーとクライシュードの会話に振り向く。
「えぇ…。本当にイヤと言うほど感じていますからね。この気配は」
毎度の事で、彼女は既にその気配に慣れていた。まだ体が全快ではないことは彼女にも解ったが、来てしまったものは迎えるしかない。彼女は小さく溜息を吐いた。
「クライス、皆さんをこの部屋に呼んでくれる?すぐに」
「…先程から感じていたこの嫌な気配は…あいつら、というわけか。解った…」
まだ回復していないであろうミティーが戦うのは好ましくないが、黒の一族が迫っているのであれば話は別である。もうティバロ達を巻き込みたくないとは言っていられない。すでに彼らも被害者なのだ。
クライシュードは両隣の部屋の戸を強く叩いた。部屋の戸が叩かれると解っているのだから、一つの戸を叩き、その場で待つ必要はない。そのクライシュードの予想を裏切らず、すぐにティバロ達は廊下に出て来た。
「あいつ…起きたのか?」
「あぁ、まあ…起きたことは起きたんだが…。奴等が来た。
すぐに戦闘になるだろう。準備だけは怠るなよ」
奴等が来た。その言葉にティバロの眼つきが鋭くなる。自分やフェニーシアを「聖水」に冒した、全ての元凶がやって来たのだ。こちらから出向く手間が省けたと、ティバロは既に戦闘態勢にあった。
「シューコアが呼んでくるように言っていた。早く来い」
クライシュードの態度は相変わらずだったが、ティバロ達には言う通りにするしかなかった。
部屋に戻ったクライシュードは、ミティーが着替えを終え、部屋の中央で立って待っていることに頭を抱えた。そこまで回復したことを喜ぶべきか、まだ全回復ではないのに立ち回っていることを怒るべきかと頭を悩ませているようだ。
「もう立って大丈夫なんですか!?」
「え?あぁ…はい。こういうことには慣れてますから…」
慣れている慣れていないの問題ではないが、顔色も良く、特に問題がなさそうだったので、セフィークは胸を撫で下ろした。
「先程はあのまま倒れてしまい、申し訳ありませんでした。
無事に『聖水』を祓えたことを嬉しく思います。
…と喜びたいところですが『黒の一族』が宿を取り囲んでしまいました。
本来、これは私達の問題で、皆さんをお呼びするべきではないのですが…」
「何言ってんだよ」
いつまでも畏まっているミティーに、ティバロは呆れた様子でそう呟いた。
「俺はあいつらに『聖水』ってやつに冒された。
挙句の果てに何も知らないままあんたを…その…傷付けた。そうだろ?
こっちは被害者であり加害者でもあるんだ。
いつまでもそんな敬語で話されてたら、こっちが困る。
謝んのはこっちの方だろ?あんたが謝る必要なんてないんだよ」
その言葉に、今度はミティーが驚いた。久しくそう言ってくれる人がいなかったので、彼女は不安になっていたのかもしれない。
「…あ…その…。…ありがとう。そう言ってもらえると、快く戦えます…」
照れているのか、恥ずかしそうに少し俯きながら、ミティーは微笑んだ。
「奴等は今にもここに突入してくると思って良いでしょう。
しかし、ここを戦場にするわけにはいきません。
そこで、戦いの場を別に設けたいと思います。準備は良いですか?」
宿屋の主達こそ、全く無関係であり、戦いに巻き込んではいけない人達であった。ティバロはセフィーク達を見回し、簡単に確認を済ませると、静かに頷いた。どこへ向かうのかは解らなかったが、宿屋にいるわけにはいかない。
「…で、どこに行くんだ?外には奴等がいるし、出た途端に見付かっちまうぞ?」
「かと言って、このままでは宿に入って来てしまいますよ。
まぁ…とにかく、そのまま動かないでいてください。行きます!」
ミティーが右手を掲げると、腕輪の魔力石が眩い光を放った。一瞬にして、その部屋にいた者達は消え、静寂が辺りを包む。
次に一行が現れたのはクーオフクの遥か上空だった。冷たい風が吹く中、足場のない空に突然現れては、さすがに皆は狼狽している。
「…って、何でンなとこに出んだよ!」
「あ、ごめん!」
翳していた右手を降ろし、地上と平行するように左から右へと流すように動かす。彼女に、呪文は一言も必要なかった。皆が落下していたそのすぐ下に柔らかな床が現われ、皆を受け止める。無事に受け止めると、床は硬質化し、誰にも邪魔されない広大な戦場が完成した。
「……すごい。呪文を一言も唱えないでこんな…物質化魔法を発動させるなんて…」
ユークが床に座り込んだまま固唾を呑むと、セフィークもうんうんと頷いた。
「構えていた方がいいですよ。今から、奴等をここに喚びますから…」
「え!?ちょ…待って!」
マティーナが慌てて立ち上がり、さっと衣服に付いた埃を払い始めた。ライナなどは相変わらずのマイペースぶりで、慌てる様子は全くない。セフィークも少々緊張はしているが、手にはしっかりと杖が握られている。あまり強く握っていても、それで殴るわけではないので意味はないのだが、気合の入り方の違いなのだろう。ユークも落ち着いた様子でロッドを握り、いつでも戦える状況にあった。そして、ティバロは深呼吸をすると剣の鞘に手を掛ける。
彼らの様子をざっと確認したミティーは再度右手を掲げた。やはり、腕輪の魔力石が光り、空にできた戦場に、次々と光の柱が現われては消え、その光が降りた場所には黒の一族が姿を現した。酷く慌てている様子だったが、その視界にミティーを捕らえると、彼らは自分達の置かれている状況よりも、彼女を殺す目的の方に気が向いたのか、目つきが変わった。
「ようこそ、『黒の一族』達よ…。ここでは何者にも邪魔はされない。
お前達が狙う“ミティー・フェン=シューコア”はここにいる!
最後の晩餐を始めましょう…!」
ミティー達の前にいた何十人もの黒装束の男達に向かって、ミティーは手を翳した。一斉に床を蹴り、動き出す男達を強風が襲う。足を止められた男達は頭を庇うようにしながら押し戻されまいと両足に力を入れる。
「ご招待願えるとは…思ってもいなかったが…。ここまでだな、ミティー」
強風が吹き荒れる中、唯一、普通に立っていられたのはイヴルだった。頭を覆っていた黒い布を解き、イヴルはそれを風に流す。漆黒の短い髪が風に揺れ、紫色の瞳がミティーを捉える。その右手には銀色に光る剣が握られており、それは左手で捕えている女性の首筋に当てられていた。
「っ…フェニー…!」
ミティーが口を開くより先に、ティバロが彼女の名を呼んだ。
「ティバロ…どうして…。私がもう一度死んでもいいのね…。
もう…私に感心がないのね…」
「いいのか?ミティー、この女を殺しても」
「っ…おい!この風を止めろ!」
イヴルの剣がフェニーシアの首に傷をつけると、ティバロはつい叫んでいた。彼の目を見て、ミティーは手を降ろす。
「…ほぅ。こんな子供騙しの方法が効くとは思わなかったぞ。
さぁ、そのままおとなしくこちらへ来るんだ」
笑みを浮かべるイヴルに、ミティーは笑った。
「…何がおかしい?」
「勘違いしないで。誰も、あんたの言いなりになったわけじゃないの」
不愉快そうに眉を潜め、イヴルはミティーを睨みつける。
「…では、この女がどうなっても良いのだな?」
「ご自由に…。それは私の仕事ではないから」
クスクスと笑い、ミティーは横目でイヴルを見た。イヴルは怪訝そうに周りを見渡した。が、その時には既に遅く、目の前にティバロが迫っていた。
「その薄汚い手を離しやがれ!」
「!っく…」
ティバロはイヴルの右手を掴み、フェニーシアを後ろに逃げさせると、逆の手で魔弾銃を取り出し、イヴルの胸に銃口を当てて引き金を引いた。しかし、イヴルは右手を掴まれてすぐに床を蹴り、ティバロを跳び越して彼の背後に回っていた。
「貴様ごときでは、この俺の相手は務まらないぞ!」
ティバロは後ろ手に締め上げられてしまい、舌打ちする。
「では、俺がお相手しよう」
イヴルはすぐ横からの声にティバロの手を放した。すると、今までイヴルの手があった所を剣が通過する。
「…貴様か…。いいだろう…!」
「シューコアは負けるつもりもないらしいな。ここが貴様らの墓場となるようだ…!」
クライシュードが何度も斬りつけると、イヴルは軽く避けながら後退していく。
「…フェニー、大丈夫か?」
呆けて座り込んでいるフェニーシアに駆け寄り、ティバロは心配そうに声を掛ける。
「ティバロ…どうして、どうしてイヴル様と戦うの!?
あの方は私の恩人なのよ!?」
「……本当にそう思っているのか?そんな体になったのは…」
「これはあの女が原因でしょう!?あの女が『竜の血』を私に無理矢理…」
「違う!」
自然と声を荒げてしまい、ティバロはハッとした。フェニーシアは瞳を潤ませ、やがて俯いてしまった。
「私の言ったこと…信じてくれないのね…」
「フェニーシアさん、あなたが言ったことは本当の事じゃないはずです。
少なくとも、真実ではないはず。ティバロくんは…あなたの話を信じていた。
でも…そのせいでティバロくんまで『聖水』に冒されてしまったんですよ!?」
ゆっくりとセフィークがティバロ達に近付いて行く。フェニーシアは顔を上げた。
「…そう…この子が貴方をたぶらかしてしるのね…。
せっかく貴方にも『聖水』の力が与えられると思ったのに…」
「…え…?」
ゆらりとフェニーシアは立ち上がり、セフィークを睨む。
「フェニー、君もまだ間に合う!感情に流されるな!」
「…ティバロはいつでも私に優しくて…私のことを疑ったりしなかったわ。
ティバロは私のものよ!あなたなんかに渡さない!
ティバロは私と一緒にイヴル様に仕えるの!邪魔しないで!!」
フェニーシアは床を蹴り、懐からナイフを取り出した。
「っセフィー!」
ティバロはフェニーシアの少し後ろにいたので、近付いていたセフィークの前に出るのは難しかった。
「やめろ!フェニー!!」
ナイフが肉に食い込む感触をその手に感じ、フェニーシアは我に返った。ナイフから手を離し、フェニーシアは後退する。ナイフを伝い真っ赤な血が滴り落ちていった。
それを合図に、黒装束の男達は再び動き出し、ミティーを始め、ユーク、マティーナ、ライナを分かれて襲撃した。それは、遥か上空での運命の戦いの始まりに過ぎなかった。