プロローグ(2)
距離を詰めながら、あらためて怪物の姿がはっきり見えた。
巨大な岩狼とでも呼ぶべきか、体毛の一部が剥き出しで、そこに岩状の外骨格が生えているようだ。
人間などひと噛みで食らいそうな大きさで、口からは唾液が滴っている。
「早く逃げろー!」とレイジが叫んでも、村人たちは混乱のあまり四方に散っているだけ。
さらに複数の岩狼がいた。
どうやら群れで襲いかかってきているようだ。
絶体絶命かと思われたその時、レイジの胸の奥で何かが熱く滾る感覚が生まれた。
事故に遭ったときとはまるで違う、力強いエネルギーが身体を巡っているような。
「……なんだ、これ……?」
頭の中に、見知らぬ言葉が浮かんでくる。
『魔力』という概念が自然と流れ込んでくるかのようだ。
理解できないままに、レイジは直感的に手を前へかざす。
すると次の瞬間、彼の手元から眩い光が弾けるように飛び出した。
ドンッ!
突風のような衝撃波が岩狼の群れを吹き飛ばす。
地面が抉れ、土煙が高く舞い上がった。
「え……? いま、何したんだ……俺」
思わず自問するが、それどころではない。
岩狼の何匹かは倒れてうめき声を上げていたが、しぶとい一匹がレイジを目がけて突進してくる。
迫りくる巨大な牙。
その瞬間、再び胸の中で熱が爆発する。
レイジは一瞬、息を呑みながらも、もう片方の手を振りかざすようにして振り払った。
すると、今度は炎のような奔流が岩狼の頭部を包み込み、強烈な爆音とともに吹き飛ばしてしまった。
村人たちは呆然としている。
誰もが予想もしない光景。
何より当のレイジ本人が一番混乱していた。
「何が……起きてるんだ、これ」
しばらく呆気に取られていたが、次第に人々の視線がレイジに集中する。
「すごい……あれは魔法か?」
「たった一人で岩狼を倒したのか?」
人々は口々に称賛や驚きを漏らす。
そっと寄ってきた年配の男性が、レイジの手を取って言った。
「若いお方、命の恩人じゃ……。いったい、どんな凄腕の冒険者かね?」
冒険者? レイジは聞きなれない言葉に戸惑いながらも、とにかく助かった人がいることに安堵した。
ぎこちなく「いえ、そんな、どうやったかわかんなくて……」と返す。
それでも村人たちは「魔術師様だ」「勇者様だ」などと口々に褒め称え、彼を中心に輪を作る。
――だが、その輪の向こう側で、何かがおかしい。
一つ、二つと、地面の草が急激に枯れはじめている。
まるで強烈な日照りに晒されたかのように、一瞬で茶色く萎びていくのだ。
わずかに光を放っていた石の欠片、命輝石の小片らしきものが地表に露出していたが、その輝きがみるみる薄くなる。
誰もがその現象に気づかず、あるいはそこまで注意が及ばない。
レイジもまだそれを認識できない。
ただ、周囲の空気がほんの少し重くなったように感じた。
呼吸がしづらいような、胸に圧迫感があるような――。
「少年、どこかケガはないか? 顔色が悪いぞ」
年配の男性が心配そうに言う。
レイジは初めて気づき、軽く額に手を当てる。
確かに意識がぼんやりする。
痛みはないが、頭痛のような鈍い感覚がじわじわと襲ってきた。
そのとき、またしてもレイジの目の前が白く染まる。
「やば……い……」
思考が暗転していく。
さっきの事故のときと同じような感覚。
でも今度は何かが自分をどこかへ引っ張るような感触だ。
◇◇◇
レイジが気づいたとき、目の前の光景は真っ白な空間になっていた。
天井も壁もない、無の広がるような場所。
地面はうっすらと大理石のように滑らかな表面が見えるが、それがどこまで続くのか境界がわからない。
呼吸をしても酸素があるかどうかもわからない。
ただ、身体は息苦しくなく動かせるようだ。
「ここは……なんだ……?」
先ほどの森や草原でもない。
まるで夢の中の景色。
しかし、そこに何者かの気配を感じた。
ふわり、と光の柱が差し込む。
眩しさに目を細めると、その先に浮かぶようにして人影があった。
性別も年齢もわからない。
輪郭が白い靄に包まれている。
そして、声が響く。
今度ははっきりとした言葉で。
「実験体、神崎レイジ。気付いているか? お前は選ばれたのだ……私の、実験として」
その淡々とした口調に、レイジは何も言えない。
困惑と恐怖がごちゃ混ぜになる。
「な、なんだよ、『実験』って……!」
「いずれ、わかるだろう。世界がどう変わろうが、私には関係ない。お前の行動が私にとっての結果となる。それだけのことだ」
不気味なまでに静かな声音。
まるで感情がない。
神なのか、何者なのか。
レイジには判断できない。
ただ、本能が『ここにいてはまずい』と警鐘を鳴らしていた。
「ふざけるな……勝手に巻き込んで……!」
怒りを覚え、叫ぼうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
神殿のような空間が泡のように弾けるかのごとく消え、再び闇に落ちる――。
◇◇◇
「――っ、……ハッ! はぁ、はぁ……」
荒い呼吸をつきながら、レイジが意識を取り戻したとき、そこは先ほどの草原だった。
村人の一人が額に冷たい布を当ててくれていたようで、彼はゆっくりと身体を起こす。
「大丈夫か、若いの? 急に倒れちまって……」
心配そうに声をかける彼らに「えっと……ありがとうございました……」と答えながら、レイジはまだ頭の中が混乱していた。
『神の声』と『実験体』という言葉。
どうやら自分は、この得体の知れない世界に召喚された――というより、巻き込まれたという表現が正しそうだ。
先ほどの魔法のような力は何だったのか。
自分は一体何者になってしまったのか。
疑問は尽きないが、こんな状態でも村人は優しく接してくれる。
「本当に助かったよ。あなたが来なかったら、俺たちみんな、あの狼どもに食われてたと思う」
「名前を教えてくれませんか?」
村人の言葉を受け、レイジは慌てて名乗った。
「神崎……神崎レイジって言います。あ、レイジって呼んでください」
発音が伝わるか少し心配だったが、村人たちはなんとか理解してくれたようだ。
荒野の奥からは、まだ何匹かの岩狼が群れを成しているのが見える。
しかし彼らは先ほどの圧倒的な魔法に恐れをなしたのか、襲いかかってくる気配はない。
「取り急ぎ、安全な場所まで行こう。俺たちの集落は、この草原の先にあるんだ」
村人のリーダー格らしき男がそう促す。
彼の案内で、荷車を動かしながら進むうちに、薄汚れた道が見えてきた。
レイジは、右も左もわからない異世界でとりあえず行動を共にするしかなかった。
レイジの頭は痛いほどの疑問に満ちている。
『ここはどこなのか?』
『どうして自分はこんな場所に?』
『『神』が言っていた「実験」とは、何なのか?』
そして自分の身に宿った、この謎の『魔力』はどう使えばいいのか。
使うたびに倒れそうになるような気もするし、そもそも安全なのかどうかもわからない。
それでも、さっき自分の魔力で人を救えたことは事実だ。
それが今は唯一の救いでもあった。
誰かが危険に晒されているなら、自分の力を惜しまず出したい。
それがレイジの根本的な性分に近い。
車輪の軋む音を聞きながら、村人たちの後に続いて歩き出す。
遠くで鳥が舞い、草の香りが風に乗ってくる。
この世界はどこか素朴で、美しい部分もあるように感じた。
しかし同時に、レイジの背後では草が枯れ、命輝石の残滓がさらに輝きを失っていた。
彼自身、まだその現象に気づいていない。
これは世界を救う力なのか、あるいは破壊へ導く力なのか――。
何も知らぬまま、レイジは異世界アルヴァ・ラグナに足を踏み入れたばかりだ。
その胸の奥には、まだ微かな不安と興奮が混ざり合っている。
いつか、すべてを知る時が来るだろう。『神の実験』がもたらすものは何か――。
だが、今はただ、流れに身を任せるしかなかった。