プロローグ(1)
晴れ渡る青空が広がる夏の午後。
蝉の声が校庭いっぱいに響くなか、神崎レイジはサッカー部の練習を終えて、グラウンド脇のベンチに腰を下ろしていた。
汗にまみれたユニフォームが肌にまとわりつき、息も上がっている。
日本の、とある県立高校。
二年生のレイジは部活に打ち込みながら、それなりに充実した毎日を送っていた。
背筋を伸ばすと、隣に座っていた同級生の伊藤が「レイジ、今日のミニゲーム、マジでお前ヤバかったって。あの切り返しさ、DF置いてけぼりだし」とはしゃいだ口調で声をかける。
「いやいや、たまたまだろ。俺もそんなに上手いわけじゃないしさ」とレイジは笑って謙遜するが、内心では少し誇らしい気持ちもあった。
自分はサッカーが大好きで、練習だって休まない。
仲間と汗を流すことが、彼にとっての青春そのものだ。
部員たちが少しずつグラウンドを後にする。
監督が明日の集合時間を伝え、最後までボールの片付けをしていた一年生たちがそれに続く。
「今日は疲れたなぁ……でも充実感はあるよね」
「うん、最高だよ。試合に勝つのも大事だけど、仲間とやってるってだけで楽しいし」
伊藤と軽い雑談を交わしながら、レイジはふと空を見上げる。
真っ青に晴れ渡った空に、雲が一筋、白い線を描いていた。
――こんな平凡だけど幸せな日常が、いつまでも続けばいい。
そう願う気持ちが、彼の胸の奥でほんの少しだけ膨らんだ。
放課後のサッカー部員たちは、練習が終わるといつものように部室で汗を流し合い、わいわいと賑やかに過ごす。
レイジもシャワーを浴び、ユニフォームから私服に着替えた。
「お先。俺、今日はちょっと寄るとこあるから先に失礼するわ」
背後から声をかけてきたのは、キャプテンを務める三年の先輩だった。
レイジは「お疲れ様です!」と挨拶を返す。
部室の窓からは、夕日が射し込んでいる。
夏の長い日差しが校舎を柔らかく染めていた。
ちょっとしたジョークが飛び交いながら、みんながそれぞれの帰路につく。
レイジは荷物をまとめると、部活メンバーに別れを告げて靴箱へ向かった。
廊下ですれ違う同級生からは「レイジ、今日も部活?」とか「今度の試合期待してるよ」なんて声がかかる。
レイジは愛想よく手を振り返しつつ、「ありがとなー」と答える。
特別目立つほどのスター選手ではないが、それでもレイジは人当たりが良く、そこそこの実力と努力が認められていた。
高校生活は思いのほか充実し、彼は自分なりに幸せを感じていたのだ。
まだ校内に人の気配が残る時刻。
窓の外を見やると、昇降口の前にある並木道が夕暮れに染まり始めている。
レイジは靴を履き替えながら、ふと携帯の時刻を確認した。
「もうこんな時間か……」
今日は家族に「晩ご飯、買い出しして帰って」と頼まれていた。
母はパートで帰りが遅い日だし、父は出張が続いている。
レイジは両親とはそこそこ仲が良く、干渉されすぎず放任されすぎずの程よい距離感で暮らしていた。
そろそろ受験や将来の進路も考えないといけないが、まだぼんやりとしか決まっていない。
サッカーは大好きだけれど、自分の実力がプロで通用するほどかと問われれば自信がない。
そこまで深刻には考えていないが、『いつかは何かを決めなきゃな』と思う程度だ。
校門を抜け、コンビニに立ち寄ったレイジは、家の冷蔵庫に足りなさそうな食材を買い込んだ。
ジュースや弁当も選び、買い物袋を下げて歩き出す。
まだ蝉の声が聞こえているが、そろそろ夕刻も近い。
商店街の店先では、人々が行き交い、夏祭りのポスターが貼られていた。
レイジは今年の夏祭りに行けるかな、と少し気になっていた。
サッカー部は夏休みも練習が多いから忙しいのだ。
家までは徒歩で二十分ほど。いつも通る道を足早に進んでいく。
商店街を抜け、大通り沿いの歩道に出た時だった。
――キキィィィ! と鋭いブレーキ音。
突然、車の衝突音や人々の悲鳴が飛び込んできた。
レイジは思わず足を止める。
前方の交差点で、トラックが車数台に突っ込むようにして停止していた。
明らかに普通ではない事故。
タイヤの焦げ臭さまで漂ってくる。
「嘘だろ……」
周囲の人々がざわつく。
スマホで救急車を呼ぶ声。
レイジは危険を感じながらも、現場に近づいた。
誰かが車内に閉じ込められていないか、怪我人はいないか――そんな考えが咄嗟に頭をよぎる。
「大丈夫ですか!?」と叫びながら駆け寄った瞬間、トラックの運転席にまだ人が動いているのが見えた。
どうやら意識はありそうだが、ハンドルに突っ伏していて、すぐには動けない様子だ。
そばにいた中年男性が「爆発の恐れもあるから離れろ!」と声を張り上げる。
それでもレイジは迷ったが、『助けられるかもしれない』という想いが勝った。
「すみません! ちょっと、僕が行きます!」
男性は驚いたようだったが、レイジの必死の表情を見て「気をつけろよ!」とだけ言ってくれた。
トラックの車体前部は大きく凹み、衝突の衝撃で煙が立ち上っていた。
ガラスの破片が散らばり、ガソリン臭が辺りに漂う。
レイジは買い物袋を足元に置き、慎重にドアを開けようとする。
「開かない……くそっ」
ドアは激しく歪んでしまい、簡単には開きそうにない。
運転手も完全には意識を保っていないようで、声をかけても反応が鈍い。
レイジは必死に力を込め、なんとかドアの一部をこじ開けようとした。
その瞬間―― 。
視界の端に、別の車がこちらに滑り込んでくるのが見えた。
混乱でハンドル操作を誤ったのか、あるいはブレーキが遅れたのか。
レイジはとっさに体をひねったが、どうすることもできず――。
激しい衝突音。
そして激痛。
言葉にならない苦痛が走り、レイジは宙を舞ったように感じた。
何がどうなったのか頭が回らないまま、地面へ叩きつけられる。
買い物袋や財布の散らばる気配だけが遠くに感じられる。
周りの人々の悲鳴やサイレンの音。
だがそれらすら徐々に遠のいていった。
『助けるつもりが、逆に自分が被害者になっちゃったのか……?』
目の前が暗くなり、身体の感覚が失われていく。
意識は薄れ、まるで深い海の底へ沈むように――。
◇◇◇
暗闇の中で、レイジは奇妙な感触を味わっていた。
身体があるのかないのかわからない。
上下も左右もない場所に浮かんでいるようだ。
やがて、不思議な声が耳というより脳内に直接響いてくる。
「聞こえるか……実験……結果……」
「おまえ……の……観察……」
言葉は途切れ途切れで、何を言っているのかはっきりしない。
それでも『神』というワードが微かに聞こえた気がした。
『実験? 神の声? なんのことだ……』
レイジはそう思うが、思考はうまく働かず、再び意識が沈んでいく。
痛みも恐怖も、すべてがただ遠ざかっていく。
そして、視界が完全に白に染まった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
まぶしい光が瞼を刺し、レイジはゆっくりと目を開けた。
見覚えのない青空が広がっている。
ほんの少し前まで耳にしていたサイレンも、周囲の騒音もまったく聞こえない。
代わりに、遠くで鳥のさえずりのような音が響いていた。
地面に触れると、柔らかい草の感触。
アスファルトではない。
日本の道路や歩道と全然違う。
レイジは痛む身体を起こそうとして、驚いた。
痛みが、ほとんどない。
むしろ元気なほどだ。
「ここ、どこだ……?」
小声で呟きながらあたりを見回す。
そこは背の高い雑草の生い茂る原っぱで、遠くには森が見える。
そして木々の向こうに、見慣れない建築物らしきシルエットが浮かんでいた。
まるでおとぎ話に出てくるような石造りの建物のように見える。
「なんで、こんなとこに……?」
自分が交通事故に遭ったはずなのに、病院のベッドどころか、まったく別世界に放り出されたような感覚。
混乱しながら立ち上がろうとするが、足元が覚束ない。
怪我はないのか、と自分で触れてみても、血の跡や外傷は見当たらない。
ただ服は日本の制服のままで、膝や肘が少し汚れていた。
突然、遠くから大きな悲鳴と獣のような唸り声が聞こえてきた。
「な、なんだ……!?」
レイジは慌てて声のするほうへ顔を向ける。
すると、視界の先、わずかに開けた草原の端で、何かが大勢で逃げ惑っていた。
人影のようにも見えるし、馬車のようなものもある。
そこに、異形の大きな獣が襲いかかっているようだ。
地響きのような衝撃音が時折響き、金属がぶつかるのか甲高い音も混じる。
「まずい、誰かが襲われている……!」
レイジは思わず駆け出そうとするが、すぐに立ち止まった。
自分はただの高校生だ。
どうやって助ければいい?
サッカーの練習で鍛えた足腰はあっても、獣相手にどう戦えと?
だが、『助けなきゃ』という衝動が抑えられない。
事故現場で感じたのと同じ焦燥感が胸を突く。
たとえ身を挺してでも、目の前に困っている人がいるなら何とかしたい――それがレイジの性分だった。
逃げ惑う人々の数名は、どうやら村人らしき姿だ。
ボロ布のような服装をしているし、馬車には農作物らしいものが積まれている。
一方、襲いかかっているのは、巨大な狼……いや、牙の大きさが尋常でないし、体の一部が岩のように硬質化している。
明らかに普通の動物ではない。
「こんなの、現実じゃない……」
レイジは信じられないものを見た気がして一瞬足をすくませる。
しかし村人たちの悲鳴がより大きくなり、危機が迫っているのがわかる。
『行くしかない』
そしてレイジは走り出した。