人生やり直しの一歩目
香芹門をくぐり銀竜大街に足を踏み入れたノア。無事に新生活を踏み出せるのか。
「わぁ、これが、銀竜大街……」
門番さんが言った通り、門をくぐり次の瞬間には、龍志大帝国の授業で見た写真のような建造物が目いっぱいに広がっていた。行き交う人の服も全然違う。
……ただ、そんな風に観察している場合ではなさそうだ。いきなり道に現れた姿の違う人間が現れ、見物されているのは僕のほうだから。
(門番さんの言う通り、まずは誰かに声を掛けないと。)
けれど、やっぱり不思議そう見られてる状態で誰かに声を掛けるなんて緊張してできない。体が弱かったことから外に出ることは許されず、屋敷に出入りする者だけとしか話したことのない社交初心者の僕にとって、面識のない他人、ましてや異郷の人間に話しかけに行くのは少しどころかすごく勇気がいる。はてさてどうしたものか。天使の関門とやらをくぐった人しかいないだろうから、悪い人はいないのだろうが、一歩目でつまずいたら、さて僕は二歩目を踏み出せるのだろうか。
そんなこんなで動けずぐるぐる考えていた僕の頭上に、影が落ちた。
「やぁ少年、見ない顔だな。何かお困りかい?」
(話しかけてくれた!ありがたい……!)
正直なところ自分の機転の利かなさに絶望していたところだったので、影が落ちて視界が暗くなった恐怖より、このもだもだしてる現状を打開できそうなことのほうが断然上だった。
「こんにちは、ノア・ランドルフと申します。お声がけいただきありがとうございます。先ほど銀竜大街に来たばかりで何もわからず困っていたところで。」
「こんにちは。私は霍赦鶯。その風貌と名前の響きからして……西の子かな。名前はノアくん、でいいかい?」
「はい、その認識で間違いありません。」
「うーん、どうやら訳ありみたいだね。私は銀竜大街で住まいのあれこれを少し担当しているんだ。長くなるだろうから、私の事務所に一緒に来てくれるかい?」
もしかしたら騙されているかもしれないという疑惑はあるが、今のところ誰とも面識がないどころかこの社会のなにもかもを知らない僕からしたら、このしっかりしてそうな霍さんに着いていく他の選択肢はなかった。
「お願いします。」
「お邪魔します。」
「いらっしゃい。そこの長椅子に座ってくれ。お茶と資料を用意してくるから。」
「ありがとうございます。」
最初に足を踏み入れた場所からそう遠くない大通りの一角に、霍さんの事務所があった。一瞬ちらりと見た看板には不動産と書いてあったので、おそらく住まいに関することを営んでいるのは間違いないだろう。
「どうぞ、粗茶で悪いね。来客用を切らしてしまっていたのを失念していたみたいだ。」
いえいえ構いませんよとお茶を受け取り、霍さんが座ったのを見て早速一口いただく。
「……!おいしいです。」
「そうか、それはよかった。君の出身地ではなかなか見かけないだろう。紅茶、だったかな?」
「はい。知識はありましたが、こうして実際に飲むのは初めてです。」
確かに飲みなれてる紅茶とは違って不思議な感じはするけれど、なんだか体中に染み渡るような安心感がある。
「さぁ、さっそく本題に入ろうか。ここに来た経緯を教えてほしい。死者はたいてい本人の出身や主な居住地に由来した世界に送り込まれるはずだけど。」
不思議なことの連続で、うまく説明できていたか不安ではあるが、どうにかここに来るまでの経緯をそのまま伝えた。
「死んで、いないのかい」
「はい、おそらくですが。」
「で、天使の関門も通っていないと。」
「はい。」
「よく私の言葉を聞き取れるね。相応の速度で話してるんだけどなぁ。」
「教師に恵まれたんですよ。」
「でもその本人も、サーツェルの人間なのだろう?なら君の努力だよ。けど、なかなかに難しい判断を迫られたんだね……。今は体に異常はないかい?」
「はい、どこもつらくありません。」
「よかった。出自・経緯はどうあれ、私は君を歓迎するよ。さて、君にはまず住まいを提供したいのだが、生憎今すぐにとはいかないんだ。その様子じゃ住民登録もできていないだろうからね。その手続きとかを終わらせるまで、ここの二階に住んでもらうけど、いいかな。」
「いいんですか?!でも、僕は今お金を一つも持っていないんです。」
「いや、代金はいいよ。というか代金という概念、久々に聞いたな。」
「……え?」
「…………あぁそうか。君天使の講座を受けてないから。分かった。まずはそこからだね。少し長くなるかもしれないけど、銀竜大街のしくみをざっくばらんに教えてあげよう。一旦生活に必要なことだけね。
ここ、銀竜大街には『大街管理局』っていう役所みたいなところがある。神が運営している国際管理局から枝分かれして各世界にあって、そのひとつってわけだ。管理局には6つの部署があって、そこにはそれぞれ派遣された天使が大臣になってる構成員は現地の人間だけどね。
居住管轄部は名の通り住民の住居を担当している。土地の所有権もここだね。住民登録や管理もここ。
外交部ってのもある。これは他世界の交流や貿易を管理しているところ。とびきり博識が多い。
庶務部は6つあるうちで、ここ以外の5つがやってない残りの部分全てを担当してる、激務らしいよ。
治安保護部は、警察隊みたいなもんだね。見回りと条例違反がないかのチェック担当だ。
条例部ってのもある。条例の制定や改正をしてる。後で最新版を渡すから読んでおいてね。
仲介・審判部ってのもある。治安保護部が手に負えない諍いの仲裁とかを担当している部署だ。」
「ここにも政府みたいなものがあるんですね。死後の世界のルールはすべて神様が決めてるものだと思っていました。」
「最終決定権はもちろん神が派遣した天使にあるさ。けどそうだね。君が思ってるよりかは結構僕たち人間の発言権は大きい。
さて、続きだ。
金銭に関してだ。現状、金銭の概念は日常生活を送る上では一切必要としない。まぁ、驚くのも無理ないさ。けど唯一ギャンブル店にのみ、金の概念が残されてる。その店でしか通用しない単位の金を賭けあって、つかの間のスリルを味わってるらしい。仮にそこで大損くらったって日常生活には微塵も支障をきたすことはないんだけれど。まぁ、ノアくんには関係ない話かな。
飲食店で何か食べようが、日用品を手に入れようが、家を借りようが、とにかくすべての取引に関して金銭は発生しない。ただ、取引内容は記録される。そこらは天使の管轄だから仕組みはよくは知らないけど、毎年年末に年間の取引が記された紙が届く。
あとはそうだな、労働。私しかり、飲食業を営んでたり、家具や日用品を提供する店を営んでたりする人たちしかり、あれは全て慈善事業に当たる。賃金が一切発生しないからね。管理局の依頼だったり、自分の趣味で開店してたりと様々だ。管理局の各部署もこれに当たる。あれは試験があるから今まで言ったのよりは厳しくはなるけれど。誰が好き好んで役所の仕事なんかやるかと思うかもしれないけど、意外とうまく回ってるんだ。なにかしら仕事をしてないと落ち着かない、みたいな仕事人間もいるのもそうだけど、一番のメリットはやっぱり特殊権限だね。庶務部に申請して、商いや管理局の職員だと承認されると得られるもので、所有できる土地が多くなるほか、外交部に物品を直接申請できたりするんだ。ここはやっぱり日用品や飲食を営んでる身からするといいね。後はやっぱり、尊敬される。銀竜大街に限った話じゃないよ?死んでまで働いてる奴なんて全人口の2割に満たない。階級があるとかそういうわけじゃないけどさ。
まぁ、こんなところかな。これ以上長くなったら日が暮れてしまう、何か聞きたいことがあったらいつでも言って。都度教えるから。」
「ありがとうございます。」
「明日の予定だけど、さっそく話した居住管轄部に行く。住民登録のために。…………そうか。君まだ取引できないから外食もできないね。しょうがない、夕食作るから2階の居間で待ってて。条例でも読んでね。」
少しして出された食事はどれも見たことのないものばかりだったが、すごく美味しかった。懸念があるとすれば、カトラリーが全然違うところだろうか。箸というものが使いずらいとは聞いていたが、ここまでとは。
ともかく、ここでの暮らしもどうにかなりそうだ。
物心がついて初めて、公爵だの体調だの、しがらみを忘れて眠ることができた。