心臓に悪い一日
「俺の妻に手を出した愚者はお前か?」
旦那様の聞いたことのない冷たい声は、間違いなくビアンカ様に向けられた言葉、そして……。
(私のために、怒ってくれているんだわ……)
旦那様の背中がとても大きいため、ビアンカ様の姿は見えない。
けれど、空気が冷たく感じられるほどの旦那様の怒りに、ビアンカ様も恐怖に慄いているようで……。
「っ、ち、違います! わ、私は、ただ、妹に会いたいだけだったのに、キャシー様に邪魔をされてっ」
「あ?」
「っ!」
ビアンカ様の言葉を一蹴する冷たい声音は、たとえ何を言い訳をしても許さないという威圧を感じて。
後ろで庇われている私も思わず身体を震わせてしまうけれど、面と向かって言われたビアンカ様は言葉が出ないようで、息を呑み黙ってしまう。
そんな空気にはそぐわない声の持ち主が、またも後ろから現れて言葉を発した。
「あ、いたいた。揃いも揃ってこんなところで何をやっているの?」
「! 皇帝陛下……」
思わず呟いた私に、肩に手を置かれた旦那様は殺意を露わに皇帝陛下を睨みつける。
「黙っていろ」
「うわ、怖。アレックスを怒らせるなんて……、ヘルツベルクのご令嬢は余程のことをしたんだね?」
皇帝陛下はそう肩をすくめながら一瞬私を見やる。
視線が合った私は驚いたけれど、皇帝陛下は何も言わず代わりに笑みを載せたまま告げた。
「アレックス、剣を下ろして。ここでその首を斬ったら国際問題になる」
「斬っ……!?」
ビアンカ様の悲鳴交じりの声がした後、旦那様は剣を鞘に納める。
その姿を目で追ってから、皇帝陛下は「さて」と言葉を発した。
「アレックスに剣を納めさせたけど、こうして怪我人もいることだし、有耶無耶にして無かったことにするのは良くないよね。
ということで、どちらが悪いかは白日の下に晒すべきだと思うんだ。
今日は丁度、大勢の見届け人もいることだしね?」
そう言って笑みを浮かべたまま皇帝陛下が手を挙げた刹那、ガチャガチャという鎧の音と共に護衛をしていた屈強な騎士様達がやってくる。
そして。
「そのご令嬢を会場へお連れして。ヘルツベルクからの賓客だから、間違えても怪我をさせることなどないように。丁重に、ね……?」
皇帝陛下の言葉に、騎士達が命に従う。
旦那様の背中からそっと覗けば、ビアンカ様は猛抵抗していた。
「離しなさいっ! 私は侯爵令嬢よ!? こんなことが許されると思っているの!?」
そんな抵抗も虚しく、ビアンカ様は廊下に響き渡る大声で叫びながら数名の騎士達によって会場へと連行される。
旦那様もその後に続こうとしたのを、皇帝陛下が止めた。
「アレックス、どこへ行くの」
「殺す」
「あーあーもう、今君が気にするべきはそっちじゃないでしょう」
皇帝陛下のお言葉に旦那様が振り返る。
その目と視線が交じり合った瞬間、知らず知らずのうちに張り詰めていた空気が解け、視界がぼやけていき……、涙が止まらなくなってしまう。
「っ、だ、旦那様……っ」
「ティ、ティアナ!? どうした、痛いか!? 大丈夫か!?」
「君が怖かったのもあると思うよ」
旦那様の言葉に対する皇帝陛下の返しを否定したかったけれど、嗚咽ばかりが口から出て上手く言葉にならず、ただ首を全力で横に振っていた私の背中に、今度は温かな手が添えられた。
「ティアナ様、ごめんなさい! 私の代わりに、貴女に怪我を負わせるなんて……っ」
「ち、ちがいます! 庇って、くださったのは、キャシー様、です……!」
何とか涙を拭い顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、涙を流しているキャシー様のお姿で。
不謹慎だけれど、私を心から思いやってくれているのが伝わってきて、冷え切っていた心が温度を取り戻していく。
(あぁ、私、本当にもう、一人じゃないんだ……)
そんなキャシー様の手を取ったのは、先程の笑みとは違う困ったような顔をした皇帝陛下で。
「あー、キャシーまで泣いちゃったね。このまま会場へ行こうと思ったけれど、お互いに少し落ち着く必要があるようだ。
ご令嬢の登場は少し遅らせるとしよう。
その間に、アレックスはティアナ嬢を落ち着かせてあげて。
私はキャシーの涙を止めて、いつもの強気な彼女に戻ってもらうから」
「っ、誰が、強気ですって?」
「痛っ」
地味に効く、とキャシー様から鳩尾に肘鉄を食らった皇帝陛下とキャシー様のやりとりを見て、思わず笑ってしまう。
それを見た皇帝陛下は「大丈夫そうだね」と笑みを浮かべてから、旦那様に向かって言った。
「じゃあアレックス、また後で」
そう言って皇帝陛下は、手をひらひらと振りながら元来た廊下をキャシー様と共に歩いて行く。
そのお姿を見届けてから旦那様を見やれば、先程とは打って変わって酷く悲しげな表情をしている旦那様と目が合って。
「旦那様……?」
「……部屋に行こう。話はそれからだ」
そう言って、旦那様は私の手を引いて歩き出そうとしたけれど。
「あれ……?」
上手く足に力が入らない。
「ご、ごめんなさい、少しお待ちいただければ」
旦那様は私の手を離したと思った刹那。
「!?」
不意に視界が大きく揺れ、目の前に映ったのは旦那様のお顔で。
どうやら自分がお姫様抱っこをされているらしいと気付いた時には、旦那様は歩き出していた。
「ちょ、だ、旦那様!?」
「大丈夫だ。落としたりはしない」
(そ、そういう問題ではなくてですね!?)
先程まで冷え切っていた身体が嘘のように熱い。
色々な意味で今日は心臓に悪すぎる、とこの後のことを思いながら、今だけは許して欲しいと、部屋までの短い距離の間旦那様の胸に頭を預けた。




