前日に知らされた政略結婚
始まりは、前日のこと。
「私が、隣国の辺境伯様の元に……?」
突然告げられた言葉の衝撃に、呆然として呟いた私を見てお父様……、侯爵様は私になど目もくれず執務をこなしながら答える。
「あぁ。それが敵国の皇帝の“条件”だからな」
敵国の皇帝陛下が出された“条件”と言われて思い浮かぶのは、私達が住むヘルツベルク王国が戦わずして降伏し、敗戦したという事実。
あまり説明がされないために難しいことは分からないけど、その降伏するための“条件”として求められたのが、この私を辺境伯様の花嫁にする、ということらしい。
「なんだ。何か不満でもあるか?」
ギロリと睨みつけられた私は、なぜ私がという疑問を飲み込み、これ以上侯爵様の機嫌を損ねないようすぐに返答する。
「いえ、なんでもございません」
「……相変わらずお前は、愛想笑いの一つも出来ないのか。
我が娘とは思えないほど気味が悪い。
用事は済んだ、早く行け」
出て行けの合図である手を数度振り払う動作を見て会釈をし、静かに立ち去る。
(……愛想笑いの一つも出来ない、か)
試しに死んでしまっている表情筋をほぐすように、頬を摘みながら歩いていると。
「あーら、敵国の人質花嫁様じゃないの」
進路を塞ぐように正面から声をかけてきたのは、私のお義母様。その隣には異母姉の姿もあって。
「……奥様、ビアンカ様」
双方からそう呼ばれるようにと命じられているため、名を呼び会釈をした私を見て、お二人はクスクスと笑って言葉を続ける。
「可哀想にね。第二王子殿下に見初められて婚約者になったビアンカとは違って、あなたはあの血塗られた“悪魔辺境伯”の花嫁様なんて」
いつもなら、奥様とビアンカ様の機嫌を損ねないよう、とにかく口を閉ざしてその場をやり過ごしていたけれど、この時ばかりは聞いたことのない単語につい反応してしまった。
「……“悪魔辺境伯”?」
その言葉に答えたのは、奥様ではなくビアンカ様で。
「あら、知らなかったの? そうよね、社交界に顔を出せないほど素性も醜いあんたに、噂なんて回ってくるはずがないのよね」
「…………」
奥様もビアンカ様も私に話を振っているようだけど、何と言われようと響かない。心が動かないのだ。
そんな私を見て、お二人も侯爵様と同様「気味が悪い」と吐き捨てるように言ってから、ビアンカ様は顎に人差し指を当てて言った。
「じゃ、冥土の土産に特別に教えてあげる。
“悪魔辺境伯”はね、血の繋がった家族でさえも殺してしまうような、それはそれは残酷な方だそうよ。お気をつけあそばせ。
使えないあんたなんか、嫁いですぐに殺されてしまうでしょうから」
「いえ、ビアンカ、それは違うわ。
曲がりなりにも敵国の人質を殺すはずがない。とすると?」
「生かさず殺さず……、言わば飼い殺しね!」
「正解よ! さすがは私の娘、ビアンカだわ!」
そう言って嬉しそうにビアンカ様の肩に手を置くその姿は、まさに親娘そのもの。
ビアンカ様は愛されているんだわ、とぼんやりと考えたところで、奥様に尋ねられる。
「出立はいつ?」
「明日だそうです」
あまり実感が湧かない中他人事のように答えると、ビアンカ様は口元を押さえて驚く。
「まあ! 明日だなんて! かわいそう!」
「そうよね、人質の花嫁に準備の時間など必要ないわよね。あんたの場合は荷物も少なそうだし」
「お母様、少なそうではなく実際に少ないのよ。
この子は何も持っていないし、無能だし、誰からも必要とされていない。きっと“悪魔辺境伯”も皇帝から命令されて仕方のない結婚なんだわ」
「違いないわね。地獄へはもうすぐ、ということね」
クスクスと二人が笑うのを見て、内心思う。
(……侯爵様の言う“愛想笑いをしろ”というのは、こういう時のことを言うのかしら)
でもあいにく、私には笑った記憶がない。
笑い方も、表情の変え方ですら分からないのだ。
いつまでだったか、泣いていた記憶はあったけれど、それが無意味だということを知ってから表情を殺していた結果、喜怒哀楽を何も感じない状態になってしまった。
「お話をお聞かせいただきありがとうございました。
では、失礼いたします」
会釈をし立ち去った私の後ろで、お二人の笑い声が耳に届いた。
屋敷の離れに用意された殺風景で小さな部屋の一室に戻り、パタンと扉を閉じて再度自分に置かれた状況を理解する。
(敵国の皇帝陛下の“条件”により、“悪魔辺境伯”と呼ばれる旦那様に嫁ぐ)
つまり、この私の身体一つで国のためになるのだ。
「……良いのではないかしら」
奥様やビアンカ様は“地獄”と言っていたけれど、さして状況に変わりはないように思える。
侯爵様や奥様、ビアンカ様は私をお嫌いのようだし、敵国でもきっとそれは同じ。
ここにいれば一生鳥籠の中にいるようなものだし、何も持たない役立たずの私が誰かの役に立てる絶好の機会。
「この機会を逃してはいけないわ」
そう呟き、荷造りをしようと箪笥を開ければ、お仕着せ以外の荷物は何も入ってなどいなくて。
「……お仕着せ一着を拝借して、身一つで行けば何とかなるかしら」
そもそも隣国へ嫁ぐのにお仕着せを着て行くことは人質としてどうなのかしらと考えたけど、考えたところで解決策は思い浮かばなかったため、せめて今日は早く寝るべきだと、まだ日も明るいうちに硬いベッドに横たわり、目を閉じた。