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ささやかな恩返し

 夜。

 深呼吸をしてからコンコンと扉をノックすれば、扉が不意に開く。


「きゃっ」


 返ってくるのが返事だと思っていた私が驚き声を上げ危うく後ろに倒れそうになったのを、頭ひとつ分は大きい旦那様が慌てて抱き止めてくれながら尋ねた。


「大丈夫か?」

「!!」


 大丈夫です、と口にしようとして、今度はあまりの顔の近さにヒュッと息を呑んでしまって。

 咄嗟に声が出なかった私を不思議に思ったようだったけど、旦那様もまた距離感に気付いたのか、私を立たせて下さった後一歩後ろに下がった。


「大丈夫そうだな。すまない、返事をするより開けた方が早いと思ったら驚かせてしまった」

「い、いえ……」


 そう口にしてから、旦那様の髪の毛が濡れていることに気が付く。


「もしかしなくても、お風呂に入られたばかりでしたか? 出直した方がよろしいでしょうか?」


 何のことだ、と旦那様は首を傾げてから思い至ったようで言葉を返した。


「いや、君と違って俺の髪は短いからいつもこのままだ。自然乾燥でもすぐに乾くから心配はいらない」

「で、でも……」


(やっぱりどうしても気になってしまう……)


 昼間も思ったことだけど、汗や水で濡れている旦那様を見ていると、なんだか、見てはいけないものを見ているような、そんな気分に陥って。

 その時、ふと思い立ち声を上げる。


「では、お時間を頂いたお礼に、私が旦那様の髪をお拭きするのはいかがでしょう?」

「……何だって?」

「遠慮はいりません! 私、こう見えて得意なんですよ」


 これで少しでも恩返しが出来る! と嬉しく思った私とは裏腹に、旦那様は低い声音で尋ねる。


「……髪を拭くのが得意だと?」

「あっ」



(実家で侍女仕事をさせられていたことは、ここでは当たり前ではないのだったわ……!)


 旦那様の周りの空気が気の所為か温度が下がったように感じられた私は、半ば強引にその場を乗り切る。


「か、髪、やっぱりお拭きしますね! 

 乾かした方が絶対に髪にとって良いと思いますし」


 旦那様は少し間を置いた後、はぁっと息を吐いて言った。


「……では、お願いしよう」


(……やっぱりご迷惑、だったかしら)


 お役に立つのって大変なことなのね、と少し落ち込みながらも、せめて丁寧に拭こうと旦那様と共にお部屋に入り、私は浴室からタオルを持ってくる。

 その間も、旦那様はなぜかベッドの近くで立っていて。


「座らないんですか?」


 不思議に思い尋ねた私に、旦那様は言う。


「どこに座るんだ」

「ベッドに?」

「……君は危機感というものがないのか?」

「危機感……?」

「男女が同じベッドに、という意味は分かっているだろう?」


 旦那様の言葉に、さすがの私も理解して。

 少し顔に熱が籠ってしまうけど、でも、と言葉を返す。


「私達は、夫婦ですよね?」

「……そうだな」

「それなら、問題はないかと思います。

 それに、旦那様はお優しいですから、私が嫌がるようなことはしない。そうでしょう?」

「…………っ」


 旦那様が息を呑む。

 その間に先にベッドの少し奥側に座ると、ポンポンとベッドの足元を叩いて言った。


「どうぞお座りになってください。お嫌でなければ、髪、お拭きします」

「…………」


 旦那様は何も言わず私を見つめた後、少し息を吐いて言った。


「……君はよくそういうことを言えるな」

「そういうことって?」

「自分で考えろ。……それと」


 旦那様はそう言うと、ベッドの淵、私の前に背中を向けて座る。

 そして、こちらを見ずに言葉を発した。


「嫌だとは言っていない。ただ、君の負担にならなければ良いと思っただけだ」


 旦那様の言葉が、やはり私を思ってくれてのことだと分かったら、自然と、柔らかな口調で言葉が紡がれる。


「旦那様のためになるのなら喜んで」

「っ、だから、そういうところだぞ……」


 旦那様がどんなお顔をしているか分からない。

 けれど、髪から覗く耳が赤くなっていることに気が付いて。

 今度は嬉しい気持ちと、ほんの少し擽ったい気持ちになりながら、タオルを両手で広げて持つ。


「では、髪をお拭きしますね」

「……よろしく頼む」


 旦那様の言葉に、はい、と元気よく頷いたのだった。

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