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スマトラの旅人(シュリーヴィジャヤ王国の夢)

作者: 杉山 裕樹

インドネシア、スマトラ島のパレンバンを都に7世紀から海洋王国として栄えたシュリーヴィジャヤ王国は14世紀にジャワのマジャパヒト王国との闘いに敗れる。

かつてのシュリーヴィジャヤ王国の都パレンバンを訪れたヒロシは思わぬ成り行きによりその戦いに巻き込まれることとなる。


1、目覚め


 ヒロシが目を覚ましたのはまだ夜が明けきらぬ薄暗闇の中だった。枕元の時計に目をやると時計は5時過ぎを指している。まだ少し早いなと心の中で呟いた。


 顔を洗い昨日買っておいたパンを食べ、身支度をしてジャカルタの安宿を出たころには明るくなっていた。

リュックを片方の肩に通し歩き始めると、身にまつわりつくような熱気が体を包んだ。

ゴンダンディア駅には歩いて5分で程着いた。既に朝の通勤ラッシュが始まりかけていて、駅から吐き出されてきた人たちをかき分けて改札口を通り抜ける。


 しばらくすると見覚えのある車両がホームに滑り込んできた。たしか、少し前まで東京で走っていた電車だ。いたるところに日本語で書かれたプレートが張り付けられている。

タナハバン駅まで30分足らずで着いた。ジャカルタ西郊外のランカスビトゥン方面へ向かう電車の始発駅である。

ホームに降り、電車が出て行った後向かい側のホームを見ると、ランカスビトゥン方面からの電車や環状線を走る電車、南方のボゴール方面からも来るのか、電車が次々と到着する。電車のドアが開くと、車内にぎっしりと詰め込まれていた人たちが一斉に吐き出されてくる。ジャカルタの通勤ラッシュは日本以上だ。


 しばらくすると、待っていたホームにランカスビトゥン行きの電車が入って来た。これもかつて東京で使われていた車両だ。

ラッシュとは反対方向なので、比較的空いている。冷房が効いた車内に入り、座席を確保して安心すると、溜まっていた汗が一度に流れ出した。


 自動ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。ガラス越しにホームを行きかう人々が見える。タナハバン駅を出た電車はしばらくすると大きく右に方向を変え、環状線と別れて西へ向かった。

線路の両側には民家の屋根が電車にぶつからんとばかり迫ってきて、その屋根の下に縦横に伸びる路地を子供たちが走り回る。


 各駅に止まり乗客を乗せたり下ろしたりしながら1時間程走ると、郊外に出た。

稲穂を垂らした水田を見ながら走ること2時間足らずでランカスビツゥンに到着。

ここまでは複線電化区間で近郊電車が数多く走っているが、ここからは単線の非電化区間となりジーゼル機関車が引く列車が日に数本走っているだけだ。

インドネシアではジャカルタなどの大都市近郊を除いて一般的に切符は区間ではなく列車を指定して購入するが、ここから先は近郊電車用の切符が使えないので列車毎の切符を購入した。


 ジャワ島最西端の港ムラック行きの列車は時刻表より少し遅れて入線して来た。ヒロシが乗り込むとしばらくしてガッタンと列車特有の音と揺れを残して動き出した。


 ヒロシはこれから列車と船を乗り継いで東スマトラにあるパレンバンという町に向かうつもりだ。通常ジャカルタからパレンバンに行くには飛行機か、安くあげたいならバスを使う。バスの方が本数もずっと多く所要時間も短いが、ヒロシはどうしても鉄道で行きたかった。


 ヒロシは日本の大学でインドネシア語を専攻している学生だ。夏休みを利用して、かつてシュリービジャヤ王国が繁栄していたと思われるパレンバンの地を訪ねることにした。

彼はまたインドネシア語とは別にマレー語も独学で勉強している。マレー語とは古代マラユ語から発展した言葉で、現在はマレー半島と東スマトラ一帯で話されている。マレーシア語とインドネシア語の元になった言葉でもある。


 ランカスビツゥンを出た列車は、ジャカルタからの電車とは大違いで、森と農地の間をのんびりとしたスピードで走り、車窓からの風景も一気に時代を巻き戻されたようだ。


 昼前にスマトラ島行の船が出る港町ムラック駅に到着。船乗り場は目の前だ。空腹を感じたので駅の周りを少し歩き、ナシゴレン(インドネシア風焼き飯)専門の店を見つけたので、その店に入りナシゴレンを注文した。

出てきたナシゴレン食べた後、船乗り場へ行きスマトラ島東端にあるバカウウニ港行の船に乗り込んだ。比較的大きくてきれいな船だ。ムラックを出た船は1時間程でスマトラ島最東端の港、バヤウフニに着いた。


 ついにスマトラ島だ。ただパレンバン行の列車はここから少し離れたタンジュン・カランという町から出る。船から降りるといろんな男たちが声を掛けて来た。


 パレンバン行のバスの呼び込みだろう、「パレンバン・パレンバン」と叫んでいるのが多い。タンジュン・カラン行のバスがなかなか見つからず、リュックを背に歩いていると後から男の声がした。


「どこへ行くんだい?」

「タンジュン・カランへ行きたいんやけど・・・。バスはどこ?」

「タンジュン・カラン?タンジュン・カラン行のバスは無いよ。50万ルピアなら車で連れってやるよ。」


50万ルピアというと日本円で5千円ほどだ。


「そら、高いなあ。それにバスあるやろう?」

「バスもあるけど、今日のバスは出た後で、明日まで無いよ。じゃあ、40万でどうだい?」


 今日のバスはもう無いという話はあっちこっちで聞いたことがあるような眉唾っぽい話ではあるし、そんなに急ぐこともないが、少し疲れたので車で連れて行ってもらうことにした。


 男について行くと、白い一台の日本車が停まっていた。


「タンジュン・カラン駅の近くで10万ルピアくらいのロスメン(宿)知ってる?」

「ああ、知ってる、知ってる。いくらでもあるよ。ところであんた、変なインドネシア語しゃべってるけどどこから来たの?」

「日本から」

「えっ?日本人?それにしてはインドネシア語うまいね。」

港を出ると、すぐにジャングルの中を走り出した。

「どれくらい掛かる?」


と聞いてみた。


「まあ、2時間くらいってとこかな。ところでタンジュン・カランへ行ってどうするの?」

「列車でパレンバンまで行くねん。」

「パレンバンへ行くの?それだったらバスの方が絶対速くていいよ。パレンバンへ行きのバスならいくらでもあるのに。」

「知ってるけど、列車で行きたいねん。オレ、鉄道が好きやねん。」

「まあ、そりゃいいけど。それでパレンバンに何しに行くの?」

「まあ、ちょっと説明しにくいけど。シュリービジャヤ王国って知ってる?それの遺跡みたいなんがあったら見てみたいねん。」

「シュリービジャヤ?昔あった王国のことかい?そりゃ知ってるけど。

でもパレンバンに行っても何もないと思うよ。聞いたことないよ。」


 ジャングルの中に切り開かれた立派な道路をひた走ること2時間ほどでタンジュン・カランに着くと、運転手は駅の近くのロスメンに連れて行ってくれた。

シャワーは共同で少し薄汚れた感じだが、一泊するだけなのでいいだろう。運転手に金を払いチックインした。

シャワーを浴びて少し休憩した後、早速歩いて明日のパレンバン行の列車の切符を買いに駅まで行った。

もう4時近いのに、インドネシアの熱気がまつわり付く。通りにはバイクと車がひっきりなしに通り過ぎるが、大きな建物はなく田舎町といった感じだ。


 駅で確認すると、列車は朝8時にタンジュン・カランを出て夕方の6時にパレンバンに着くということで、座席は全て指定でエコノミークラスしかない。

切符を買い、町をぶらぶらしながら食堂を探していると、パダン料理の店があったのでそこで夕食を済ませ宿に帰った。さあ、いよいよ明日はシュリーヴィジャヤの都があったと言われているパレンバンだと思うと気持ちが高揚してきた。


 次の日の朝、少し早めに起きて朝食を済ませ駅に向かった。座席は指定席なのでそんない早く行く必要はないのだが、既に駅は思い思いの大きな荷物を持ち列車を待つ人でいっぱいだった。

9時前、定刻より少し遅れて、列車はホームを後にした。しばらく民家と農地をみながら走り続けた列車は、程なくジャングルの中へと進んだ。

全て指定席なので立っている客はいないが、エコノミークラスでクーラーがなく既に暑い。車内では飲み物や、食べ物などの物売りがひっきりなしに通る。


 途中、ラハット方面への分岐駅プラムブリーの駅でしばらく停車した後、さらにジャングルの中を走り続け、パレンバンには約1時間遅れの夜7時に到着した。

もうあたりは暗い。パレンバンの町の中心は駅からムシ川を渡って北側だ。

駅でタクシーを拾い、予約しておいたホテルまで行った。一泊日本円にして1500円ほどで、部屋にエアコンは無くシャワーとトイレは共同だが、大通りから少し入っていて静かなのがいい。シャワーを浴びた後近くの食堂で夕食を済ませ、旅の疲れもあり、早々とベッドに入った。


 次の日、早速観光局を訪ねた。観光でパレンバンを訪れる人などそうそう居ないだろうと思いながら訪ねたが、予想通り観光局はガランとしていた。

中に入りカンターに座っているお姉さんに声を掛けた。


「パレンバンの地図はありますか?」

「地図ですか?ちょっと待って下さい。」


そう言うとしばらくして、地図を持って来た。


「最近は紙の地図を使う人も減りましてねえ。大抵はスマフォで済ませる人が多いんですよ。」


と言い訳のように言いながらやや古びた地図を渡した。


「どこへ行きたいんですか?」

「スリービジャヤ王国に関する何か遺跡のようなものはないですか?」

「スリービジャヤ王国ですか??」


少し困ったような顔をして振り返ると、後ろで聞いていた男の人が一人近づいて来た。


「スリービジャヤ王国ですか?いや~、遺跡はないですね。」


しばらく考えて


「当時のものかどうかはよく分かりませんが、石碑のようなものならいくつかありますけどね。町中じゃなくて少し遠いですよ。」


気が付くと、いつのまにかその場に居た全員が集まって来ていた。

そして、どこから来たか、どこに泊まっているか、いつまでパレンバンに居るつもりなのかと、あまり関係のない質問を浴びた。

よほど暇なのか、そもそもあまり仕事をしていたようには見えなかったが、いずれにしてもここを訪れる観光客はほとんどいないようだ。

その質問に適当に答えた後、地図にその石碑のある場所にマークしてもらい外に出た。遠い上にあまり期待できそうにないが、ここまで来た以上行かない選択肢はない。


 観光局の前で待っていてもらっていたタクシーに乗り込み、地図を見せると、運転手は不思議そうにしばらく地図を眺めていたが、ようやくわかったようで、車を走らせた。


「そんなところに何があるんだね?」


運転手は聞いて来た。


「スリービジャヤ王国時代のかもしれない石碑があるらしい。」

「スリービジャヤ?聞いたことないなあ。あんた若いけど学者さんかい?」

「いや、ただの学生ですわ。ちょっと興味があってね。」

「そうかい、まあいいけどちょっと遠いよ。2時間くらいかかると思うよ。いいかい?」

「いいですよ、お願いします。」


タクシーは町を出ると、ムシ川の支流に沿って下り、海に近づいていった。

2時間近く走ってタクシーは止まった。


「地図に書いてあるマークがあるのはこの辺だけどね。その石碑っていうのはどこにあるのかね?」


タクシーを降りて、近くに居た人に聞いてみた。最初の人は知らなかったが二人目の人は知っているようだった。


「石碑みたいなのがもう少し行って右に入ったところにたしか在ったとおもうなあ。」


そうこうしている内に子供たちが集まって来た。

男の人は子供たちになにか話した後、ヒロシに言った。


「この子たちが連れってくれるよ。着いて行きな。歩いてでも行けるよ。」


ヒロシは子供たちについて歩き、タクシーはそのあとをのろのろとついて来た。しばらく歩くと子供たちが狭い小路を指さした。タクシーがついてこられるのもここまでだ。


「ここでちょっと待っといてもらえますか?」


そう頼むと子供たちについて行った。5分くらい歩いた後、小道からさらに原っぱに少し分け入ったところに古びた石が立っていた。

何か文字のような物が刻まれているがさっぱり読めない。ヒロシは前の石に腰かけぼんやりと石碑を見つめた。

石碑の周りは木陰になっていて以外と涼しい。一敵的にインドネシアの気候は日本の夏程暑くはなく、木陰に入ると涼しく感じることも多い。子供たちはしばらく取り巻いていたが、何も起こらないことに退屈したのかどこかへ行ってしまった。


 勢いでここまで来たけど、何だったのかなあ?とヒロシはぼんやり考えた。

インドネシアが好きで、いろいろ調べているうちにシュリーヴィジャヤ王国のことを知った。

シュリーヴィジャヤ王国とは、7世紀から14世紀に掛けてインドネシア、マレーシア海域の貿易を担っていた海洋王国で、スマトラのパレンバン近郊を本拠地としていたと言われている。

彼等が使っていた言葉が古代マラユ語で現在東スマトラ、マレー半島の人々が使っているマレー語の元となった言葉である。

そして、その言葉がシュリーヴィジャヤ王国の繁栄と共にインドネシア、マレーシア地域の港町の共通語として使用されるようになり、シュリーヴィジャヤ王国滅亡後はマラッカ海峡の東側マレー半島西岸に栄えたマラッカに引き継がれ、今日のインドネシア語の基礎となったとも言われている。


 大した調査もせずこの地にやって来たが、果たして何を期待していたのだろうか?ヒロシは目を閉じたままシュリーヴィジャヤ王国の時代に思いを馳せていたが、いつの間にか眠ってしまったのだろうか?


 ドンという大きな音で目を覚ますと、ヒロシは地面に横たわっていた。見上げると若い娘がこちらを不思議そうに見ている。娘というよりは少女だろうか。


「どうしたの?大丈夫?」


彼女が尋ねた。少しなまりが強いが何とか理解できる。


「いや、何でもないよ。」


そう言って立ち上がろうとしてよろめいた。


「無理しちゃ、駄目よ。」


やはり不思議そうにこちらを見ている。何とか立ち上がって周りを見て驚いた。

さっきまでの景色とはまるで違う。横切って来た広場もない。

寝ている間にだれかがここに運んできたのだろうか?

それにこの娘は奇妙な服を着ている。まるで、博物館から飛び出して来たような、と言うよりは何かのテーマパークに迷い込んだような気分だ。


 前に小道が続いていたのでタクシーが待っていると思われる方向に歩き始めると娘は少し離れて着いて来た。

来た時に通った小道はガタガタではあったがかつて舗装したであろう跡は残っていた。だがこの小道は完全な地道だ。

しばらく歩くと数件の家が見えてきた。家というよりは木でできた粗末な小屋だ。

人々がこちらを警戒したような目で見ている。服装はみんな腰に布を巻き付けて、上は薄手の生地で半袖の服を前で重ねて着ている。


 しばらく歩いたがタクシーはおろか道路さえ見当たらない。


「この辺にタクシーが停まっているはずなんやけど、知らん?それに広い道路もあるはずやねんけど。」

「タクシーって何?それよりあんたどこから来たの?」

「オレか?オレはう~ん、ジパン(日本)から来たんや?ジパン、知ってる?」

「知らない。それって海の向こう側にあるの?」


こんな田舎の子なら日本のことも知らないのか。


「うん、そうや。」

と答えた。


「船で来たのね?」

「うん、まあそんな感じかな。」


少し面倒くさくなって適当に答えた。


 携帯電話を出してみると、データ通信はできないし、電話もかからない、完全に圏外だった。

タクシーもいないし、電話も通じなければどうしたらいいだろうかとヒロシは途方に暮れた。

その様子を見ていた娘は不思議そうに尋ねた。


「それ、今持ってたの何?」

「これ?何って、携帯電話やん。知らん?」


いったいこれはどういうことだろう?携帯電話が通じないだけではなく、携帯電話を知らない人間がいるなんて。ヒロシは木陰に座ってどうしたものかと思案した。


「パレンバンに帰りたいんやけど、どうしたらええやろ?」

「パレンバン?どこ?あなた本当はどこから来たの?まさか、マジャパヒト人じゃあないでしょうね。」

「マジャパヒト?」

「マジャパヒトが攻めてくるって話知らないの?」


マジャパヒトと言えばジャワに栄えた有名な王国で14世紀にシュリーヴィジャヤを滅ぼしたことでも知られる。

この娘は私をからかっているのだろうか?それとも本当に何かが起きたのか?

タイムトリップという言葉が頭に浮かんだがすぐに否定した。

そんな馬鹿な。タイムトリップなどというのは物語の中に出てくる架空の話で、本当の世界で起きるはずが無い。


 状況を整理してみようと思うが考えが頭の中で空回りする。その時腹がグルグルと音を立てた。


「あなたお腹空いてるの?」


そういえば朝食べたっきり何も食べていない。


「うん、まあそうやな。」

「うちに来なさいよ。食べるものならあるわよ。ここからすぐよ」


促されるまま娘に付いて行くことにした。今ではこの娘だけが手がかりを与えてくれる唯一の支えだ。

今度は娘が先に歩いて、少し離れてヒロシが歩いた。

道ですれ違う人が怪訝な様子でこちらを伺う中を10分程歩いて着いた家は前に庭がある大きな家だった。金持ちの娘なのか?


 庭に入ると家の中から娘よりも少し年かさの男が出てきた。


「誰だ?そいつは?」


男が言った。


「この人、道で倒れてたの。お腹が空いてるみたいだから連れて来たの。」

「おいおい、そんな浮浪者連れて来てどうするんだ?」

「この人そんな感じじゃあないのよ。少し変ってるけど、きれいな服着てるし。」

「変わり過ぎだよ。何者だ?どっちにしてもそんなどこの馬の骨かも分からない奴を家に入れるわけにいかないな。親父もいないことだし。」


声を聞いて家の中からもう一人若い男が出て来た。最初の男よりも若そうだ。


「この人誰?」

「ライナが飯を食わせるために連れて来たんだ。道に倒れてたらしいぜ。」


弟らしき若い方の男が言う。


「母さんに言えば何かあるんじゃないの?」

「ばか、そんな奴ほっぽりだせばいいんだ。」

「別に悪いことしたわけじゃないし、飯くらい食べさせてあげたらいいんじゃないの。」

「そうよ、可哀そうよ。」

「かってにしろ!!でも家には入れるなよ。」


兄は家の中に入ってしまった。


「じゃあ、こっちにおいでよ。」


 娘に付いて行き、納屋の前の日陰に腰かけた。弟がいろいろ質問してきたが、今一つかみ合わないのはどうも前提が違うようだ。

向こうが何か誤解しているのか、それとも自分が思っているより状況が違い過ぎるのかとヒロシは自問してみた。

娘がご飯と煮魚をバナナの葉っぱの上に乗せて持ってきてくれた。スプーンは無いので、ヒロシは手でそれを無心に食べた。

しばらくして、お父さんらしき男の人が帰って来て、ヒロシの方を見て言った。


「こいつは誰だ?」

「道に倒れてたのをライナが拾って来たんだ。」

と兄が言った。


「どうしてあげたらいい?」

と娘。


「どうするも、こうするも、お前は一体誰だ?なんでそんな恰好をしてる?」


ヒロシは口ごもった。


「私は、ジパングから来ました。これはジパングの服です。」

「ジパング?聞いたことないな。まさかマジャパヒトから来たんじゃあないだろうな?それにしても顔立ちが少し違うなあ。う~ん、前に見たことがあるミン人に似ているな。」


ミン?それって中国の明王朝のことだろうか?ますます混乱して来た。


「お前、ミンから来たのか?」

「ミンですか?いえ、その東にあるジパングから来ました。」

「ジパングねえ・・・。それってワのことか?ワコウとかいう奴らが北の方で暴れてるっていう話は聞いたことがあるが。」


むむっ、ワコウ?和寇?室町時代に中国沿岸や東南アジアを荒らしたというあの和寇か?

とりあえずワというのは日本のことらしい。


「はい、和です。でも和寇ではありません。」

「どうやってここに来たんだ?一人でか?う~ん、どうも怪しい。番所に連れて行く方がよさそうだ」

娘が言った。


「待って、そんなことしたらこの人はどうなるの?牢屋に入れられちゃうの?」

「そんなことは知らん。まあ、少し様子を見るか?」


 ヒロシは何とか番所行きは免れた。番所とは警察のことだろう。警察に連れて行ってもらえればむしろ解決するかなとも思ったが、どうも状況はそんなに楽観的ではなさそうだ。

これは本当にシュリーヴィジャヤの時代にタイムトリップしたとしか考えられない。



2、和寇


 その日からしばらく夜は納屋で寝させてもらって、食事は家の中でみんなといっしょに食べることになった。

親父さんは忙しくて、朝家を出ると夜まで帰って来ない。

上の兄は24才でウングル、弟は20才でアリエフといい、ライナと呼ばれる娘は18才だ。

ウングルは仕事をしているようで出かけることが多いが、アリエフとライナは家にいることが多く何かとヒロシに話しかけてくる。

特にライナはヒロシのところによく来る。ウングルは相変わらずヒロシのことを怪しんでいるようで、二人が、特にライナがヒロシと親しくしているのを苦々しく思っていたようだったが、ある日ヒロシに警告した。


「おまえ、ライナと仲良くしているようだが、言っとくがあいつももう大人だ。分かってるだろうな。もし、ちょっとでも変なことをしたらただではおかないぞ。」


ヒロシもそんな気は毛頭ないが、ライナの少し浅黒いが大きな目とまだあどけなさの残る顔、そして積極的で明るい性格に随分助けられているのも事実だ。

そして何よりも大事な情報源だ。アリエフも時々ヒロシの所へ来て何かと教えてくれるが、ライナからの情報に勝るものはない。

今居るのはシュリーヴィジャヤ王国の首都の郊外で、親父さんは宮殿でパラメスワラ王子に仕えている。

パラメスワラ王子と言えばシュリーヴィジャヤ王国最後の王子の名前だ。

そして最近ジャワにあるマジャパヒト王国と戦をしていて、どうもシュリーヴィジャヤの方の分が悪く、マジャパヒトの軍がここにも攻めてくるのではないかと町中が浮足立っているそうだ。

もしそれが事実なら14世紀後半ということになる。日本でいえば室町時代、中国では明王朝の勃興期だ。


 ヒロシが日本から着て来た服はあまりにも目立つので、最近はアリエフの服を借りて着ている。

ヒロシは日本でも少し背が高い方だったが、この時代の人たちの中に入ればひときわその高さが目立つ。

アリエフもここの人たちの中では背の高い方だが、それでもアリエフの服はヒロシにはかなり小さい。

しばらくしてライナがアリエフの服をヒロシが着てもおかしくないように手直ししてくれた。

可愛いところがあるとヒロシは思った。


 ヒロシは毎日のように石碑のところへ行きいろいろと試してみた。

時には寝転がってしばらくウツラウツラしてみるが、何も起こらない。

あの時はたまたま何かが起きたのか、それとも条件が合えばまた時空が開くのか?しかし、ヒロシには知りようもなかった。

ぶらぶらと出掛ける時は物珍しさもあってかたいていライナが付いて来る。

道で会う人はもう顔見知りにはなっているが、最初の印象が強かったせいか相変わらず不審げに見ている


 石碑は少し小高い場所に立っていて、そこから遠方に海が見える。

その横には大きな木が枝を広げていて程よい木陰を作っている。

この海の向こうには日本があるのだなとヒロシは思った。そして故郷の町や家族、友達を思った。

しかしそれは懐かしいというような感情ではなかった。

懐かしいという感情は同じ世界に身を置く者が昔を思った時に湧き上がるものなのだろう。

時空を超え隔絶されたこの地から故郷を思うとき、それは懐かしさではなく大事にしていたものを無くして二度と取り戻せない、そんな悲しみであり胸が締め付けられるような思いであった。


 第一、船でこの海を渡って日本に辿りつくことなど彼の想像の範囲を遥かに超えていた。

万に一つ日本に帰れたとしても、その日本はヒロシが知っている日本ではなく、ただ日本というだけの全く知らない世界である。

室町時代の日本のことなど何も知らないそんな自分が日本で生きていけるのだろうか?

一度飢饉になれば多くの人が飢え、子供は売りに出され、年寄は捨てられる。

ヒロシの室町時代に対する貧弱なイメージはそんなのものだった。そんな時代の人が見ず知らずの人間を受け入れてくれるとはとても思えない。

熱帯の暴力的ともいえる太陽に照らされて明るく輝く海と空を見つめながら、ヒロシは暗い絶望の闇の中に沈み込んでいくのを感じた。

そばで黙って見ていたレイナはヒロシの悲しみを感じ取ったようだが、本当のヒロシの絶望の理由は勿論理解していなかった。しばらくして彼女が口を開いた。


「ヒロシの国って遠いの?」

「ああ、遠い。船で帰ったら何日も何日も何日も掛かるわ。」

「帰りたい?」

「うん、まあ帰りたいと言うたら帰りたいけど、今は帰られへん。」

「そうなんだ。」


また沈黙が流れた。


 日本へ帰っても受け入れてもらえないならここで暮らす方がましなのか?

しかし、この人達が見ず知らずの自分を受け入れて居候までさせてくれるのは何故だろうか?

自分にそんな価値があるのだろうか?

今の家を放り出されたら野垂れ死にするしかないだろう。今はただ流れに身を任せるしか自分には方法がないのだろう。

ヒロシはそんなことをぼんやりと考え時間が流れて行った。


 スリーヴィジャヤは仏教王国だ。かつて7世紀には唐の僧侶義浄がインドへ向かう途中この地に立ち寄り半年間滞在して仏教を学んだとの記録もあるくらいここは仏教が盛んな町だった。

そのころほどではないにしろ、この時代でも人々は仏教を信仰し町中には至る所に仏教寺院があり、多くの托鉢僧の姿をよく目にする。


 家から少し歩けば市場があり食料はもちろん、日用品や衣類など何でも売っているし、食堂もある。

ここの食べ物は21世紀のインドネシアのもの程スパイシーではないし、味付けもどちらかというと素朴だが、決してまずいということはない。

そういえば市場でもスパイスは見かけない。

お菓子もあるが米あるいはもち米が材料でココナッツミルク味の物が少しあるくらいで甘くはない。

砂糖は貴重品なのだろう。これも素朴な味だが結構おいしい。

三度の食事は家で食べさせてもらえるのだが、たまにはこういったお菓子も食べたいとも思うのだが、何分ヒロシはお金を一銭も持っていない。インドネシアルピアは勿論使えない。

ライナが買った時に半分分けてもらって食べるのが関の山だ。我ながら情けないと感じる。


 それからしばらく経ったある日、仕事から帰って来た親父さんが珍しくヒロシに声を掛けて来た。


「お前、ワから来たと言ってたな?ワの言葉はもちろん喋れるんだろ?実は港にワコウがやって来てるんだが何を言ってるか分からん。明日いっしょに港へ行ってくれないか?」

「ええ、いいですよ。その人たちは自分でワコウだといったんですか?」

「いや、そうじゃないがたぶんそうだろうということだ。」


 翌朝、親父さんといっしょに30分程歩いて港まで行った。

港には様々な大きさ、そして様々な恰好をした船が沢山停泊していた。

その中でひときわ汚くて壊れそうな船の前に役人らしき男が二人所在なさげに立っていたが、親父さんを見ると手を前で合わせて挨拶をした。


「ごくろう、中の人間は大人しくしているか?」

「はい、ずっと中でじっとしています。」

「その中から一人連れて来てくれ。」


そう言われると男の一人が中に入り、汚い恰好をした中年くらいの男を一人連れ出して来た。


「ヒロシ、こいつと喋れるか?」


親父さんに促されるまま、ヒロシは日本語で話し掛けた。


「あんたは日本から来たんですか?」

「おっ!!お前日本語喋れるのか?お前も和寇か?いつからここに居る?」

男は驚いて、立て続けに質問をした。


「私は和寇じゃあないですよ。ちょっと事情があってここに居るんですけど、もう一カ月くらいになる。」

「事情っていったい・・・」


男が言いかけた時、親父さんが遮った。


「どうやら言葉が通じるようだな。じゃあ、私の言うこととそいつの言うことを通訳しろ。

まず、お前はどこから来た?ワコウか?ここに何しに来た?」


ヒロシは訳すと男は話し始めた。


「オレたちは日本から来た和寇だ。和寇って言っても海賊じゃあない。全うな商いをしている。チャンパへ行く途中嵐に会い、舵を無くしまってこの近くまで流されてきた。そこをあんた方の船に引っ張られてここまで来たってわけさ。もう食料も無くて何も食ってねえ。食料と水をくれたら俺たちの持ってる品物で払うぜ。」


チャンパというのは今でいうベトナム南部で栄えた国だ。


「何を持ってる?」


男は船の中に向かって叫んだ。


「おい、何か反物を一つ持ってこい。」


しばらくして、もう一人の男が反物を持って現れた。絹のようだ。親父さんはそれを見て呟いた。


「なかなかいいもんだな?これはワから持って来たのか?まだまだあるのか?」


訳すと男は言った。


「これは明で仕入れて来たんだ。チャンパで売ろうと思っていたんだが、ここで売ってもいいぜ。まだまだ他にもいいものがいっぱいあるぜ。」

「全部見せろ。」

「絹の反物もう一反と木綿の反物をいくつか、それから焼き物を適当にいくつか持ってこい。」


もうひとりにそう言うと、ヒロシに向かって言った。


「今いくつか持って来るから、食い物と水を分けてくれるように頼んでくれ。」


それを聞いた親父さんが役人に食べ物と飲み物を持ってくるように言うと、役人の一人が調達に行った。

和寇が持って出て来たものを見て親父さんは気に入ったようだ。


「うむ、私は商人じゃあないので詳しくはわからんが悪くなさそうだ。後で眼の効く奴を来させよう。」


役人が食料を持って来ると、和寇たちは船から出て来てむさぼるように食べた。全員で五人だ。親父さんは先に引き上げ、ヒロシは残った。


「それでお前、なんでこんなところに居るんだ?一人か?」

「うん、一人や。なんでって言われても困るけど・・・

ここには仏教を勉強しに来たんや。船をいろいろ乗り継いでね。」


思わず出まかせを言った。


「お前、坊さんか?」

「いや、ちゃんとした僧侶やないねんけど。それでおじさんたちは日本のどこから来たんや?」

「オレたちは瀬戸内から来た。お前その言葉は畿内ものか?どこだ?」

「オレは、京都・・・、山城から来た。」

「ふ~ん、そうかい。それでここにはもう長いのかい?」

「いや、まだ一カ月くらいや。」

「それにしてはここの言葉がうまいな。」

「うまいっていう程やないけど、日本で少し勉強してきたから。」


久しぶりに日本語をしゃべると止まらなくなった。

船頭さんは政吉といって、年のころなら40過ぎというところか。


「さっきのおっさんとはどういう関係だ?」

「あの人に家に居候させてもろてんねん。あの人は結構えらい人で、王子さんのお付きをしてるらしい。」

「そりゃあちょうどいい。船を修理してくれるように頼んでもらえねえか?船に積んでいる商品と引き換えでどうかな?何だったら銀で払ってもいい。」

「うん、聞いてみてもええで。」


 それからヒロシは毎日のように港に通った。なぜかたいていライナもついて来た。


「あんた、この人たちと同じ国から来たの?」

とライナが聞いた。


「うん、そうや。村はちょっと離れてるけどな。」

「じゃあ、船の修理が終わったらこの人たちといっしょに帰れるじゃなない。どうするの?」

「そうやなあ。そうできたらええなあ。」

「でも、あんたいったい何しに来たの?」

「うん、ただシュリービジャヤに来たかったんや?」

「なんで?」

「なんでって聞かれてもこまるけど。それよりマジャパヒトが攻めて来るって話やけどどうなってるのん?」

「そんなこと言う人がいるけど、知らないわ。だいたいマジャパヒト人なんかに会ったことないわ。それより、ヒロシ、あの人たちといっしょに帰るの?帰りたいんでしょ?」

「せやなあ、もっとここに居たい気もするけど、もしマジャパヒトが攻めてくるんなら逃げた方がええかなあ。」

「何よそれ!よくそんなこと言うわね。マジャパヒトなんか来ないわよ。」


もうすぐシュリービジャヤはマジャパヒトに滅ぼされるなど口が裂けても言えない。

だいたいそれがもうすぐなのか、何十年後なのかも知らない。

ここで使用されている歴は西暦とは異なり、ヒロシは西暦しかしらないのだから、知りようがない。

ただ、シュリービジャヤの今の王子が王子で居る間のことだから2~30年も先のことではないような気がする。

しばらくすると交渉が成功して、船の修理も始まった。


 日本人たちは持って来たものを売ったり、銀をこっちの貨幣に換えて、時々食料品などを市場に買い出しに行っては船で自炊するようになった。

政吉さんともう一人若い長兵衛が少しヒロシに教わって、片言のマラユ語をしゃべるようになったが、まだほとんど通じない。

たいてい買物にはヒロシが付き合わされる。そして売買して得た金の一部を通訳料としてヒロシに払ってくれるようになった。

今までライナの小遣いからいくばくかの金をもらって買い食いなどしていてあまりにも情けなかったが、これで堂々と自分の金として使える。


政吉が聞いた。


「おまえ、いつもあの娘といっしょにいるがどういう関係なんだ?いい関係なのか?」

「そんなわけないわ。何かあったら殺されるわ。」

「あの親父さん、そんなに怖いのかい?」

「親父さんもやけど、兄ちゃんの方が怖いわ。」

「あの時々来る若い男か?」

「いや、アリエフは結構仲良くしてくれてるけど、その上にもう一人ウングルっていうのがいて、それが怖いねん、たしか一回来たことあると思うけど。」

「ああ、そう言えば、一度目つきのきついにいちゃんがきたなあ。」

「うん、悪い人やないねんけど、怒らせたら怖そうやな。」


 日本人たちは味噌や醤油を持っていて、時々味噌汁などを作ってヒロシにも振舞ってくれた。初めて味噌汁を飲んだ時は思わず涙ぐんでしまった。


「どうだい、日本の味は?懐かしいだろ?」


まだ日本を出て二カ月程にしかならないのに、随分昔のような気がする。こ

のままあの時代の日本に帰れなかったらどうなるのだろう。

いつまでもあの家に居候させてもらう分けにもいかないだろう。


 ある日、親父さんに呼ばれて王子に謁見することになった。

今までの人生で偉い人に会って話したことなどなかったので、ヒロシは緊張した。

王宮は木造の平屋で風通しがいい。地面より2~3段高くなった石造りの廊下を親父さんに付いて歩いていくと、広い部屋に着き奥の一段高くなった椅子に王子が腰かけていた。

前もって教えてもらっていたように両手を合わせひざまずいてお辞儀をした。


「顔を上げよ。」


と王子がいったのでヒロシは顔を上げた。


「聞くところによると、ワの国からきたそうだな?」

「はい、ワから来ました。」

「最近来たワコウ船の人間と同じとこらから来たのか?」

「はい、村は少し離れてますが国が同じです。」

「ワコウとはずい分乱暴なやからと聞くがどうじゃ?」

「確かに乱暴なことをする奴らもいるとは思いますが、ほとんどは全うな商いをしている商人です。ここに来ているのもそういう商人たちです。」

「そうか。ワの国のことをもっと知りたい。どのような国じゃ?」

「ワの人間はここと同じで仏教を信じています。」

「おうそうか。かの地でも人は仏を信じておるのか?」

「はい。」


そこで、ヒロシは困った。日本のことと言われても、元の時代の事など話せないし、話しても信じてもらえないだろう。

室町時代の日本を想像しながら話そうと日本で見た時代物のドラマなども思い浮かべた。

ただそれは室町時代ではなく、平安時代か、源平時代、戦国時代か江戸時代などのものであった。

だいたい室町時代のドラマなど見たことがない。娯楽の世界では完全に欠け落ちた時代だ。

よりによって、その欠け落ちた時代に来てしまったのか?ヒロシは心の中で苦笑した。

それでも何とか気を取り直し、どうせ何を言っても本当かウソかなんて分からないだろうと、開き直って物語をかたるつもりでかってなイメージを語った。

日本の歴史学者が聞けば激怒するかもしれない。だが、そんなヒロシの話でも王子は気に入ってくれたらしいい。

最後に笑顔で


「また来て、いろいろな話を聞かせよ。」


と言って送り出してくれた。ヒロシはほっと安心した。

嘘をついていることがばれて牢屋にぶち込まれることはなかった。

もし、本当にもう一度お会いすることになったら、もっと話す内容を整理していこうと思った。


 ある日、いつものようにライナと歩いていると、海辺の近くで粗末な家が密集している場所にでた。


「ここは危ないわよ。帰りましょう。」


とライナが心配そうに言う。


「お前、先に帰れ。オレはもうちょっとこの辺をうろうろしてみる。」

「だめよ、ここは来ちゃいけないってお父さんにも言われてるの。」

「せやから帰れって。大丈夫、ちょっとうろうろしてすぐ帰るから。」


ライナはしぶしぶ帰って行った。

でもなぜそんなこと考えたのだろうか?ヒロシはそろりそろりと密集した家の間の道に入って行った。

たしかにとても安全とは思えないような路地だ。

バラック小屋は板を張り合わせただけで、雨が降れば雨漏りしそうだ。

屋根と屋根が引っ付きそうで空はほとんど見えず、狭い道は雨も降っていないのでぬかるんでいた。

周りの人は怪しい者を見るように見ている。


 しばらく歩いて行くと小さな子供2人とお母さんに出会った。子供たちは母さんの後ろに隠れて顔だけを出した。

ヒロシが

「こんにちは」

とほほ笑むと、ニコっと笑った。

お母さんは髪がぼさぼさで着ている服もぼろぼろで風が吹いたらバラバラになって飛んでいってしまいそうだ。

上の男の子は5~6歳だろうか?下の子は女の子で3~4歳か?

しばらく眺めているとお母さんが言った。


「あんた誰だよ。ここのもんじゃないだろ。こんなとこで何してるんだ?」

「いや、別に悪いことしようて分けじゃないねん。ただちょっと散歩してただけやねん。」

「散歩?バカ言うんじゃないよ。誰がこんなとこ散歩するってんだい。あんたひょっとしたら番所の回し者かい?誰か探しにきたのかい?それともここをぶっつぶそうって調べに来たのかい?」

「ちがうちがう。ちょっと歩いてだけやねん。もう帰ります。」


とその時、突然後ろからすごい力で羽交い絞めにされ、首を絞められた。

息ができない。なんとかしようともがいたがとても抵抗できない。苦しい。

だんだんと気が遠くなりかけた時、お母さんが怒鳴った。


「いい加減にしな。死んじゃうだろ。早く手を離すんだよ。」


次の瞬間ヒロシは解放されそのまま地面に倒れこんだ。



「にいちゃん、大丈夫かい?」


女はヒロシの頬をパンパンと叩いた。ヒロシはうめき声をあげた。


「生きてるようだ。ほんとにお前は乱暴もんなんだから。」

「だって、もし女将さんになんかあったら、兄貴に申し開きができねえ。」

「もういいよ。兄さん動けるかい?」


ヒロシは起き上がろうとしたが、動けなかった。


「こりゃだめだ。このままじゃなんだしとにかくうちの中に入れよう。」

「そんなことして大丈夫かい?」

「大丈夫もなにも、こんな死にかけてる兄ちゃんに何ができる?」


女将さんと男に抱えられてヒロシは家の中に入れられた。しばらく男も居たが言った。


「オレ、もう帰るけど本当に大丈夫か?」

「大丈夫だよ、なんかあれば大声出すから、そしたらみんな駆けつけてくれるよ。」


それを聞いて男は小屋から出て行った。ヒロシはしばらく動けず横たわっていたが、やがて起き上がって座った。家と言っても4畳半より少し広いくらいで床は土の上に薄い板切れが敷いてあるだけのものだった。


「悪かったね。あいつは乱暴者だけど、悪い奴じゃあないんだよ。」

「ああ。でもさっきは助けてくれてありがとう。命の恩人や。」

「大げさだね。」


 女将さんと呼ばれていた女性は薄汚れているけれど、よく見ると結構若そうだ。

気が付くと回りはすっかり暗くなっていた。


「あんた1人で帰れる?でもこんなに暗くなっちゃったら1人で歩いてたら本当に危ないよ。それに迷っちゃうんじゃあないかい?」


確かにこの真っ暗闇の中でこの貧民窟、そんな言い方をしたら悪いなとは思ったがやはり貧民窟だ、この状態で外に出られる自信はない。ヒロシがしばらく躊躇して黙っていると


「何か食べるかい?って言ってもたいしたものは無いけど。」


もつを煮込んだスープを出してくれた。子供たちが少しずつそれをすすっている。


「いや。お腹空いてないんで大丈夫。子供たちにあげて。」


そう言って遠慮した。とれも子供たちの上前をはねるなんてできない。

女将さんはしばらくして言った。


「今日はここに泊まって行くかい?うちの人は牢屋に入ってて当分帰ってこないから。」


ヒロシはたじろいだ。兄貴と呼ばれてた旦那は牢屋に入ってるのか?変に関わったら本当にやばそうだ。


「だけど言っとくけどちょっとでも変なことしたら大声出すからね。そしたら周りからみな飛び込んで来てあんた生きてここから出られないよ。」


ヒロシは笑って答えた。


「そんな心配することないで。」


子供たちがもにっこりと笑って、結局泊めてもらうことにした。

が、ゆっくりとは眠れなかった。この環境の中というのもあったが、すぐそばに女の人が寝ていると思うと気になったのだ。ヒロシは結構繊細なたちだ。


 よく眠れないまま朝を迎えてヒロシは言った。


「もうそろそろ帰りますわ。明るくなったし。」

「そうかい、じゃあ外まで送っていくよ。」

「大丈夫やて。」

「また危ない目にあうよ。」


女将さんに送られて歩いた道は迷路のようでとても1人で帰れそうになかった。


「子供たちだけで大丈夫?」

「大丈夫だよ。私が仕事してる時はいつも子供たちだけだから。」

「仕事って何してるのん?」

「仕事っていうほどのもんじゃないよ。ゴミ拾いみたいなもんだね。それであんた名前はなんていうの?」

「ヒロシ」

「ヒロシ?変わった名前だね。私はサリ。」


出口まで付いて来てくれたサリは


「もうこんなとこ来ちゃだめだよ。」


と言って見送ってくれた。


 家に帰るとライナは門のところで待っていた。


「どこに居たの?昨日帰らなかったんでしょう?心配したんだから。」

「ごめん、ごめん。暗くなって帰られへんようになったから泊めてもろてん。」

「泊めてもらったって、どこに?まさかトンブの中じゃないよね。」


あそこはトンブと呼ばれているらしい。


「うん、その中や。」

「え~え!そんなとこに泊まったの?よく無事に帰って来たわね。もう絶対に行っちゃだめよ。」


ライナはやや涙声で言った。


「泊めてくれた家の人にももう来るなって言われた。」

「お腹すいたでしょう。」


昨日の晩御飯の残りを持って来てくれた。


 その日からしばらく子供たちの顔を思い出した。具のほとんど入ってない少しばかりのスープをおいしそうに啜っていた子供たち。

 

 4~5日して、ライナが居ない時を見計らってヒロシは出かけた。

市場で少しばかりの食べ物を買ってトンブへ出かけた。

路地に入り、たどり着けるかなと訝ったが以外にもすぐに分かった。

小屋に入ると子供たちだけが居て食べ物をあげるとむさぼるように食べた。

しばらくするとサリが帰ってきてヒロシの顔を見ると言った。


「あんた、また来たの?あんたたち何を食べてるの?」

「ああ、オレが持ってきたんや。」

「そうかい?あたしたちを哀れに思って持って来てくれたんだね?」

「いや、そういうんやないんや。ごめん、もし気を悪くしたんなら謝る。ただ、この子たちに食べさせてあげたかったんや。」

「いや、いいよ。ありがとう。美味しいかい?」


子供たちがにっこり笑って


「うん、おいしい。」

と元気に言った。


 それからヒロシは2~3日に一回トンブを訪ねた。子供たちもすっかりなついてくれ、サリも心を開いてくれた。


「うちの人ね。人を殺めちゃって。もう帰ってこないよ。」

「そうなんや。」


 4回目に訪ねて行った時、突然例の男が入って来た。ヒロシは腰が引けて逃げようとしたが逃げる場所がない。


「そんなに怖がらないでくれ。この前は悪かったな。」


男が謝ったのでヒロシは安心した。


「いつも子供たちに食べ物を持って来てくれてるんだって?」

「うん、サリさんはオレの命の恩人やしな。」

「また、そんな大げさなこという。」

「それ、オレのせいだな。」


男が言ってみんなで笑った。ヒロシはここにいるとライナたちといっしょに居る時とは別の何か家に居るような安らぎを感じるのだった。

帰る時、男もいっしょに小屋を出た。そしてヒロシの耳元で囁いた。


「でも、もし兄貴に顔向けできないようなことをしたらただじゃおかないぞ。」

「いやいや、そんなん全然ない。ただ子供たちが可愛いだけや。」

「でも女将さんは奇麗だろ?」


たしかに良く見ると整った顔立ちをしている。年もヒロシとそれ程変わらないだろう。


「そうやな。」

と言った。そして


「ひょっとして、あんたこそあの人に惚れてんのんちゃうか?」


というと、男は大げさに手を横に振って


「バカ言うな。そんなこと、兄貴に顔向けができねえだろ。」


そう言った男の顔が心なしか少し赤くなったように見えた。


 それから何日か後ヒロシが家を出ようとしていると、ライナが見つけて呼び止めた。


「ヒロシ、最近よく1人で出かけるけど何処行ってるの?まさかトンブに行ってるんじゃないわよね。」


一瞬ヒロシは躊躇ったが正直に言った。


「そうや、泊めてもろた家に行ってる。小さな子供たちがいてるねん。その子たちに食べ物持って行ってあげてるねん。大丈夫、そんなに怖い人ばっかりやない。もうみんな顔見知りになってるし危なくないで。」

「子供たちって、親もいるんでしょ?」

「お母さんが1人で育ててる。大変そうなんや。」

「へえ、そうなんだ。お母さんと子供たちだけの家に泊めてもらったんだ。綺麗な人なの?」

「えっ!?何?お前ひょっとして焼きもちやいてるのか?そんなんやないのに決まってるやろ。」

「何よ、そんな分けないでしょ。どうせおばさんでしょ。それより、それが何なの?そんな子供なんかあそこには山程いるわよ。全部助けてあげる気?」


ライナの言葉はヒロシの胸に刺さった。

たしかにオレは自己満足で施しをあげてるだけの偽善者なのかもしれない。でも、と思った。


「目の前に居たあの子供たち。ほってはおけないんや。」

「じゃあ、私もいっしょに行くわ。ヒロシが可愛がってる子供たち、私も見てみたい。」

「えっ!?そんなんあかんに決まってるやろ。危ないやん。」

「さっき危なくないって言ったじゃない。」

「それはオレのことや。ライナは女の子や。もしライナに何かあったら親父さんに顔向けがでけへん。絶対について来たらあかんで。」


そう言うとヒロシは歩き出した。しばらくして振り返ると、案の定ライナが少し離れて付いて来てる。


「付いて来たらあかんて言うたやろ。」


ヒロシが怒鳴って歩き始めたがどうやら効果は無さそうだ。


 ヒロシが市場で食べ物を選んでいると、ライナが横に来た。


「私も子供たちに食べ物を買うわ。」

「それやったら、かさ張らへん小さいものがええで。」


結局いっしょにトンブの入り口まで行った。


「ライナはここまでや。食べ物はオレが持って行ったげる。今度こそ絶対に付いて来たらあかんで。」


そう言ってヒロシは路地の中へと足を踏み入れた。

しばらくして後ろを見ると、やはりライナが付いて来ている。

ヒロシは諦めた。離れて歩くよりいっしょに歩く方がましだろう。

二人は肩を並べて路地を歩いた。

その日はサリも家に居てヒロシたちを見ると驚いたような顔をして言った。


「あら、今日はお嬢さんもいっしょなのかい?」


とヒロシの方に問いたげに顔を向けた。


「妹です。」


思わずヒロシが言うとライナは少し不服そうな顔をしてヒロシの顔を見たが、すぐに


「ライナです。」

と答えた。


「いつもヒロシには助けてもらってありがたいんだよ。今日は妹さんもいっしょに来てもらってありがとう。」


持ってきた食べ物をあげると子供たちはむしゃむしゃと食べ始めた。


「サリさんも食べてな。」

とヒロシが言うと


「ええ、また後で貰うわ。」

といつものように答えた。


 食べ終わった子供たちにライナが話し掛けると、子供たちは嬉しそうに答えた。

しばらくすると子供たちはすっかりライナになついたようだ。


 それからしばらく、港へ行く傍ら時々ライナといっしょにサリの家を訪ねた。

今では子供たちはヒロシよりもライナによくなついているようだ。

ライナも子供の扱いに慣れているわけではないだろうに上手いものだ。少し嫉妬心抱いてしまう程だ。

しかし、ライナと子供たちが楽しそうに話しているのを見ると、ヒロシの胸に何か暖かいものがこみ上げて来て、居場所を見つけたように感じたが、もちろんそれが仮初めのものであることはヒロシも十分理解していた。


 日本人たちの船に通い、彼等と喋り、市場に買い物に行き、日本食をご馳走になり、一カ月程経って船の修理もほぼ終わりに近づいたころ政吉がヒロシに尋ねた。


「船の修理が終わったら俺たちは日の本に帰るけど、お前はどうする?いっしょに帰るか?まあ、いっしょに帰るったって、本当に日の本に帰り着けるかどうかは分かんねえけどな。その辺はお前もここまで来たんだから分かってるだろうけど。」

「そうやなあ、そうしようかなあ。ちょっと考えてみるわ。」

「でも、お前、ここに仏教の勉強しに来たんだろう?本当にしてるのかい?毎日ここに来て、勉強なんかしてるようにみえねえけどなあ。勉強はもういいのかい?」

「いやあ、勉強はしてるで。でもちょっと思ってたんと違うねんけどなあ。ただ、何でもマジャパヒトが攻めて来るって噂があるねん。もしそうやったら、その前に逃げ出した方が良さそうやし。」

「マジャパヒト?何だいそれ?ジャワの方にある国かい?聞いたことはあるけど。それが攻めて来るのか?くわばら、くわばら。そんなのが攻めて来る前にさっさと逃げ出しちまおう。」


ヒロシは考えた。たしかにここに居てもこれから先どうなるか分からないが、かといって、日本に帰ると元の時代に帰る道が閉ざされてしまうような気がする。

ここに居れば、そしてあの場所に行けばいつか帰れるかもしれない。

そういえば、ヒロシは最近あの場所にはほとんど行っていない。あきらめてしまったのか?いや、何とかして元の時代に戻りたい。ヒロシはそう思った。


「まあ、考えておきな。もう日の本に帰れなくかもしれないぜ。」



3、マジャパヒト


 それからしばらく時が流れ、日本人たちも出発する準備が整ってきた。

持って来たものをこちらの物と交換し、食料を仕入れた。


 そんなある日、衝撃的な知らせが届いた。

マジャパヒトの船とシュリービジャヤの船が沖合で衝突したというのだ。

何とかシュリービジャヤがマジャパヒトの船を撃退したということだが、マジャパヒトの脅威が目の前に迫ってきているのだ。

海上戦ではまだシュリービジャヤが幾分かの優位性は保っているようだが、マジャパヒトの船は対岸のバンカ島の東側に退却して様子を伺っているようだ。

一説では次は地上から攻めて来るとの噂もあるそうで、既にスマトラ島の東の方に上陸したという話もある。もしそうならぐずぐずはしていられない。


 ヒロシは港へ行ってみると当たりはざわめいていた。日本の船の前には日本人たちが出ていてヒロシの顔を見ると待ちわびたように話し掛けて来た。


「いったいどうしたんだ?なんだかみんな浮足立ってるけど。」

「沖でマジャパヒトとの海戦があったみたいや。なんとか退けたけど、あいつらまだ島の向こう側に居るみたいや。」

「そりゃ大変だ。食料をもっと買って、早いことここを出ないと。しかし、奴らの船が沖合にまだ居るんなら、うっかり出ていくと危ねえな。どうしたらいいだろうな。どっちにしても、お前もいっしょに行くなら用意して来い!ぐずぐずしてると置いていくぞ。」


 それから数日、町は奇妙な静けさに包まれた。

まるで蛇ににらまれたカエルとでもいようか、逃れようのない大きなものの前で自らの無力さに身動きできなっているようでもあった。


 そして、ついにその日が来た。町中が騒めき始めた。

ヒロシが家に帰るとアリエフとライナと母さんが奥の部屋で固まっていた。


「ヒロシ、どこに行ってたの?マジャパヒトが攻めて来るって。」

ライナが悲壮な声で言った。


「シュリービジャヤ軍は闘ってないのか?」

「それが、負けたんだって。マジャパヒトがそこまで来てるのよ。」

「お父さんとウングルは?」

「宮殿に行ってる。」

「で?どうするんや。」

「お父さんが帰ってくるまで待ってる。」


 家の周りには逃げ出す人たちもいる。

さあ、どうしたものか?ヒロシは考えた。

今すぐ、港へ行って日本人たちと逃げるか?

しかし、逃げるといってもマジャパヒトの船が沖合にいるのじゃ、とても安全とは言えない。

最後はシュリービジャヤが負けるにしても、今どうするのが安全なのかは分からない。

それに、今まで世話になっていて自分だけ逃げだすわけにもいかない。

兎に角、親父さんが帰って来るのを待って、どういう情勢か聞こう。それからでも遅くないだろう。


 その日は親父さんもウングルも帰って来ず、不安で長い夜を迎えた。


「どうして今まで幸せに暮らしてきたのにこんなことになるのかねえ?」

お母さんが涙声で言う。


「大丈夫よ、お母さん。シュリービジャヤが追い返してくれるわよ。」

ライナが気丈にお母さんをなだめている。


「もう寝た方がいいよ。ライナ、お前も少しは寝ろ。明日はどんな日が待ってるか分からねえぞ。」

いつもはまだ子供っぽいアリエフが兄貴らしく言う。


「で、ヒロシお前はどうする?あの日本人たちと逃げないのか?そうしたけりゃあ、そうすればいいんだぜ。」

「海に逃げても安全とは思われへんしな。親父さんたちが帰って来るのん待つわ。」


結局、一睡もしないまま朝を迎えた。まだ夜が明けきらぬころウングルが一人で帰ってきた。


「お父さんは?」

とライナ。

「父さんは宮殿で王子のそばに居る。オレもすぐに帰る。お前たちは逃げろ。ここにいちゃあ危ない。港へ行って船で逃げろ。」

「船って、どの船でだよ。」

「どの船でもいい。兎に角乗れる船に乗って海に逃げるるんだ。」

「海は危ないんじゃあないのか?」

「ここはもっと危ない。海に逃げろ。オレはこれから帰る。」

「大丈夫なの?」

「王子をお守りするのがオレたちの仕事だ。」

「王子さんは逃げないの?」

「そういうことになると思う。お前たちはお前たちで逃げろ。アリエフ、二人を頼む。」

ウングルはそう言って剣を一つアリエフに渡した。


「分かった。ヒロシ、お前も自分は自分で守れ。」

そう言って、もう一本を剣をヒロシに差し出した。


剣など使ったことがない。ヒロシが躊躇していると


「兎に角、持って行け。」


そう言って持たされた。


「任せとけ!二人はオレが守る。兄貴も死ぬんじゃないぞ。」


今日は、アリエフが頼もしく見える。


ウングルが出て行った後、家にあった食料品や、衣類などを持って家を出た。

シュリービジャヤがいつか滅びることは知っていたが、こんなに急に危機が迫って来るとはヒロシにも予想外だった。

外には荷物を持った人々が思い思いの方角に歩いていて、みんなが港を目指しているようではなかった。


「あの人達はどこへ行くんだろう?」

ヒロシは聞いてみた。


「さあ、知らん。兎に角、俺たちは港へ逃げよう。兄貴が言ったことに間違いはない。」


ヒロシたちは港を目指して歩き始めた。手に持った荷物と剣が重い。

特に剣はこれが人を殺す道具かと思うと実際より重く感じられる。

その時、トンブに居る子供たちの顔がヒロシの目に浮かんだ。こ

のまま逃げていいのか?立ち止まってヒロシは言った。


「ちょっと、行くとここがある。先に行っといて、すぐに追いつくから。」


ライナが言った。

「何言ってるのよ。まさかあそこに行く気なの?今ごろ行ってももう居ないわよ。それに今あんなところに行ったらどうなるか分からないわ。あの子たちはあの子たちで何とかするわよ。いっしょに逃げよ。」

「ごめん、すぐに追いつくから。」

そう言ってヒロシは走り出した。


「待ってよ!!」


ライナの声を後にヒロシは走り続けた。

トンブに近づくとそこは混乱の極みだった。

多くの人々がそれぞれに荷物を持って勝手な方向に歩いていて、まっすぐ歩くことが出来ない。

トンブの中に入ると混乱などというようなものではなくパニック状態だった。

何とかサリたちの家に辿りつくと、彼女たちはまだ家に居た。


「居たのか?早く逃げないと。」

ヒロシが飛び込んで言うと


「ヒロシ、来てくれたのたのかい?」

と驚いた。


「さあ、逃げよう。早く!!」

「逃げるってどこへ?どうしたらいいか分からないんだよ。」

「港に逃げるんや。兎に角早く!!」


ヒロシは上の子を、サリが下の子を背負って外へ出た。急ぎたくとも急げない。

何とかトンブの外に出てようやく走り始めた。

家から港へ向かう道からそれ程遠回りをしていないので、お母さんの足を考えるとそのうち追いつけるだろう。

しばらくするとサリが立ち止まった。肩で息をしている。

下の子をヒロシが引き取り、上の子は歩かせた。

港が近づくにつれ人が増えてきた。


港の近くの浜辺を歩いていると前にアリエフ達が見えた。

お袋さんが座り込んでいる。ヒロシが近づくと


「おおヒロシ、いいところに来た。母さんが歩けないって言うんだ。」

「ライナ、この子を頼む。」


と子供をライナに託すと、アリエフと二人でお袋さんを何とか立ち上がらせることができた。


「大丈夫ですよ、ゆっくり歩いたらいいんだから。」

とヒロシ


「そうだよ、港はもう少しだ。」

とアリエフ。


しばらく歩いていると後ろから20名ほどの軍人の群れが近づいて来た。

よく見ると親父さんとウングルも居る。どうやら、王子とその家族もいっしょのようだ。

ヒロシたちを見ると親父さんが言った。


「なんだお前たち、まだこんなところに居るのか。早く逃げろ。」


どうやら王は今、前線で戦っていて、親父さんたちは王子とその家族を安全な場所へ移すことらしい。

武装集団といっしょになって走っていると、遠方からマジャパヒト軍が迫って来ているのかどよめきが聞こえる。

そして突然、矢が雨のように飛んできた。ヒロシたちは必至で逃げた。

と、一本の矢が集団の後方にいた親父さんの背中に命中し、親父さんは砂に顔をぶつけるように倒れた。


「父さん!!。」


ウングルとアリエフが飛んで行き、続いてライナとお袋さんか駆け寄った。

親父さんの背中からは血が噴き出している。親父さんは立とうとしたが、倒れてしまった。


「オレはいい。後から行くからウングル、お前は王子をお守りしろ!」

「何言ってるんだ。いっしょに逃げよう!!」

「ダメだ!!。お前の務めは何だ?王子をお守りするのが務めだ。オレの分までお守りしろ。いいか。王子をお守りするんだ。さあ、早く行け!」


ウングルは躊躇っていたら親父が怒鳴った。


「オレはオレで逃げる。だから早く行け!王子に何かあったらどうするんだ、。早く行け!!」


親父さんの言葉に促されるようにウングルは立ち上がり


「アリエフ。後は頼んだ!」


そういうと後を見ずに駆け出した。

敵の声が近くまで迫ってきている。


「お前たちももう行け。」

「オレが抱えるから。」


アリエフがそう言って肩に手を回したが、親父さんは払いのけた。

矢がまた飛んで来た。


「母さんを頼む。行け!!オレは軍人だ。一人で何とかする。兎に角母さんとライナを頼む。ヒロシ、お前もいっしょに行ってやってくれ。」


敵の声と矢にせかされるようにアリエフとライナは立ち上がった。お袋さんは立ち上がろうとしなかったが、二人が両腕を抱えて立ち上がらせた。

七人は親父さんを後にして歩き出した。後方では戦闘が行われているようだ。

振り向くと後方に火の手が上がっている。都が燃え始めている。

港では既に思い思いに大勢の人が船に乗り込んでいて、出て行く船もある。


既に近くの船は人でいっぱいだった。


「そうだ。ワコウの船に乗せてもらおう!!」

とヒロシが言った。


「乗せてもらえるのか?」

「分からん。兎に角行ってみよう!」


ワコウの船はまだいつものところに在り、政吉が表に居た。


「おお、ヒロシ、来たか。早く乗れ!」

「この人達も乗せてくれるか?」


政吉はじろりとアリエフたちの顔を見た後言った。


「いいけど、俺たちはどこへ行くか分からないぞ。」

「直接、日本に向かうのか?」

「いや、一隻じゃあ危ないからしばらく船団といっしょに逃げる。」

「この人達はワに帰るんじゃあ、ないのか?」

とアリエフが聞いた。


「しばらくは船団といっしょに逃げるそうだ。後のことは後で考えればいい。兎に角今は早くここを出よう!」


政吉が言った。

「もう出るぞ。早くしろ。そこまで来てるぞ。」

「早く乗ろう!」


ヒロシに促されるままに六人はワコウに船に乗り込んだ。

船はすぐに出帆した。マジャパヒト軍の放った矢が飛んでくる。


「中に入って戸を閉めろ。」

「父さんはどうなるの?」


ライナが訴えるように問いかけた。

アリエフはしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。


「父さんは大丈夫だ。自分で何とかするだろう。信じよう。」

沈黙が四人を支配した。


港を出ると船は少し揺れ始めた。


「揺れるから、何かにつかまっていな!」


周りには何十捜もの船がひしめいており、日本人の船もその船団の中を移動している。

船団はスマトラ島を左に見て北に進んでいるようだ。右手に見えるのはバンカ島だろう。

マジャパヒトの船はバンカ島の東側に陣取っているらしいが、スマトラ島とバンカ島との水道を抜けたとたん襲ってくるということはないのだろうか?


ヒロシは船の壁を背に座り込んだ。みんなそれぞれに座っている。

いったいどうしてこういうことになったのだろう?

ヒロシは考えた。日本にいた時は普通の大学生だった。

インドネシア語を専攻し、インドネシアの歴史に興味を持って調べ始めた。

やや、本流からは外れていたが、それでも教室に通いクラブ活動にも励んだし、アルバイトもしたし、ガールフレンドもいた。

命の危険を感じるようなことはさらさら無かった。


シュリービジャヤ王国が栄えたであろう場所を見てみたいなど、大した計画性もなく来てみたがこんなことに巻き込まれようとは。

まずは、この危機を乗り切れたら、どうするかだ。

ワコウ船に乗って日本に帰るか、それともここに残るか?

いや、そんな選択肢はあるのだろうか?だいたいこの人達が受け入れてくれるのか?

いったい自分に何ができるのか?

パレンバンを離れた今、もとの世界に戻る道も遠のいた。

だが、知り合いも居ないし、帰るところもない室町時代の日本に帰って生きていけるのだろうか?

結論の出ない考え事を頭の中で巡らせていると、ライナが歩いて来て横に座った。


「何、考えてるの?」

「これからどうなるんかな?とか」

「もし逃げられたら、日本に帰るの?」

「今は何も考えられへん。どうしたらええのんか、分かれへん。」

「私たちといっしょに逃げない?」


ヒロシが黙っていると、ライナは続けた。


「そうよね。日本に帰るのが一番よね。帰ったら家もあるし家族もいるんだものね。」

「いや、実はそうでもないねん。もう帰る家も村も無いし、家族もおれへん。」

「えっ、そうなの?」

ライナは黙った。


「うまいこと説明でけへんけど、帰る場所はもうないねん。」

「じゃあ、私たちといっしょに逃げましょうよ。」


ライナの汗の臭いがかすかに漂ってくる。

そうだな、このままいっしょに逃げてライナといっしょに生きていくか。

一瞬そう思って思わず頭を振った。


「せやけど、いっしょに行ってもオレに何ができる?今までみたいにただ居候してるだけというわけにいかんしなあ。」

「大丈夫よ。何とかお父さんに・・・」


と言いかけてライナは口を閉ざした。

ライナが何を考えているか分かる。

あの状態では親父さんが生き延びるのは難しいだろうなと心の中で思ったが、もちろん口には出さない。

と言って安っぽい気休めを言う気にもならない。しばらく沈黙が続いた。

ライナのすすり泣いているのが感じられる。

少し離れたところにアリエフがこちらを見て座っているが何も言わない。もし、ウングルがいたらえらいことになっているなあと思った。


船は小一時間程すると、海峡を抜けたのか広い海に出て、揺れ始めた。

今のところ、マジャパヒトの船が襲ってくる気配はない。

マジャパヒトも今更逃げて行く船団を追いかけるより、パレンバンを占領する方が先決だろう。そう思いたい。


4、希望


 2~3時間そのまま座っていたが、ヒロシはだんだん気分が悪くなってきた。

船乗りたちを除いて、船に慣れていない者たちは程度の差はあってもみんな船酔いしているようだ。

ヒロシはライナといっしょに船室の外に出てみた。


「危ないから気を付けろ。絶対どこかにつかまってろ、いつ急に揺れるか分からないぞ。」


と政吉が注意した。

周りには港を出た時よりも沢山の船が走っている。

武装船が何艘かの大きな船を取り囲むように進んでいる。

あのどれかに王子やウングルも居るのだろうなと思った。


「どこまで行くんやろ?」

とヒロシが呟く

「兄ちゃんがクダーに行くんじゃないかって。」

「クダー?」

「私もよく知らないの。昔シュリービジャヤの町だったけど、今はよその国になった遠くにある町よ。」

「北の方にあるのか?」

「北?うん、まあそうかな。」

「よその国になったんやったら簡単に入れてくれるんかいな?」

「さあ、分からない。まあ、私たちが決めることじゃあないわよ。」


揺れるのは同じだが船室に居るより外の方がましだ。

しばらく外で海を眺めていたが、幸いにしてマジャパヒトを襲ってこないようだ。


 船室に戻ると船員たちとサリが簡単な食事を用意してくれていた。ライナも手伝った。

幸いこの船には政吉さんたちが前もって準備していてくれたおかげで食料品は豊富にある。

食事の後、アリエフがやって来て隣に座った。しばらく黙っていたが、やがて話し出した。


「オレは親父を置いて逃げだしたんだ。母さんとライナを守るためだけど、本当は自分が怖かったんだ。逃げ出したかったんだ。何とかできたかもしれないのに。」


ヒロシは何も言わなかった。そして、アリエフの肩に手を回した。


「母さんとライナを助けたやんか。」


アリエフの肩が震えている。


 次の日、船団は小さな島が点在する海域を航海し始めた。

シンガポールの近くを進んで、マラッカ海峡に入るのだろうか?もちろんこの時代、シンガポールなどただの小さい漁村だろう。

海は静かになって来て、右側に大きな島影が見える。いやあれは島ではなくマレー半島だろう。

ヒロシは政吉に尋ねてみた。


「いつまで、この船団といっしょに逃げるのん?もし離れて日本に帰ろうと思てるんやったら早めに言うてな。この人達、他に船に移さなあかん。」

「分かった。だがもう少しいっしょに居るぜ。その方が安全だ。それで、お前はオレたちといっしょに帰るんだろう?」

「いや、それが考えてるねん。」

「考えるって。こいつらといっしょに行く気なのか?家に帰らないのか?」

「それが、うまいこと言われへんけど、もう家族もおれへんし、村も無いねん。もう帰るとこ無いねん。」


政吉がヒロシの顔を見た。


「そうかい。何かおかしいと思ってたけど、お前、何かしでかして逃げてきたのか?」

「別に悪いことした分けや無いで。」

「そうか、まあいい。じゃあ、オレたちといっしょにやっていくか?ちょっとばかり荒っぽいけどな。でも前にも言ったように悪いことはしてねえ。」

「ありがとう、考えとくわ。」

「ああ、そうしな。」


 船団は翌日も丸一日マラッカ海峡を北上し次の朝目が覚めると、とある漁村の沖に停泊していた

。何艘かの武装した船が上陸していくのが見える。

彼等が村の中を調べ回った後こちらに向かって合図をすると、停泊していた船が少しずつ浜に向かって進み始め、それはやがて大きな川の流れのようになっていき、そして人々が次々と上陸を始めた。

着岸できない大きい船は沖に停泊したままだ。

ワコウ船も着岸し、ヒロシたちも恐る恐る上陸した。誰かが襲ってくるような気配はない。どうやら村人は既に逃げ出したようだ。


 上陸した人々は民家に入り食べられそうなものを見つけるとむさぼるように食べ始めた。

幸いワコウ船には食料は十分にあったが、船によってはつきかけていたのだろう。

人々は思い思いに空き家になった家の中に入って行く。

ヒロシたちもその中の一軒に入いり床の上に寝転がった。ワコウたちは船の中に残った。

しばらくすると他の家族も入って来て、その晩は狭い場所を分け合って寝た。

それでも揺れない床の上で眠ることができるのがありがたかった。


 翌朝、回りの様子を見てみようと村の中を少し歩き、村はずれで遠くを見ていると1人の子供がこちらを見ているのが目に入った。

この村に住んでいた子供だろう。村を追い出されてどうしているのだろう?


 その日の午後になると、いろんな噂が流れてきた。

シュリービジャヤの王子が村の長老と話して、この村に留まる許可を得たということだった。

許可を得たというが事実上、威嚇したのだろう。村人からすれば多勢に無勢、それにシュリービジャヤの名前はここでも知られているだろう。こういうのを侵略と言うのか。

でも歴史はそんな風に作られてきたのだろう。 

重大な危機から何とか逃れたという安心感がヒロシの疑問を包み込んで、大脳の片隅に追いやった。


 ヒロシはふとある伝説を思い出した。

それはシュリービジャヤの王子がマレー半島に逃れてマラッカ王国を建国したというものだった。

あれば伝説ではなく史実だったのか?

ヒロシは歩き回って、この村の名前を知っている人がいないが探してみた。

そしてある男がその疑問に答えてくれた。


「なんでも、ここはムラカという村らしいぜ。」


ムラカ?そうか、やはりそうなのだ。ここがマラッカなのだ。

ここにマラッカ王国ができるのだ。

ということはもう逃げることも無いし、安心していいのだろう。

いやそんなに簡単ではないかもしれない。まだ一騒動も二騒動もあるかもしれないが、とのかくこの人たちがここに新しい王国を作るのだ。

新しい王国、そう考えた時先ほどの少年の顔が浮かんだ。

追い出された人たち。恨みを買えば、いずれそれは自分たちに返ってくるのだ。

それも歴史が教えてくれている。何とか共存する方法を考えなければならないと思うがヒロシには何の力もない。

何もせずただ願っているだけというのは偽善なのだろうか?

元居た世界も暴力と偽善に満ちていた。人類は進歩しなかったのだろうか?

いや、そんなに悲観的に物事を考えることはやめよう。

今、ここの人たちは新しい世界に向かって歩き出そうとしている。

その現場に立ち会えるのはワクワクすることでもある。


 やがて指令が回り始めた。

家にある種もみや種芋には絶対手を出すな。漁師は海に出ろ。猟師は野で獲物を探せ。

そして農民は耕作地に行け。


 子供たちも少しは落ち着きを取り戻しつつある。サリが言った。


「あの時ヒロシが来てくれなかったらどうなっていたか。もうどうしたらいいか分からなかったからね。」

「あの大柄の男の人はどうしたん?」

とヒロシ。


「ああ、あいつかい?あいつ人はマジャパヒトをやっつけるんだとか言って出て行ったきりだよ。」

「そうか、どこかの船の乗せてもらってここに来てるとええな。」

「さあ、どうだか。あそこに住んでた者でここに来たのはほとんどいないだろうね。わたしらなんかを乗せてくれる船なんてないからね。」


ヒロシは黙った。しばらくしてサリがアリエフの方を見て言った。


「あの子は?」

「あれは私のお兄ちゃん、アリエフって言うの。」

とライナが答えた。


「じゃあ、三人兄弟かい?」


ライナとヒロシは顔を見合わせた。


「もう1人お兄ちゃんが居るけど、ヒロシは私のお兄ちゃんじゃあないの。」

「えっ?」

サリは驚いて二人の顔を見た。


「ヒロシがかってにそんなことを言ったのよ。」

「ごめん、ついそう言うてしもてん。」

「そうかい、随分仲のいい兄妹だと思っていたんだよ。そうなのかい。じゃああんたたち夫婦ってことなのかい?」

「違う、違う。そんなんやないねん。」

ヒロシは慌てて否定した。


「まあ、どっちでもいいけど、ほんとにあんたたちは私たちにとっては女神みたいなものだったね。」

サリが言った。


あそこに住んでいた人たちも含めて船で逃げなかった人、あそこに残った人はたくさん居ただろうが、どうしているのだろうか?王さんは?とヒロシ考えた。


 夕方、ライナが庭に立っているところへヒロシが近づいて行き、横に立つと言った。


「オレ、ここに残ることにするわ。」


ライナはヒロシの顔を見て笑った。久しぶりに彼女の笑顔を見た。


「そう、良かった。ここでいっしょに頑張ろう。これからどうなるか分からないけど、そうするしかないよ。」

「うん、そうやな。オレも体力には自信があるし、力仕事なら任してくれ。」

「頼もしいわね。」


その後、2人は並んで村を歩いていろんなことを話した。

今までのこと、これからのこと。

ヒロシの家族のことや友達のことをこの世界の人にも受け入れられるように若干脚色して話した。

ただし、自分が未来から来たこと、そして、ここに新しい王国ができることを知っていることは話さなかった。これからも話さないだろう。


 その日の夜、政吉がやって来た。


「オレたち、明日ここを出て日本に帰ることにした。お前はどうするんだ?」


ヒロシは答えた。

「オレはここに残ることにするわ。政吉さんには感謝してるけど、オレはやっぱり船に乗って世界中を回るなんてでけへん。どこかに住んで暮らしたい。それにはここしかないわ。」

「そうか。分かった。それでいいんだな?これが本当に最後だぞ。」

「うん、ここで生きていく。」

「やっぱり、お前あれだな。あの娘に惚れてんだな?」

「そんなんや、ない。まあ、それもちょっとはあるかな。」


でもここでの新しい王国に掛けてみたいんや・・と心でそう思った。


 翌日、ウングルがやって来た。


「ここに居たのか。探したぞ。」


そう言いながら入って来ると、母さんとライザ、アリエフと向き合った。


「無事だったんだな。」


そう行った彼は少し間を開けて続けた。


「父さんは?」


アリエフが首を横に振った。

それを見たウングルは上を見上げた。


「すまん、オレが・・・」


アリエフが声を詰まらせた。


「いや、お前の責任じゃあない。オレの責任だ。オレがお前たちを置いて行ってしまったから。」

「兄貴は王子を守ったじゃないか。」


ウングルが母さんの前に行き肩に手を掛け、母さんはその手をぐっと握りしめた。

長い沈黙の後、ウングルが言った。

「オレはまた戻らないといけない。しばらくは王子をいっしょに居る。

アリエフ、後を頼んだぞ。この村の横に広い場所がある。オレたちはそこに新しい町を作るんだ。農地も広げ、落ち着いたらまた船で商いに出ればいい。まあ、何年掛かるか分からないけどな。」


そう言ったウングルは帰りがけにヒロシに目配せし、ヒロシはウングルについて外に出た。


「お前、これからどうするんだ?日本に帰るのか?」

「いや、ここに残ることにした。」

「そうか。で、ライナとはどうなんだ?」


ウングルはヒロシの顔を見て続けた。


「もし、お前があいつと真面目にやっていくつもりならそれでもいいと思ってる。どうなんだ?」

「うん、ライナのことは大事にする。」

「そうか。信用していいんだな?」

「ああ。」

「じゃあ、後は任せた。さっきも言ったけど、オレたちはここに新しい町を作る。お前も手伝ってくれ。」

「ああ、何でもやるで。ところで、ここに住んでた人たちはどうなるのん?」

「それも考えてる。何とかいっしょに町を作って暮らしていけたらいいと思ってる。」


そう言うとウングルは家の中の三人に声を掛けた後、出て行った。

ウングルの言葉を聞いてヒロシは少し気が楽になった。


 夕方、ワコウ船が出発する前にヒロシはライナ、アリエフといっしょに浜に行った。

浜に着くと政吉は船の前に立ちこちらを見ていた。


「ヒロシ、来たか。もう行くぜ。これで最後だな。」

「政吉さん、ありがとう。いっしょに行けたらええけど、やっぱり出来へん。いろいろお世話になりました。」

「いやあ、こっちこそ世話になった。あそこにお前が居なかったらどうなっていたか分からなかったぜ。元気でな。」


そう言うと政吉は船に飛び乗り船は静かに浜を離れた。政吉は船尾に立ってこっちを見ている。ヒロシは手を振った。


「お元気で。」

「お前もな。」


遠ざかる船はだんだん小さくなっていき、やがて見えなくなった。ヒロシはずっと船の消えた方向を見ていた。アリエフは帰っていき、ライナは残った。


「行っちゃったね・・・大丈夫?」

「ああ、行ってしもたな。でも大丈夫や。ここがオレの生きてく場所や。」


日本での事、昔の思い出を忘れよう。これからはここで生きていくことにする。

ここには輝く王国ができる。その中で自分の居場所を見つけよう。

ライナといっしょに。アリエフも居るし、ウングルも居る。

ヒロシは過去の思い出に封印をした。


 西の空では太陽がマラッカ海峡に沈みかけている。その向こうはスマトラだ。


「太陽がスマトラに沈むな。」

「もう、スマトラに帰ることはないのかなあ?」

「さあ、そやけど、ここが新しいスマトラや。ここが新しいシュリービジャヤや。ここで生きていくんや。」

「そうだね・・・」


2人はずっと沈む夕日を見ていた。

明日になると太陽はまた東の空に昇るだろう。

ここの人達の生活も始まる。そして、2人の生活も。






















































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