9.セルジュの思いと私の迷い
そうしてセルジュと二人、エミールの執務室を出る。
エミールはまた仕事に戻ってしまっていて、退室していく私たちのほうを見ようともしなかった。どうも彼は少々……かなり変わった人らしい。
扉を閉めて廊下に出るなり、セルジュがため息をつきながら謝罪してきた。
「父さんがすまない。頭は恐ろしいくらいに切れるんだが、他人への配慮に少々欠けるところがあるんだ。みんな、自分と同じくらいに物事を理解し、察することができると本気で信じている、そんな節があって」
侯爵家の跡取りの彼が、ただの旅人でしかない私に頭を下げたことに驚きながら、あわてて言葉を返す。
「いや、君が悪いんじゃないから、気にしないで。それより……これからよろしく、セルジュ。何だか、長い付き合いになりそうだから」
「長い付き合いか……そうだな。まったく、面倒なことになった。お前だってこんなところにいたくはないだろう? それも、聖女だとか何だとか、そんな肩書付きで」
「まあ、そう言われると……気軽な旅人に戻りたいなって思わなくはないけれどね。こればっかりは仕方ないから」
苦笑しながら、右手を差し出してみる。普通の貴族なら、身元不明の旅人に握手を求められたとしても無視するけれど。
「ああ、よろしく」
セルジュはためらいなく、私の手をしっかりと握り返した。
さっきの謝罪といい、この握手といい、彼もちょっと変わっているかもしれない。
けれど個人的には、そんなところは好ましく思える。だいたい私だって、人のことは言えないくらいに変わっているという自覚はある。
「では、屋敷を案内しようか。……そこまで面白いものでもないとは思うが」
そうして、セルジュの案内で屋敷の中を見て回る。一応私は身元不明の旅人ということになっているし、貴族のお屋敷なんて初めてだ! という演技をしておいたほうがいいだろうか。
わざとらしくならない程度に演技。ちょっと面倒かなと思っていたのだけれど、意外とそうでもなかった。
このマリオットの屋敷ときたら、どこもかしこも素敵だったのだ。家具も装飾も、控えめで上品で私好みで。
おかげで私は素直に、「趣味がいいんだね」「わあ、歴史を感じるよ」「とても手入れが行き届いているね」などのせりふを次々と口にすることができたのだ。演技をしなくていい、心を偽らなくていいなんて最高だ。
その言葉が効いたのか、それとも単に律義なだけなのか、セルジュは自分の私室まで見せてくれたし、厨房や倉庫なんかも案内してくれた。本当に、屋敷の隅から隅まで。
一通り屋敷の中を回った彼は、そのまま中庭に出てきていた。ここもまた、丹精込めて手入れされている。そこのベンチでのんびり日なたぼっこしたら気持ちよさそうだ。
「……そして、これからお前が暮らす離れは……あの林の中にある」
中庭の奥に見える林へ向かって、セルジュは進んでいく。彼の後に続いて、林の小道へと足を踏み入れた。
一見するとごく普通の林に見える、自然な雰囲気を残したそこには、季節ごとに様々な花が咲く木が植えられていて、かなり人の手が入っているのが分かる。ほぼ一年中何らかの花が咲くように、精いっぱい気配りがされていたのだ。
かつてバルニエの屋敷をちょくちょく抜け出して、周囲の野山を駆けめぐっていた私には、ここの林はとても美しく、繊細なもののように思えた。
私たちが歩いている小道は細く、そして前を行くセルジュの背中はやたらと大きい。そのせいで、先にあるという離れは全く見えない。冬なのに葉を落とさない木が多いせいで、なおさら。
「とはいえこの林もマリオットの屋敷の敷地内だから、めったな者が入り込んでくることはない。そこは安心してくれ」
そう説明するセルジュの声がちょっと暗い。気になるけれど、それ以上尋ねていいかためらわれる。
悩んでいるうちに、離れにたどり着いた。屋敷よりも明らかに新しい、そしてどこか優美で女性的な雰囲気の、けれどやはり趣味のいい建物に入ったその時、セルジュがぽつりとつぶやいた。
「……父さんは、母さんのことなんてどうでもいいのか」
「母さん?」
つい口を滑らせてしまい、あわてて黙る。これはきっと、私が踏み込んでいい話じゃない。
セルジュもまた、黙り込んでいた。そっと横目で様子をうかがうと、彼はとても悲しそうな顔をしていた。
彼は私の視線に気づくと、何かを言おうとして口を開きかけた。でもすぐに、また黙ってしまう。そんなことを何回か繰り返して、やがて彼は深々とため息をついた。
「……お前はここで暮らすのだし、知る権利はあるか。……中で話す。ついてきてくれ」
そうしてとぼとぼと、彼は奥に進んでいく。その大きな背中は、ひどく寂しそうだった。
南向きの、日当たりのいい部屋。大きな掃き出し窓の外には、可愛らしい花壇があった。セルジュによれば、ここは居間なのだそうだ。
「俺の母さんは、昔から体が弱かった。この離れは元々、母さんが静養するために作られた場所なんだ」
その言葉に、目を伏せる。私はエミールの後妻になるはずだった。つまりセルジュの母、エミールの最初の妻は、もう。
「だが母さんは、五年前に病で亡くなった。俺が十三の時だった」
となると、セルジュはまだ十八歳か。なんだ、私と一つしか違わないんだ。もうちょっと上だと思っていた。意外な事実に、こっそりと目を丸くする。
「それ以来ここは、誰も使わないままになっていた。ずっと、このままそっとしておかれるのだと思っていた」
絞り出すような声で、セルジュはつぶやいている。心底悲しそうな、悔しそうな声だ。
「なのに、突然客を泊めるだなんて……『聖女様』をもてなすとなれば、それなりの対応が必要だというのは分からなくもない。この場所が特別なのも事実だ。だが」
セルジュは握りこぶしを、力なくソファのひじ掛けに叩きつけた。野の花が染め付けられた可愛らしい布地にうっすらしわが寄るのを、私はただ眺めることしかできなかった。
「屋敷にだって、空いた客間はある。なのにどうして、ここなんだ……」
「あ、あの、だったら今からでも別のところに移るよ。……そもそも、別にこの屋敷に滞在しなくても、町に宿を取ればいいんだし……」
「それは無理だ。聖女の噂が広まった時、お前が町に泊まっていたらどうなるか、考えてもみろ。この町の人間は、聖女を心から信じているからな。毎年あの祭りを開き、聖女の降臨を心待ちにするほどに」
その言葉に、うっかり想像してしまった。
私が泊まる宿が、大勢の人たちに取り囲まれてしまっている様を。で、私が窓から顔でも見せようものなら、全員涙せんばかりに感激しながら歓声を上げて……駄目だ、想像しただけで寒気がする。
身震いしながら私が黙り込むと、セルジュはこちらを見ることなくため息をついた。
「何かあった時、屋敷から離れたここのほうが安全だ。それも分かっている。……けれど、やはり納得がいかない」
彼の声が、不意に弱々しくなった。
「……父さんは愛妻家だって、母さん一筋なんだって、俺はずっとそう信じてたんだぞ」
どうやらこれは私に話しかけているのではなく、独り言のようだった。だからあいづちを打つことなく、じっと続きを待つ。
「それなのに、突然親子ほども年の離れた令嬢を後妻に迎えるなんて……俺より年下の義母なんて、冗談じゃない。それだけでも認めがたいのに、母さんの思い出の場所まで……」
その言葉に、うっかり声を上げそうになる。その後妻って、私のことだ。脱走してからまだ半日も経っていないから、私が逃げたことはまだここまで伝わっていないのだろう。
……というかたぶん、いずれ「花嫁は湖に落ちた、亡骸は見つかっていない」って知らせが来るんだろうな……そう見えるように偽装したからなあ……。
その知らせを聞いた時、きっとセルジュは思い切り眉間にしわを寄せるんだろう。
もしかすると、「父さんが縁組なんてするから、こんなことになったんだ!」とか何とか叫びながら、エミールのところに殴りこんでいくかもしれない。この上なく凶悪な顔で。
セルジュと知り合ってからまだ数時間しか経っていないけど、この予想は当たっている気がする。
強引に結婚から逃げたことへの後悔が、じわじわとこみ上げてくる。今からでも私が正体を明かせば、派手な親子喧嘩は阻止できる……かもしれない。
正体を明かして、事情を説明して、エミールを説得して結婚をなかったことにして。きっとそこまでは可能だと思う。
でもそうすれば、私はまたバルニエの家に連れ戻されてしまうかもしれない。そしてまた、どこか別の家に嫁がされるかもしれない。
婚礼の馬車から脱走したことは、どうやってもばれてしまうだろう。次はきっと、絶対に逃げられないよう厳重に監視されるだろう。そうなれば、終わりだ。
逃げると決めた時に、誰かに迷惑をかけることは想定していた。それを踏み越えてなお、私は自由になると決めたのだ。
ぐっとひざの上で手を握りしめて、頭を抱えているセルジュを見る。やはり心の中でそっと謝罪した。
ごめんね、セルジュ。私やっぱり、まだ自由をあきらめたくない。だからここで、リュシアンとしてしばらく暮らす。そうしていつか、ここを出ていく。わがままだって分かってるけど、これだけは譲れないの。
窓の外には、明るい林が見えていた。冬の終わりを告げる白い花が、雪のように散っていた。