8.エミール・マリオットという人
セルジュの父親にしては若々しい。エミール・マリオットについて最初に思ったのが、そんなことだった。
初めてまみえた彼は、冷静で知的な雰囲気で、息子よりも明るい緑の目をした、たいそう目つきの鋭い男性だった。セルジュのあの目力の強さは、父親譲りだったのか。
けれどエミールの目は、とても穏やかに私を見つめている。初対面の相手に対して失礼にならない程度の関心と、そしてこちらの心の奥まで見透かすかのような強さを持った視線だった。
彼はほとんど表情を変えることなく、とても丁寧な口調で言った。
「ふむ、それでは君が、聖女なのですね。私はエミール・マリオット、ここの主です。どうぞよろしく」
「……は、はい。その、リュシアン、です。僕は自分が聖女だなんて、まずありえないと思っていますが。ただの通りすがりに過ぎませんから」
私の声は少しこわばっていたけれど、領主と面会して緊張しているせいだと思ってもらえるだろう。……エミールがさらに探るような目をしているように見えるのは、気のせいだろうか。
「そうですか。それでは、聞かせてもらえませんか。君がここに来ることになった、そのいきさつについて」
エミールの声はやはり淡々としていたし、見事なまでの無表情だったけれど、同時にどことなく落ち着くものが感じられた。目つきが鋭くて不機嫌そうなセルジュになぜか親近感を覚えてしまうのと、同じようなものなのかもしれない。
この親子は、お世辞にも愛想がいいとは言えない。でもなぜか他人の信頼を得ることができる、そういった何かを持っている。
そんなことをこっそりと考えながら、セルジュに話したのと同じことを繰り返す。
自分はただ気ままにふらふらしていただけで、あの祭りの舞台に姿を現すことになったのは本当にただの偶然に過ぎないのだと、こまめに強調しながら。
それからセルジュが話し始めた。民たちがどれほど大騒ぎしたのか、大喜びで私を迎え入れたのか。そして私が聖女か否かの判断を仰ぐために、みなに口止めして私をここに連れてきたということも。
そうして私たちの話を一通り聞き終えたエミールは、何やら真剣に考え込んでいるようだった。
年相応の、あるいはそれ以上の落ち着きと頼もしさを備えたその表情を見ながら、こっそりと頭の中で別のことを考える。
彼は、どうして私のことを後妻に迎えようとしようとしたのだろう。
白状すると、今まではただの色ボケ親父が妻に先立たれて寂しくなって、若い嫁を求めていたのだとばかり思っていた。
けれどエミールは、そんな人物のようには全く、これっぽっちも見えなかった。だからきっと何か、別の理由があるのだと思う。
あんなに一生懸命に、結婚から逃げなくてもよかったのかもしれないな。ふと浮かんできたそんな考えを、力いっぱい蹴り飛ばす。
エミールは思ったほど悪い人間ではなさそうだ。反乱のために人を集めているという噂についても、今のところは疑問符がついている。
けれど、私は誰とも結婚するつもりなんてないのだ。それも、あの父が勝手に決めた相手となんて。
だいたいエミールに嫁いでいたら、もれなくセルジュが義理の息子だ。自分より年上っぽい義理の息子なんて、どうすればいいのか分からない。
ため息を噛み殺したその時、エミールがおもむろに口を開いた。
「リュシアン君、といいましたか。しばらくの間、ここで暮らしてはもらえませんか」
嫌な予感が、的中した。
聖女という存在がここの人たちにとって、重要な意味を持つ存在だということは、あの祭りの場にいた人たちの騒ぎっぷりで何となく察していた。
だから私が聖女ではないと理解してもらえなければ、間違いなくイグリーズに留まるように言われてしまうだろうということにも気づいていた。
ああもう、だからさっきから必死に、ただの偶然だと強調していたのに。
「君は旅人なのでしょう? 特に当てがある旅でもないと、そうも言っていましたね。でしたら、しばらくここに留まっていても構わないのでは?」
「それはまあ、そう……ですが」
構わないなんてことない、大いに構う、早くどこか遠くに行きたい。そんな本音をのみ込んで、ためらいがちに答える。
というか、彼が私をここに留めようとする、その理由を知りたいのだけれど。まさか彼も、私が聖女だなんていうありえない話を信じてしまったのだろうか。まさか。
「父さん、リュシアンが困っているだろう。言葉が足りないのは父さんの悪い癖だ。普通の人間は、説明されないと分からない。俺も含めて」
困り果てていると、セルジュが口を挟んでくれた。またしても若干いらだった声ではあるけれど、私と話していた時よりもほんの少し幼く聞こえるのは気のせいかな。
「彼は、どうして自分が引き留められることになるのか分かっていない。だいたい彼は、本当に聖女なのか?」
その問いに、エミールが答えた。とても静かに、よどみなく。
「祭りの場にいた民たちはみな、聖女が降臨したと信じて疑っていません。セルジュが口止めをしたようですが、いずれはどこからか情報がもれてしまいます」
「それは、確かに……」
気まずそうな声でつぶやくセルジュに目をやって、エミールはさらに言葉を続けた。なんだか、ゆったりとした川の流れを思い出させるような話しぶりだった。
「そして聖女の噂は、じきにイグリーズ中に広がるでしょう。信心深い民たちは、その存在に救いを見出します。……このレシタル王国がこうも不安定なこのご時世では、なおのこと」
「でも、僕は聖女なんかではありません。救いだなんて言われても、何もできませんよ?」
「君が聖女であろうとなかろうと、関係ないのですよ。重要なのは『聖女が降臨した』と、民がそう信じるだろうということだけなのです」
私の反論をあっさりと封じて、エミールは一度言葉を切った。
「……しかしその噂が広まった時に、君が既にこの地を去ってしまっていたら、民はどう思うでしょうか? 聖女は我らを見放したもうたと、そう感じてしまうかもしれません」
「……それは、困る」
私より先に状況を理解したらしいセルジュが、低くうなるような声でつぶやいた。エミールはゆったりとうなずいて、また私をまっすぐに見つめる。
「ですからしばらくの間、君にはここにいてもらいたいのです。私の客人として、可能な限りのもてなしをすると約束しましょう。どうか、お願いできませんか?」
淡々とした彼の声に、ほんの少しせっぱつまった響きが混ざり込んでいるような気がした。
さすがに、ここまで言われて断る訳にはいかない。本音を言えば逃げたいけれど、ここで逃げたら人でなしだ。
「……町の人たちのため、ですか。そうですね、どのみち僕は、当てのない旅の途中ですし。分かりました。これからしばらく、よろしくお願いします」
そう神妙に答えながらも、心の中だけで叫ぶ。
分かりたくなかった! 自由を求めて飛び出したのに、結局不自由になってしまった! しかも、エミール・マリオットのところに滞在するなんて!
エミールは私のそんな葛藤に気づいているのかいないのか、かすかに笑みのようなものを浮かべてうなずいた。
「ありがとうございます、リュシアン君。分からないことは、セルジュに聞いてください。セルジュ、彼に屋敷を案内してやってください。離れを、彼に使ってもらいましょう」
離れ。その言葉を聞いた時、セルジュが一瞬肩をこわばらせたように見えた。けれど彼は何も言わず、ぎこちなくうなずくだけだった。