7.たちの悪い偶然
エミール・マリオット。
ついさっき、私はその名前から逃げ出してきた。自由になるために。
崖を滑り降り、洞窟を抜けて、祭りの舞台のど真ん中に飛び出して。
セルジュに連れられて領主のもとに向かうことにはなったけれど、それは私が聖女だとか、そういう話をするためであって。
正直、もう逃げ切れたとばかり思っていた。彼の名を半ば忘れかけるくらいには、油断していた。
それなのに、こんなところで彼の名前を聞くことになるなんて。
婚礼から逃げるための最高の手段だと思っていた、あの湖の洞窟。その先にある町が、よりによってエミール・マリオットが治める地だったなんて。
偶然にしては悪趣味すぎる。それとも、これは神の意志なのだろうか。何がなんでも私をエミール・マリオットと結婚させるぞ、という。
いやいや、私は神なんて信じていない。もしいたとしても、こんな善良な乙女にこんな嫌がらせをするほど性格が悪いはずがない。
つまりこれは、ただの偶然だ。最悪の偶然だけど。
ものすごい勢いで乱れ打つ心臓をなだめつつ、必死に考えをめぐらせる。
今からでも逃げられないかな。駄目だ、いい言い訳が思い浮かばない。
だとしたら、エミール・マリオットに会うしかないのだろうか。私がリュシエンヌ・バルニエだとばれなければ、何とかなるだろうか。
「おい、どうしたリュシアン。顔色が悪いぞ」
「……ううん、なんともない。ただ、領主様と会うんだなって思ったら、ちょっと緊張してきただけだよ」
緊張しているのは確かなので、怪しまれずに済んだ。ほっと息を吐きながら、どんどん近づいてくるマリオットの屋敷を見つめる。
ふと、あることに気づいた。マリオット侯爵はこっそりと人を集めているのだと、ルスタの町ではそう噂されていた。たぶん、レシタル王に反乱を起こすために。
それにしては、彼のおひざ元であるイグリーズの町はあまりにも平和そのものだったのだ。
民がぴりぴりしているルスタの町に比べて、ここはみな豊かそうで、笑顔にあふれていた。この町を治めているのはいい領主なんだろうなあ、と一目で分かる状況だった。うちの父と違って。
これだけ民を幸せにできる領主が、その幸せを危険にさらしてまで反乱なんてくわだてるだろうか。そしてそもそも、こんなのどかな町にどうしてあんな噂が立ったのか。
分からない。根も葉もない噂だと言ったらそれまでなのだけれど、どうにも何か、隠れた事情があるような気がしてならない。
考え込んでいるうちに、ついつい足が止まってしまっていたらしい。セルジュが身をかがめ、私の顔をのぞき込んできた。
眉間にくっきりとしわを刻んで、おそるおそる声をかけてくる。
「本当に大丈夫か。さっきから顔がおかしいぞ」
「考え事をしていただけだよ。ところで、『顔がおかしい』ってどういう意味なのかな」
「そのままの意味だ。さっきからはっとしたり微笑んだり顔をしかめたり、人間とはこうも様々な顔ができるのだなと、感心していた」
「君の言いたいことは分かった。でももう少し、言い方ってものがあると思うよ。いずれ君は父親の跡を継いで侯爵になるんだろう? だったら、他人との接し方についても気をつけたほうがいいんじゃないか」
そう指摘すると、セルジュはものすごく嫌そうな顔をした。彼に出会ってから、一番凶悪な顔になっている。
怖いには怖いけれど、森でクマに出くわした時よりは怖くない。でもマリオットの屋敷の門番が、ちょっとおびえているのが遠くに見えた。
「……あのさ。顔、怖いよ」
小声で告げると、セルジュがはっと真顔になって額に手を当て、それから深々と息を吐いた。
「すまない。だが、父の話となるとどうしても、心穏やかでいられなくてな……できれば、その話題は控えてもらえると助かる」
どうも、セルジュのほうにも色々事情があるらしい。自分でも単純だとは思うけれど、ちょっと彼に親近感がわいてしまった。私も、あの駄目父には思うところが山ほどあるし。
ひとまず気を取り直して、また歩き出す。マリオットの屋敷のすぐ前までたどり着くと、さっきセルジュを見ておびえていた門番がきびきびとした動きで門を開けてくれた。
門番は、私に親しげに会釈してきた。その目に浮かんでいるのは、もしかして尊敬かな。セルジュのあの目つきにひるまないなんて、といったところだろうか。
こんな気の弱い人物が門番を務めているとは、イグリーズはそこまで平和なのだろうか。あるいは、ここの主であるエミール・マリオットがそれだけ寛大なのか。
どうにも疑問ばかりが増えていく中、私たちはいよいよマリオットの屋敷の敷地内に足を踏み入れた。
とっても緊張する。ここに、私の夫になっていたかもしれない人がいる。
私が乗っていたあの馬車には、嫁入り道具として婚姻許可証も積まれていた。
あれを持って彼のところに行き、二人一緒にサインをしたら、私たちは正式な夫婦になっていたのだ。……まさかこんな形で、ここに来ることになるなんて。
ちょっぴり後ろめたいような思いを抱えて、ゆっくりと進む。けれどそんな思いも、長続きはしなかった。
花盛りの、趣味のいい庭。歴史を感じさせる、手入れの行き届いた屋敷。正直、かなり素敵だった。生まれ育ったバルニエの屋敷より、ずっとずっと。
そうやって廊下を歩いていたら、仕事の途中らしいメイドたちと行き合った。彼女たちはすっと壁際に退いて、品よく頭を下げている。とてもしつけの行き届いた、優雅な動きだ。
……やっぱりここって、実はいいところだったんじゃ……あの結婚から、ここまで必死になって逃げなくてもよかったんじゃ……。
そんな考えがふと浮かんで、あわてて頭を振る。余計な考えを、頭から追い出すように。
私は自由になりたかった。バルニエの家から、貴族の令嬢であるという立場から。だから私は、このリュシアンという別の自分を作り上げたのだ。
私は縛られたくなかった。お母様を一度は不幸のどん底に追い込んだ、結婚というものに。だから私は、父が押し付けてきた結婚から全力で逃げ出した。
今さら、そんな自分の行いが間違っていたなんて認めたくない。今は、まだ。
「リュシアン、着いたぞ。父さんの執務室だ」
セルジュの声に、我に返る。いつの間にか私たちは、豪華な扉の前にたどり着いていた。
いよいよだ。いよいよ、エミール・マリオットと顔を合わせることになる。会うこともないだろうと思っていた相手との、初の顔合わせだ。彼の顔を見てみたいような、絶対に見たくないような。
「父さん、俺だ」
セルジュがぶっきらぼうな物言いで扉を叩く。と、彼は中からの返事を待つことなく扉を開けた。そのままずかずかと部屋に入っていってしまう。
え、それでいいの? と思いつつ、急いでその後を追いかけた。
室内は、意外に質素だった。飾り物のたぐいはあまりなく、代わりに大きな本棚が壁際にずらりと並んでいる。
その本棚に囲まれるようにして、大きな机が置かれている。その上に、大量の書類が山を作っていた。
そしてその大机で、男性が淡々と書き物をしている。彼がエミール・マリオットだろう。下を向いているせいで、落ち着いた栗色の髪をしていること以外、何も分からない。
手を止めることなく、そして顔を上げることもなく、彼は口を開いた。深く豊かな響きの声だった。
「セルジュ、私が返事をするまで待っていてくださいといつも言っているでしょう。仕事の途中なのですから」
「どのみち父さんは仕事を止めないから、どちらでも同じだろう」
「ふむ、言われてみれば、確かにそうですね。それで、何の用でしょうか。どうやらどなたかを連れてきているようですが」
エミールはやはり顔を上げることなく、淡々と尋ねている。私の存在に気づかれていると思った拍子に、ぶるりと身震いしてしまった。
そんな私の動揺には気づいていないらしく、セルジュがいらだたしげに小さく息を吐き、エミールに答えた。
「……聖女が降臨したから連れてきた」
その言葉に、エミールの手が止まる。彼はすっと顔を上げた。その視線が、セルジュの隣にいる私に向けられる。
私とエミールは、そのまま無言で見つめ合っていた。