55.義父とか義母とか、仲間とか
そうして離れの居間のソファで、二人黙って寄り添う。
ふと、セルジュが身じろぎした。手を伸ばして、少し離れたサイドテーブルに置かれた紙をつかんでいる。
「結局、父さんに見事に先回りされたな。本当に、父さんは腹が立つくらい頭が回るし有能だ」
それはさっきエミールが私たちに渡した、私たちの婚姻許可証だった。
これをエミールのところに持っていって、結婚しますと宣言すれば、それで私たちは正式な夫婦だ。拍子抜けするくらいに簡単だ。障害なんて、何もない。
「そうね。求婚してはい終わり、ってくらいに、面倒事が片付いてしまっているわね」
セルジュに寄り添ったまま婚姻許可証を眺めていると、隣から小さなため息が聞こえてきた。
「求婚、か……マリオットの家では、夫となる人から妻となる人へ首飾りを贈るんだ。代々引き継がれた、古いものなんだが……さすがにもう、どこかにいってしまっただろうな」
セルジュはちょっと困ったような顔をしている。言いたいことがあるけれど言い出せない、そんな表情だ。それに、どことなく寂しそうでもある。
マリオットの者が求婚の際に、相手に渡す首飾り。それって、もしかして。
「それって、私がエミールさんに嫁ぐことになった時に、そちらから届けられてきた、あれのこと?」
彼は無言でうなずく。たぶん彼は、私が婚礼の馬車から逃げている間に、その首飾りもなくしてしまったと思っているのだろう。
ちょっと待ってて、と言って寝室に駆け込み、荷物をあさる。
私が婚礼から逃げ出したあの日、崖を滑り降りてぼろぼろになった婚礼衣装は湖に沈めてしまった。
でも首飾りだけは、大切に取っておいたのだ。いつか、どうにかして返そうと思って。
もっともエミールに返そうとしたら、そのまま持っていてください、と言われてしまったけれど。そういえばあの時、彼は二度手間がどうとか言っていたような……?
居間に戻ってきた私の手の上にあるものを見て、セルジュがばっと立ち上がる。
「それは!」
「取っておいたの。いつかどうにかしてエミールさんに返そうって、そう考えて。婚礼衣装はぼろぼろになってしまったけれど、これだけは無傷だったのよ」
セルジュがそっと、私の手を両手で包み込んだ。首飾りごと。
「……父さんも、これを母さんに渡して求婚した。お前には言えなかったが、これが失われたのだろうと思うたび、とても辛かったんだ。……取っておいてくれて、ありがとう」
泣きそうに微笑むセルジュを見ていたら、かっと頬が熱くなる。ど、どういたしましてと答えた時、ふと気づいた。
「……もしかしてエミールさんは、これを見越していたのかしら……?」
「父さんが、どうかしたのか?」
「ええ。前に、この首飾りをエミールさんに返そうとしたことがあるの。でもそうしたら『二度手間になりますから、そのまま君が持っていてください』って言われてしまって」
私の言葉に、セルジュが目を細める。わ、中々に凶悪な顔だ。
「……それは、いつ頃のことだ?」
「ええっと、確か……ああそうだわ、私があなたに正体を打ち明けにいく直前のことよ」
セルジュは深々とため息をついて、赤い髪をくしゃくしゃとかき回した。目を伏せたまま、ぶつぶつとつぶやいている。
「またしても、父さんにはお見通しだったということか……でもそれなら、リュシアンは女だって、もっと早く教えてくれてもよかったじゃないか……俺は男に惚れたのかもしれないって、かなり悩んでたんだぞ」
「えっ、そんな前から私のことを?」
思いもかけない言葉にびっくりして口を挟むと、セルジュは真っ赤になったままそっぽを向いた。
「……今のは忘れてくれ。ともかく、こうしてお互いの思いを知ることもできたし、首飾りも戻ってきた。言うことなしだ」
そのまま彼は、首飾りを私の首にかけた。それから、しっかりと抱きしめてくる。ちょっと力が強い。たぶん、照れている自分の顔を見せたくないのだろう。
照れ隠しをしようとして、結果よっぽど恥ずかしい状況になっている。そのことに気づく余裕すら、今の彼にはないのだろう。そんな不器用なところは相変わらずだ。
こっそりと微笑みながら、彼の胸にこつんと額を当てた。
「しかし、今すぐにでも夫婦になれるのだと言われても、いまいち実感がないな」
腕の力を緩めて、セルジュがぽつりとつぶやく。それは私も同じだった。
だって私たちは、つい今しがたようやっと、お互いの思いを告げることに成功したところなのだし。一緒にいる時間は長かったけれど、こんな風に甘い雰囲気になったのは初めてに近い。
「……今はひとまず、恋人同士ってとこからでどう? いきなり夫婦っていうのも、ね」
「まあな。たぶんそれくらいが、俺たちにはちょうどいいだろう」
お互い照れ屋で奥手の私たちは、そんなところで意見が一致した。
「それに、今結婚するとなるとね……ほら、今マリオットの屋敷に父が滞在してるでしょう? 父の目の前で『私たち、結婚します!』なんて言う羽目になるのは、ちょっとね……ただの意地なんだって、分かってはいるのだけど」
「……その気持ちも分かる。もっとも俺の場合は、避けて通ることはできないんだが。想像しただけで気が重い」
セルジュが私の背中に両腕を回したまま、深々とため息をつく。その吐息が、私の前髪を揺らした。
こんなに大きな体をしているのに、子供みたいにしょぼくれているのがちょっとおかしくて、つい笑ってしまう。
「エミールさん、きっと喜んでくれるでしょうし、そんなに嫌がらなくてもいいんじゃない? ……考えてみたら、彼は私の義父になるのよね。退屈しなさそう」
「断言しておくが、退屈しないなんてものじゃないぞ。子供の頃から父さんに振り回されている俺が言うんだ、間違いない。……まあ、お前がいてくれるなら、俺の苦労も減るかもな」
少々独創的なところがある変わり者のエミールと、割と常識人のセルジュ。たぶんセルジュは、昔からちょいちょい苦労してきたんだろうな。私が多少なりとも支えてあげられればいいのだけれど。
と、そこでとんでもないことに気づいてしまった。
「……ねえ、セルジュ。振り回す、で思い出したんだけど……うちの父はただの小心者だから大して問題もないし害もないの。でも、その、お母様のほうは……」
セルジュが宙を見つめたまま、ぎくりと身をこわばらせた。前に会った私のお母様、隣国ソナートの王妃のことを思い出しているのだろう。
あの時のお母様ときたら、私との再会を喜んだりセルジュをからかったりと大忙しだったし、かと思えば王妃らしいところも見せていた。
ころころと変わるお母様の表情と雰囲気に、セルジュは明らかにたじろいでいた。
私もかなりの変わり者だという自覚はあるけれど、お母様にはかなわないと思う。
「お母様は間違いなく、嬉々としてあなたのことを息子って呼ぶでしょうね……」
「……一国の王妃が、義理の母か……恐ろしい話だな」
さらに凶悪な顔でうめいているセルジュを見ていたら、勝手に頭に浮かんでしまった。彼相手に大はしゃぎする、お母様の姿が。
「あ、そういえば」
その拍子に、ふと思い出した。
「お母様ね、実際に会うよりもずっと前からあなたのことを気にしていたの。……その、私とそういう仲になるとしたら、本来結婚させられそうになってたエミールさんじゃなくて、セルジュのほうだって、そう断定してた」
「……父さんだけでなく、お前の母君までそんなことを言っていたのか。……当時の俺たちは、ただの友人同士だっただろう。あるいは、それ未満か。それなのに……」
「私もそう思ってた。あの頃の私は、聖女の騒動が落ち着いたら、ここを出ていこうって考えてたし。なのにお母様は、自分の考えに自信を持ってるようだったの」
「案外、はたから見るとそういう感じだったのかもしれないな、俺たちは」
「そうね。そういえばカゲロウのみんなも、隙あらば私たちのことを冷やかしてたし」
「カゲロウか。……あいつらは何かと手がかかったが、今回は活躍してくれたな」
しみじみとそう言ったセルジュが、ふとおかしそうに声をひそめた。
「周囲の人間の信仰心をかきたてて、聖女の力に変えていく……父さんなら、たぶん今後も同じような形で彼らを活用していくような気がするな。それこそ『聖女親衛隊』とでも名乗らせて」
「……容易に想像がついたわ。ものすごく恥ずかしいんだけど、それ」
使えるものは遠慮なく利用する、エミールはそんな人物だ。セルジュの予想は、当たるような気がしてならなかった。
「なに、その時は俺もついていてやる。聖女様の従者だか伴侶だか、まあそんな名目で。恥ずかしくなったら俺を見ていればいい」
「それはそれで、余計に噂されそうな気もするわ……」
「今さらだろう」
「そうね、今さらね」
本来の、女性の口調で、リュシアンとしてふるまっていた時と同じような気軽なお喋りをセルジュと楽しむ。それは思っていた以上に楽しい時間だった。
とんでもない偶然で彼と出会って、彼と過ごして、そしていずれは結ばれて。
たった一人を接点として、私の世界は広がっていく。エミールにイグリーズの人たち、カゲロウの若者たち。くすぐったくて、でもとっても幸せな気分だ。
「……恋愛って、素敵ね」
私の独り言に、セルジュも微笑んでうなずいていた。