52.帰ってきたところに不意打ちが
マリオットの屋敷に戻ると、一人のメイドがしずしずと近づいてきた。
「リュシアン様、セルジュ様……エミール様より、伝言を預かっています」
いったん自室に戻って身なりを整えてから、エミールの執務室に来てほしい。
ただし、私に関してはいつもの男装ではなく、女性の身なりで来てほしい、とのことだった。聖女の衣装は不要です、とも。
どういうことかなと思いつつ、言われた通りに身支度を整える。
わざわざあんな風に念を押すということは、誰か客でも来ているのかもしれない。
今の手持ちの服の中で一番上等なものを着て、髪もきっちりととかす。鏡の前で確認して、はい完了。
そうしてエミールの執務室に顔を出すと、予想外の人物がそこにいた。
「え……お父様!?」
ソファに座って、身の置き所がないといった顔で背中を丸めていたのは、なんと私の実の父親であるバルニエ伯爵だった。
私の姿を見て、父は驚きと喜びと安堵をまとめて顔に浮かべている。
その向かいでは、先に来ていたらしいセルジュがいた。何とも複雑な表情で、こちらにちらりと視線をよこしてくる。
驚きすぎて立ち尽くす私に、エミールが普段と同じ静かな声をかけてきた。
「ああ、リュシアン君。どうやら無事に、目的を達成したようですね。お疲れ様です」
「はい。で、その、エミールさん……どうしてこの人が、ここに?」
動揺していたせいか、それとも今までのわだかまりのせいか、『父』という単語を口に出すことに抵抗があった。
だからこんなぎこちない問いかけになってしまったのだけど、エミールはそこを指摘することなく答えてくれた。
「実は、君がここにいるとこっそり教えたのです。もちろん、君を連れ戻さないと約束してもらった上で」
勝手に私のことを教えたのはちょっと複雑な気分だけれど、エミールなら私の不利になるようなへまはしないだろう。
ましてや相手は、口うるさくて誇りだけは一人前、でも能力のほうは平凡そのものの父なのだから。大丈夫、どんと構えていればいい。
そう考えて、動揺を鎮めようとする。でもどうにも、うまくいかなかった。せっかく特大の一仕事を終えていい気分だったのに。
嫌な顔を隠せずにいる私に、エミールがひときわ穏やかに言った。
「バルニエ殿は、君に謝りにきたそうですよ。それと、これからのことを話したいそうです」
謝罪。今さら、何を。そう思わずにいられなかった。
父は父なりに私のことを思ってくれていたのだと、今では知っている。
父が私のために用意してくれたブローチも、いつもえり元に留めてある。それくらいには、父を受け入れる気になっていた。
でもさすがに本人を前にすると、どうしても平静ではいられなくなってしまう。
百歩譲って、父が私にしたこと――色々すっ飛ばしていきなりエミールとの結婚を決めてしまったこと――は水に流してもいい。
結果としてはいい方向に転んだし、そもそもエミールの側にも考えがあったようだし。
でも、父がお母様にしたこと――浮気したあげく、お母様を一方的に離縁したこと――はまだ許せない。
……当のお母様は驚くほど幸せになっているし、もう気にしていないとは思うけど。というか、「離縁してくれてありがとう」くらいは言いそうな気もする。
しかめ面を維持したまま、セルジュの隣にどすんと勢いよく座った。
「ふむ、リュシエンヌ君はまだ心の準備ができていないようですね。でしたらこちらを先に済ませてしまいましょう」
そんな私の様子を見て、エミールは二枚の紙、それもやけに上等な紙を手に近づいてきた。それからその一枚を、私たちの目の前の机に置く。
「これは、私たち全員がまだレシタル王国に所属していた頃に作られた書類です」
その紙には、見覚えがあった。かつて父が私に突きつけた、エミール・マリオットとリュシエンヌ・バルニエの婚姻を認めるという、レシタル王の印が押された婚姻許可証だ。
「もっとも今では、私たちにとってこれはただの紙切れでしかありません。そもそも私はリュシエンヌ君を妻として縛りつけるつもりは毛頭なく、折を見て自由にさせるつもりではありましたが」
ちょっぴりおかしそうにそう言って、エミールはまた別の紙を机に置いた。
「で、見ていただきたいのはこちらなのです」
その文面を見たとたん、私とセルジュが同時に叫ぶ。
「え、ちょっ、待って、これって」
「父さん!!」
それもまた、婚姻許可証だった。ただ、セルジュ・マリオットと、聖女リュシエンヌとの。
「アルモニカ連合国はレシタルの法には縛られてはいませんし、結婚を許可制にする必要もないと思ったのですがね。せっかくなので、作ってみることにしました。いわば、婚姻許可証の試作品ですね」
「あの、ところで、聖女……リュシエンヌって……?」
「いつまでも男装しているのも不便でしょうし、頃合いを見て『聖女の真の姿はリュシエンヌという女性である』ということを公表しようと思っているのです。もちろん、君がよければ、ですが」
「あ、はい……確かに、もう私が男装している理由もないんですよね。単に、追っ手の目をくらますためでしたし……あと、できるだけ正体を隠したかったのもありますし……でも、どちらももう関係ありませんから……」
ぽかんとしながらそう答えると、横から思いっきり動揺した叫び声が上がった。
「それはいいとして、なんで俺とリュシアンなんだ、父さん!」
「おや、ちょうどいいと思ったのですが? ふむ、どうしても嫌というのであればこれはいったん破棄して、また別の方々に協力してもらって試作品を作りましょうか」
エミールにひょうひょうとそう言われて、セルジュと二人して答えにつまる。恥ずかしいのは確かだけれど、嫌かというと、そうでもなくって……。
「俺は別に嫌では……ただ、リュシアンが困るだろう」
「ど、どうしてそこで僕に話を振るんだよ! その、僕だって、嫌だなんて言ってないからね」
びっくりした勢いで、女のなりをしているのに男言葉が出てしまう。
というかセルジュもセルジュで、私が女性の格好をしているのに、普通にこちらを見ている。彼も相当に混乱しているらしい。
そうやって騒いでいる私たちをじっと見つめてから、エミールが許可証をこちらに差し出してきた。二枚目のものを。
「でしたら、ひとまずこれは君たち二人が持っていてください。必要になったら、これで婚姻にまつわる各種手続きの練習をしてもいいかもしれませんね」
そのまま結婚式の練習とかまでやらされるんじゃないかなという気がしたけれど、口にしたら本当になりそうなので黙っておくことにした。
そうして私たちの話が一段落したことを見て取ったのか、あるいは空気が多少なりとも和んだことに気づいたのか、ずっと置物のように黙ってじっとしていた父が、おそるおそる口を開いた。
「……リュシエンヌ、私はどうしても、お前に直接謝りたかったんだ」
その言葉に、私たちは会話をやめてみんなで父を見る。父はうつむいたまま、ぼそぼそとつぶやいていた。
「……湖に身を投げて死んだとばかり思っていたお前が、ここで元気にやっていると聞かされて……どうしても、もう一度会いたくなった」
これ、どう返事しよう。父は父なりに衝撃を受けているし落ち込んでいる。でも、そもそもの原因を作ったのが誰なのかってことを考えると……ねえ。
「……お前の思いをくみとることなく、勝手に見合いや結婚を決めて、すまなかった」
父はちらりと私のほうを見て、それから深々と頭を下げた。頭がひざにつきそうになるくらいに。
わ、こんなの初めて見た。この人は昔っから横暴で、絶対に自分の間違いなんて認めなかったのに。
だから昔は、よくお母様に愚痴を聞いてもらったものだ。どう考えても私のほうが正しいのに、父が過ちを認めなくて本当に困っているのよ、と。
今の状況、お母様に話したら仰天される。絶対に。この世の終わりかってくらいに大騒ぎするに決まってる。
というか、今からでもこっそり魔法の手鏡を起動させてお母様に聞かせてやろうか。すごいことになりそうだ。
うっかりその様を想像してしまい、笑いそうになるのを必死にこらえる。
隣に座ったセルジュは私のそんな様子に気づいているようで、たしなめたものかどうしたものかと複雑な顔をしていた。それを見ていたら、余計に笑えてしまった。
仕方なく顔を伏せて、考え込んでいるふりをする。でもさすがに、肩の震えが隠せない。
父がおろおろしながら、私の名前を呼んでいる。笑うな自分、ひとまず落ち着け。
どうにかこうにか呼吸を整えて、そろそろと顔を上げる。
父のほうを見ていると見せかけて、微妙に視線をそらす。ついでに焦点もそらしながら、できるだけ平静を装って答えた。
「……そ、そうですね。お父様の気持ちも、その……分からないでもないですし? 今回だけは、水に流してあげますわ。何だかんだで今は楽しくやっておりますし、それに先日お母様と再会できて、とても気分がいいので」
私の言葉は思いっきり上から目線だったものの、父はそれに気づく余裕すらないようだった。お母様の話が出てきたことで、明らかに動揺している。
「あ、あいつは……どうしていた?」
「元気でしたわ。お父様よりもずっとずっと。可愛い子供にも恵まれて、輝かんばかりでした。私もお母様のようになりたいと、そう思えるくらいに」
「そ、そう、か……」
「あと私は、これからもここにいるつもりです。このアルモニカ連合国が落ち着くまで、やるべきことが山のようにありますから。それでは、一仕事終えたところですのでそろそろ失礼しますね。ゆっくり休みたいので」
反論を許さないぞとばかりにそう言い放って、立ち上がる。以前の父であれば、問答無用で立ちふさがり、私を言い負かすまで怒鳴り散らしていたところだ。
ところが、父は何も言わなかった。私と、それにセルジュが会釈して部屋を出るまで、ずっと。それからも。
どうしたのだろう。まさか父は本当に、性根を入れ替えて反省したのだろうか。
そんなはずはないと混乱する思いと、ほんの少しの寂しさのようなものを抱えて、それでも振り返ることなく歩き続ける。
すぐ後ろからセルジュの足音がついてきている、ただそれだけのことが私を支えてくれている、そう感じながら。