51.空の上、二人きりのお喋り
私たちが見守る中、レシタル軍はどんどん遠ざかっていった。残りの攻城用兵器も一緒に。
意識を飛ばして、また周囲を探ってみる。辺りはもうすっかり静かになっていて、砦の中とその南側にいるアルモニカ軍、それにソナート軍の気配しかしない。
どうやら、もうこれ以上不意打ちの心配はしなくてもよさそうだった。
「……うん、ようやく片がついたかな。何とかなったみたいでよかった」
「そのようだな。……しかし、なぜ俺までここにいるんだ……? 彼らの説得なら、お前一人で十分だったような……」
不意に、セルジュが首をかしげる。どうやら彼は、ようやくそのことに気づいたようだった。
なるほど、早く下ろしてほしいと主張していた割に、ちっとも抗議してこなかったのはそういうことだったのか。
「なぜって、せっかくだから巻き込んでみただけ。僕一人で悪目立ちしたくなかったし。もしかしたら、君も噂になるかもね? 聖女様の従者だとかなんだとか、そんな感じで」
あくまでもからかうような口調で、そんなことを言った。でも私の本心は、まったく別だった。
実のところ、私は怖かったのだ。これだけの大軍勢の前で空を飛んだりしたら、それこそ奇跡の存在として、国中で崇拝の対象にされるかもしれない。というか、既になりつつある気もするけれど。
そんな状況に一人で立ち向かうと考えたら、ちょっと怖気づいてしまったのだ。だから、セルジュを巻き込んだ。
何があっても彼がいてくれれば大丈夫だと、そう思えたから。二人一緒に噂になるのなら、それでいいやと思えたから。
「……俺は目立つのは嫌いなんだが……」
「奇遇だね、僕もだよ。ところでさ、さっきから一つ気になってることがあるんだけど」
つないだままの手を引き寄せて、セルジュの顔をすぐ近くで見上げる。
「さっき、僕のことを『リュシエンヌ』って呼んでなかった? こうして目立ってるだけでも不本意なのに、本名までばらされるとか、困るんだけど」
山の上で、兵器から放たれたくい。それから私を守ろうとした時、彼は確かに「危ない、リュシエンヌ」と言っていた。彼が私のことをそっちの名前で呼ぶことは珍しいので、気になっていたのだ。
「……悪かった。とっさに口から出た。というかお前が、聖女らしくしとやかに喋るから、つい、な」
申し訳なさと照れくささをまぜこぜにした顔で、セルジュはそっぽを向く。私と手をしっかりとつないだまま。
手を離したら落ちるかもしれないので仕方ないのだけれど、二人の間の距離が近いままなので、彼の照れくささがこっちにも移ってしまいそうだ。
つないだ手の温もりから意識をそらすように、大げさに肩をすくめてみせる。
「あれは演技だよ。君だって練習に付き合わされたんだし、分かってるよね。僕だってこそばゆいんだよ、あんな風に柔らかく清らかな感じで、美しく喋ってると。だからさっきは、ついいつもの話し方に戻ってしまったけど」
「……だが、今のその『お前』もまた、演技だろう?」
静かに紡がれたセルジュの言葉に、ぎくりとする。確かに、彼の言う通りだったから。
セルジュとぎこちなくなるのが嫌で、彼に女性である私を意識させたくなくて、私はリュシアンの演技を続けていたのだ。
「だって僕が女性らしくしてたら、君はろくに目も合わせてくれないじゃないか。変装して町に通ってた頃は大変だったよ」
それでもどうにかこうにか、そんな言い訳をぶつけてみる。セルジュの濃い緑の目が、揺らいでさまよい始めた。
「だ、だからそれは、お前が! ……その、だな……」
顔を赤く染めながら、セルジュは何か言おうと口をぱくぱくさせている。しかしやがて、切なげに息を吐いてまた顔をそらしてしまった。
「……屋敷に戻ったら、説明する。その、他にも言わなければならないこともあるしな」
戻ったら話す、か。前にもこんなことがあった。あれは隣国ソナートに向かう途中、レシタル王国軍の兵士に襲われた時のことだった。
無事に切り抜けられたら願いを聞いてくれないか、彼はそう言っていた。でも結局あれからずっと忙しくて、うやむやになっていた。
ティグリスおじさんに相談したら、「気長に待て」という助言をもらったので、それに従って私は黙って待つことにした。そもそも、あの時のことを蒸し返すのが気恥ずかしいというのもあったし。
セルジュは一体、どんな話をするつもりなのかな。期待と尻込みする気持ちの両方を抱えながら、どんどん遠くなっていくレシタル軍を眺めていた。
そうして、レシタル軍が十分に遠くにいってしまったのを見届けてから、私たちはようやく地上に降り立った。
空を飛ぶのも面白いけれど、やはり足の下にはしっかりとした地面があるほうが落ち着く。
そうして砦のほうに二人で歩いていたら、人の姿に戻ったティグリスおじさんと、やはり大きな長柄の斧を持ったままのグノー伯爵が、笑顔で駆け寄ってきた。
「おお、中々の大暴れじゃったな。何はともあれ、二人とも無事で何よりじゃ」
「聖女の力とは、ここまでのものだったのか……貴殿が私たちを説得しに来た時は、たいそう穏便に事を運んでくれたのだな。かたじけない」
グノー伯爵が辺りを見渡して、それから首をひねる。私の腰回りくらいありそうな、ごつい首だ。
「しかし、祈りが足りないのであれば、みなで祈ってしまえばいい、か……エミール殿は、大胆なことを考えるものだ」
その言葉に、私とセルジュが同時に苦笑した。日々エミールに振り回されている者同士、顔を見合わせながら。
ちょうどその時、たくさんの人間が砦から走り出てきた。みんな大はしゃぎで、歓声を上げている。
「聖女様! 俺たち、役に立てましたよね!」
「一生懸命祈ったんですよ!」
「私たちの叫び声は、天に届いたのですね!」
彼らの中には一応兵士のなりをしている者もいたけれど、半分以上は普段着だ。
こんな場所にはまるで似つかわしくないいでたちと表情の彼らは、かつてセルジュと私が鍛え、今はエミールの指揮下に置かれている『カゲロウの叫び声』の若者たちだ。
今回の作戦のために、エミールはマリオットの兵を出せるだけ出した。そして、グノー伯爵にも同じように、可能な限りの兵を出してもらったのだ。
戦うためではなく、祈るために。聖女の奇跡と守護を望む、そんな思いを集め、私の力とするために。
そしてここで活躍したのが、カゲロウの若者たちだった。彼らは世の乱れを嘆き、国の未来を憂いるまっすぐな心と、時として暴走しがちなほど純粋な熱意を持っていた。
彼らはその熱意をもって、グノーの兵士たちに布教して回ったのだ。
聖女様の力は本物だ、聖女様は心から平和を望んでおられる方だ。自分たちの祈りが届けば、聖女様は必ず自分たちを、そしてアルモニカ連合国を守ってくださる。
そんなことを、彼らはそれはもう熱心に語って語って語りまくったのだ。
ちなみにその作戦を実行するにあたって、カゲロウの若者たちに私があの『リュシエンヌ』なのだということはばらしてある。というか、さすがに隠すのはちょっと難しそうだったし。
奇跡を起こしてイグリーズの町を救った聖女が、かつて自分たちをみっちりと鍛えてくれた鬼教官の女性だった。その事実は、彼らにとってものすごい感動を与えたらしい。
彼らの布教っぷりは、それはもう熱烈だった。うっかりその場に出くわしてしまった私が真っ赤になってすぐに逃げ出すくらいに。
立場上彼らの話を一通り話を聞くはめになったセルジュも、平然を保とうとして失敗していた。あの時の引きつった笑顔、面白かった。
そうして、いよいよ今日という日がやってきた。私が砦の上空に打ち上げた三つの虹を見て、グノーの兵士たちも祈りだした。半信半疑ながら。
しかし私は見事に、数々の奇跡を起こしてみせた。守りの結界を発動させ、人々に声を届け、雷や炎を操り、空を飛んだ。
生まれて初めて聖女の奇跡に遭遇したグノーの兵士たちは、それこそ腰を抜かさんばかりに驚いた。
一方マリオットの兵士たちとカゲロウの若者たちは、手に手を取って大喜びしていたらしい。
「グノー伯爵、ご足労ありがとうございました。おかげで私は、存分に力を振るうことができました」
感謝の意を込めて頭を下げると、グノー伯爵も折り目正しく礼をした。
「いや、今日のできごとを目にして……貴殿らについたことが間違いではないと、確信できた。敵対する兵士すら傷つけたくはないという貴殿の意志、確かに見届けた」
「はい。そう思っていただけて嬉しいです」
そうしてグノー伯爵とがっちり握手を交わし、みんなで砦へ、そしてさらに南へと戻っていく。
途中でグノー伯爵とその兵士たちと別れ、残りのみんなでイグリーズに向かった。
私とセルジュ、ティグリスおじさん、マリオットの兵士たちにカゲロウの若者たち、そしてソナートの兵士たち。
行きの悲壮な雰囲気は、もうすっかり消え失せていた。達成感と心地よい疲労に包まれながら、みんなでのんびりと進む。
私とセルジュは馬車に乗って、その横を馬に乗ったティグリスおじさんが付き従っている。他の兵士たちとはちょっと距離があるので、いつもの口調で二人とお喋りすることにした。
「一時はどうなることかと思ったけれど、何とかなったね。あ、そうだ。あの大きなくいから守ってくれてありがとう」
「いや、そのせいで斜面を滑り落ちるはめになったしな……結局、お前の力に助けられてしまったし」
「あれは自分でも驚いたよ。まさか、あんなことまでできるなんてね」
「お主たち二人が空に浮かび上がった時は、さすがのわしも驚いたぞ」
「気づいたんだけど、イグリーズの町中くらいなら飛べそうな気がする。あそこ、聖女印の効果範囲内だし」
「……できれば、それはやめてもらえるとありがたい。町の上を聖女が飛び回っているなど……噂に尾ひれがついたら、大変なことになりそうだ」
「確かにのう。……わしも一度、飛んでみたいと思わなくもないが」
「だったらおじさんも一緒に飛ぶ? 夜中なら見つかりにくいかも」
そんなことをわいわいと話しながら進んでいるうちに、イグリーズの町が遠くに見えてきた。
ああ、やっと休める。たぶんしばらくレシタルの軍は攻めてこないだろうから、その間にゆっくりしよう。
ところが屋敷に戻ってみたら、それどころではない状況になっていた。