50.もう一つの奇跡を
私とセルジュは、滑り落ちていく。一生懸命に登った山の斜面を、勢いよく。
セルジュは私を守ろうとしているのか、しっかりと私を抱きしめている。体格差があるせいで、彼にすっぽりと包まれているみたいだ。セルジュって、こんなに大きかったんだ。
って、今はそれどころじゃない! このままだと、二人とも死んじゃう!
手を伸ばして周囲の木々をつかもうにも、落ちる勢いが激しくてうまくいかない。セルジュはセルジュで、自分と私の身を守るのに手いっぱいのようだった。
木の枝がぶつかる音、木の葉ががさがさという音、そんな音に包まれながら落ち続ける。
考えている時間はない。今はたまたま茂みや木々の上を滑り落ちているから、ちょっとしたかすり傷で済んでいる。
でもいずれ、岩場にぶち当たる。この勢いで岩場を落ちていったら、間違いなく大怪我をする。それこそ、いきなり致命傷を負う可能性だってある。
その前に、何とかしないと。どうにかして止まらないと。
「あ、そっか」
そこまで考えたところで、ようやく気がついた。聖女印からは離れてしまったけれど、この距離ならまだ聖女の力を使える。アミュレットを介したささやかなものではなく、この場にいるみんなの祈りに支えられた力が。
目を閉じて、意識を集中した。今までで一番、真剣に。そうして、急に辺りが静かになった。
「……止まっ、た……?」
そうつぶやくセルジュの声は、かすかに震えていた。
「ふう、良かった。どうにか、力が使えた。もう少し落ちた後だったら危なかったかも」
緑色の光に包まれて、私たちは宙に浮いていた。山の斜面に生えている茂みの、ほんのちょっと上に。
「そうか、お前が助けてくれたのか。……と、すまん! とっさのこととはいえ、つい!」
まだ私をきつく抱きしめていたセルジュが、顔を真っ赤にして体を離そうとする。あわてて、彼の手を両手でしっかりとつかんだ。
「あ、待って。正直、こんな力の使い方をしたのは初めてだから……離れちゃうと、うまく浮かせられないかも……手をつないでいれば、たぶん大丈夫だと思う。ほら、あの湖の洞窟みたいに」
「だ、だったらその辺で下ろしてくれ! こんなところで、いつまでも手をつないでいる訳にもいかんだろう!」
その辺って言われても、どうしたものか。ちょっと困りながら、周囲を見渡す。
結構な距離を滑り落ちてしまったけれど、それでもまだ、山のふもとまではかなりの距離がある。
その辺にセルジュを下ろしたとして、彼が偵察兵の助けもなしにふもとまでたどり着くのはちょっと難しいと思う。
それにこの近くには、足場になりそうなところがない。不安定な岩の斜面か、もっさもさの茂みか、そんなものしかない。セルジュの要望に応えるのは、ちょっと難しそうだ。
さらに周囲の様子を探りながら、考え込む。
上のほうからは、混乱した人々の声がする。さっきまで私たちと一緒にいた兵士たちの声だろう。けれどたっぷりと茂った木々が邪魔して、どうなっているのかは見えない。
「君を下ろして、また上まで飛んでいくのも面倒だし……って、あれ?」
よく見ると、レシタル軍の動きが止まっていた。さっきまで全速力で撤退しようとしていた彼らは、またこちらに向き直って整列していたのだ。
「……もしかして、さっきのって不意打ち? 撤退すると見せかけて、その隙に兵器で攻撃するっていう……」
そうつぶやいて、ふわりと浮かび上がる。セルジュとしっかり手をつないだまま、木々のこずえの高さまで上がっていった。
「おい、リュシアン。どこに行く気だ」
「上。ちょっと言ってやりたいことがあって」
セルジュが割って入ってくれなかったら、私は間違いなく死んでいた。
そのことに対するいらだちもあったけれど、それ以上に腹が立って仕方がないことがあった。
口をぎゅっと引き結んで、宙を進む。そろそろ浮いているのにも慣れてきたので、速度を上げてみた。そのまま、滑るように舞い上がる。
明らかに緊張しているセルジュに小さく笑いかけて、さらに高く飛んでいく。鳥になったような気分だった。
そのままレシタルの軍に急接近して、真上から見下ろした。同士討ちを恐れてか、あちらも何もしてこない。
まあそうだろう、ここでうっかり矢を射かけても、私がかわせばその矢は味方の上に落ちていく。さっきの攻城用兵器なんて使ったら、間違いなく大惨事だ。
今この戦場で、たぶん一番安全なのはここだろう。そして、一番レシタル軍に語りかけるのに適した場所も。
セルジュと二人、空中で寄り添うように立ったまま、遥か下にいる兵士たちに語りかける。
『あなた方はどうして、戦うのですか? こんなだまし討ちのような真似をしてまで。どなたでもいいのです、答えを聞かせてはもらえませんか?』
私の問いかけに、返事はない。小さくため息をついて、さらに言う。
『私たちは戦いを望みません。私たちが独立し、手を取り合って連合国を結成したのは、戦うことのできない、それでいて戦いによって踏みにじられる民を守るため』
そう、私たちは戦いたくないのだ。それを強調するように、声に力をこめる。
『今でこそ軍を展開させていますが、それは攻め寄せてくるあなた方を、ここで止めるため。アルモニカを守るため』
私の偽ることない本音を、ほんの少しだけ聖女らしい口調でつづっていく。
『もし私が倒れても、アルモニカは終わりません。アルモニカのみなは、私の思いを受け継いで、平和に向かって歩み続けます』
静かな、けれどほんのわずかに憤りのこもった声で、ゆったりと語りかける。遥か下でうろたえている、哀れな兵士たちに。
『あなたがたの剣は、何のためにあるのですか。誰を守り、誰と戦うためのものなのですか。それを今一度、考えてみてください』
それだけ言って、小さく息を吐く。そのまま、宙に浮かび続けた。彼らに私の言葉が少しでも届いてくれることを、ただひたすらに願いながら。
すぐに分かってもらえるとは思えない。でも、気づいてほしかった。好き勝手ばかりやって国を傾けるレシタル王に、無条件に従う必要などないのだと。
一人一人の兵士が、そんな風に自分の行いを考えてほしい。そういった小さな積み重ねから、世の中がいいほうに動いていくのだと、そう思うから。
そんなことを考えていたら、つい難しい顔をしてしまっていたらしい。セルジュが手をつないだまま、そっとこちらをのぞき込んできた。さわやかな日差しが、彼の赤い髪をきらきらと輝かせている。
「大丈夫か? やはり、敵軍のすぐ上……というのは怖いか。というか、俺も落ち着かない」
「まあ、空中に浮いているなんて、普通に生きてたらまず経験しないしね。自分でも、こんなことまでできるんだって驚いてるし」
「……これは、大丈夫なのか? その、うっかり落ちたりとかは……」
「たぶん大丈夫、だと思う」
「……頼む、そこは『大丈夫だ』と言い切ってくれ」
私たちは空中にふわふわと浮かんでいて、遥か下には敵の軍。
そんな非常識極まりない状況だというのに、気がつけば私たちは、いつもと同じようなのんびりとしたやり取りを交わしていた。
それが何だかおかしくなってしまって、ついふふと笑ってしまう。セルジュはやはり下を気にしつつも、小さく笑い返してくれた。
「……僕たちさ、出会ってからほんと色々あったよね。押しかけてきた町人たちから逃げ回ったりとか、街道で敵兵から逃げ回ったりとか。でも、いつも何とかなってきた。だから今回も、大丈夫だよ、きっと」
セルジュと話していると、こわばっていた心がほぐれてくる。この気持ちをそのままみんなに伝えたい、そんな衝動がわき起こってきた。
足元で戸惑いつつも動かないレシタル軍を見ながら、明るく呼びかけた。
『みんな、死にたくないよね? 傷つきたくないよね? 戦うのって、嫌だよね?』
アルモニカの聖女としての礼儀正しい口調ではなく、セルジュと共に過ごしてきたリュシアンとしての、軽やかな口調。その雰囲気の変わりように、レシタル軍にさらに動揺が広がった。
『だったらもう、家に帰ろうよ。怖い聖女に脅されたって言えばいい。そうして家族や友人と、ゆっくり過ごそう。楽しく、幸せに』
さっきまでの神々しい上品さをかなぐり捨てて言い放つ。まるで、友達に呼びかけているかのような親しげな声で。
『君たちに戦えって命令する人がいるのなら、誰なのか教えてよ。僕が相手になるから。全力でね。もう戦いたくない! って降参するまで、その人にたっぷりとお説教してあげる』
その言葉に、レシタル軍の兵士たちがぎこちないながらも笑みを浮かべ始めた。私の言葉を信じきれない、でももしそうなったらいいな、と思っているような、そんな笑顔だった。
明るい声で、もう一声叫ぶ。いつしかさっきまでの憤りもいらだちも、全部消え去っていた。
『僕たちと君たちは、敵じゃない。所属する国は違うけれど、みんな同じ人間で、仲間だよ!』
レシタル軍は、ざわざわしていた。ほとんどの兵士が戸惑い顔を見合わせながら、ちらちらと背後、総大将のいる方角を気にしている。いや、そのずっとずっと向こうにある王都を。
やがて、レシタル軍はまたじりじりと下がり始めた。総大将が「勝手なことをするな!」と怒鳴り散らしていたけれど、彼は護衛の兵士たちに腕をつかまれるようにして連れ出されていった。
さっきよりものんびりとした雰囲気で、レシタル軍が下がり続けていく。時折、こちらに向かってぺこりと頭を下げてくる者もいた。
私とセルジュは宙に浮かんだまま、その様を並んで見ていた。
軍隊とは思えないくらいにゆったりと、思い思いに歩いている彼らの姿は、何だかとてもすっきりしているように見えた。




