5.状況がまるで分からない
洞窟を出たところにあった、謎の木の壁。そこに空いていた穴をくぐった先にいた、着飾った人々。
彼らは今、声の限りに叫んでいた。やったあ、わあい、ひゃっほう、などと。嬉しくて嬉しくてたまらない、そんな思いに突き動かされているような叫びだった。
それだけならいいのだけれど、彼らの視線はひたすらに私に注がれている。しかも彼らは、なぜか私を聖女様とか何とか、そんな風に呼んでいる。
私は今きっちりと男装している。でも女だとばれてしまったのだろうか。まさかそんな。
戸惑いながら、辺りを見渡す。今私がいるのは、周囲よりも一段高くなった舞台のような場所だった。結構広く、バルニエの屋敷の玄関ホールくらいはあると思う。
舞台の上はたくさんの花で綺麗に飾り立てられていて、とても華やかだった。舞台の下の草原にも、たくさんテーブルが出されていて、飲み物や食べ物が並んでいるのが見える。
今しがた私が出てきた穴は、舞台の奥の壁に設けられた飾り窓だったらしい。というか私、飾り窓のすぐ前にある祭壇らしきものの上に降り立ってしまっている。
あわてて祭壇を降りると、人々が私を取り囲んだ。なおもわあわあと楽しげに叫びながら、私を拝まんばかりにしている。いや、拝んでいる人もいる。感動したのか泣き出した人まで。
どうしよう。状況がまるで分からない。とにかく一度、この人たちに落ち着いてもらわないと。
困りつつ口を開こうとした時、離れたところから声が聞こえてきた。この叫び声の中でもしっかりと聞こえてくる、鋭くて力強い声だった。
「おい、どうしたんだ。聖女がどうとか聞こえたが。何があった」
大喜びしていた人々が、ぴたりと黙ってそちらを見た。つられて私も、同じほうを見る。この舞台に続く階段を、きびきびとした足取りで誰かが昇ってきた。
燃えるような赤毛に、初夏の森のような濃い緑の目をした、すらりと背の高い青年だった。たぶん、私よりいくつか年上だろう。
意志の強そうな、中々の美男子だった。目元がくっきりした凛々しい顔立ちに、不思議なくらい視線が吸い寄せられる。
さっきの物言いといい、この気品のあるたたずまいといい、彼は貴族なのかもしれない。着ている物も、周囲の人たちより質がいい。
ただ彼は、とにかく目つきが悪かった。しかもご丁寧に、眉間にしわまで寄せている。明らかに、不機嫌そのものだった。気の弱い人間なら、ひとにらみされただけで震え上がってしまうだろう。
彼は人をかき分け、私のすぐ前までやってきた。とても背が高い。私も女性にしては背の高いほうだけれど、彼は私よりもずっと大きかった。
見上げると、彼は不機嫌な顔のままこちらを見返してくる。
しかし私の周囲の人々は、そんな彼にまったくひるんでいないようだった。浮かれた口調で、てんでに彼に話しかけている。
「聞いてくださいよ、セルジュ様!」
「最高の知らせですよ。聖女様が降臨されたんです。ほら、こちらの方です」
「ここ何十年、聖女様はおいでにならなくて……それでもこの祭りを一生懸命に続けたかいがありましたよ……死んだばあさんが聞いたら、泣いて喜びますよ……ううっ」
「ええ、ええ。そこの祭壇の飾り窓から、ふわりと降り立たれたんですよ。あの神々しいお姿、セルジュ様にも見ていただきたかった」
セルジュと呼ばれた赤毛の青年は人々の話に耳を傾けてから、きっとこちらをにらみつけた。気の弱い令嬢なら、それだけで気絶しそうな強い視線だ。
「……おい。お前、名前は」
「リュシアン。通りすがりの、ただの旅人だよ。君はセルジュ……でいいのかな」
「ああ、名乗り損ねたな。すまない。それでリュシアン、お前はどうしてここにいる。その飾り窓から現れたというのは本当か」
セルジュの声が、どんどん低くなっている。怖いなあと思いながら、できるだけいつものリュシアンらしく答える。明るく、軽く、柔らかく。
「う、うん。僕はすぐそこの洞窟が気になって、ちょっと探索してたんだ。そうして外に出ようとしたら、洞窟の前に木の壁が立ちふさがってて……仕方ないからよじ登って、そこの飾り窓をくぐって出てきた。それだけ」
まさか、婚礼の馬車から逃げて崖を滑り落ちてきたなんてことは言えない。おかげで洞窟にいた理由がちょっぴり不自然になってしまった。
案の定、セルジュは難しい顔をして首をかしげている。
「洞窟? この辺りに、そんなものがあったか?」
え、まずそこが問題になるの? と言いそうになった。
少なくとも一年前には、あの洞窟はもう存在していた。誰があの木の壁を立てたのか知らないけれど、あの洞窟に気づかないなんてことがあるのだろうか。
「あったよ。現に僕は、ついさっきまでその洞窟を歩いていたんだから」
「……やはり、覚えがない。しかしそんな嘘をつく理由も……」
無遠慮な目で私をじろじろと見ながら、セルジュが何やらつぶやいている。しかしじきに、彼は深々とため息をついた。
「仕方がないか。リュシアン、ちょっと一緒に来てくれ。俺の手には余る」
どうやら彼は、私をどうするかということについて、他の誰かの判断を仰ごうとしているらしい。その誰かが良識的な人物であることを祈るばかりだ。
目の前にいるセルジュは、信用できるような気がしている。会ったばかりでこんな風に思うのはおかしいかもしれないけれど。
そんなことを考えながら、セルジュにうなずきかける。彼はほっとしたような顔をして、それから突然声を張り上げた。
「……みな、聞いてくれ!」
辺りがしんと静まり返る。みんなが彼の言葉に耳を傾けているのが、気配で分かる。
「今ここに現れたこの青年は、聖女かもしれないし聖女ではないかもしれない。ひとまず、彼を父に引き合わせることとする。ここで起こったことは、しばらくの間他言無用だ。町の者が混乱するといけないからな」
セルジュの言葉に、周りの人々は一斉にうなずいた。その目には、信頼の光がきらめいている。彼らの顔を一人一人見返して、セルジュはさらに言葉を続けた。
「いずれ、父からみなにお触れが出るだろう。それまでは、どうか黙っていてくれ」
今の話の内容からすると、セルジュはこの民たちを治める領主の息子なのか。
民たちの表情を見るに、彼とその父は民たちといい関係を築いているようだった。偉そうにしているしか能のないうちの父にも見習わせてやりたい。まあもう会うこともないし、関係ないか。
「よし、行くぞリュシアン」
「どこまで行くの?」
「そこに見えている町、イグリーズだ」
そう言ってセルジュは、草原の向こうに見えている町を指し示す。前にあの洞窟を抜けた時からずっと、行ってみたいなと思っていた町。
ちょっと予想外の事態に巻き込まれたけれど、あの町に行けるのは楽しみだ。この時の私は、のんきにもそんなことを考えてしまっていた。