40.絶体絶命の、その中で
「伏せろ、リュシアン!」
セルジュが私を座席に押し倒す。次の瞬間、馬車のほろに矢が突き刺さった。あのまま突っ立っていたら、あの矢は私に突き刺さっていただろう。
今さらながらに、背筋がぞわりとする。私をしっかりと押さえ込んでいるセルジュの体に、思わずしがみついた。
「敵襲だ! 迎え撃て!」
あれは、隣国ソナートの使者の声だろうか。それに続いて、ばたばたという足音がし始めた。
触れた体越しに、セルジュの押し殺したような声が聞こえてくる。
「……あれは……レシタルの王国兵か……こんなところまで追いかけてくるとは」
顔だけを上げると、街道の周囲の森の中に、見覚えのある鎧兜の兵士たちが何人も走っているのが見えた。王国兵だ。
彼らはあからさまに殺気を放っているし、その手には剣やら弓やらが握られている。
「リュシアン、お前はここに隠れていろ」
それだけを言い残して、セルジュは馬車を飛び降りた。腰に提げていた大きな剣を抜いて。
マリオットの兵とソナートの兵。それに対するは、レシタルの王国兵。
あくまでも大急ぎで国境を越えることを目的とした少数精鋭のこちら側に対し、あちら側は数で押すことにしたようだった。
街道の両側の森にあらかじめ伏せられていたらしい兵士は、音からしておそらくこちらの倍以上。もしかすると、もっといるかもしれない。
あっという間に、戦いが始まってしまった。静かだった森に、金属がぶつかり合う不吉な音がする。
その合間に、切れ切れに声が聞こえてくる。一人たりとも生きて帰すな、と誰かが言っているのが聞こえた。
彼らはマリオットだけでなく、ソナートの人間まで殺すつもりなのだろうか。そんなことをしたら、ソナートとレシタルの関係もおかしくなってしまいかねないのに。
いよいよレシタル王のめちゃくちゃも、どうしようもないところまで来てしまったらしい。あきれつつ奥歯を噛みしめたその時、ふと嫌なことを思いついてしまった。
マリオットが、ソナートの使者をだまし討ちにした。それを罰するため、レシタル王はマリオットを討った。
こんな筋書きにすれば、レシタル王は邪魔なマリオットを堂々とつぶせるし、ついでにソナートにちょっと恩を売ることもできる。
自分の思いつきが当たっていると、そう確信できた。けれどだからと言って、何かが良くなる訳ではない。
セルジュに言われた通りに馬車の中に身を隠し、辺りの物音に耳を澄ませ続ける。少しでも機敏に、周囲の状況の変化に対応できるように。
出ていけないのが、もどかしい。戦っているセルジュたちに手を貸せないのが、悔しい。
私はそこらの男に負けはしないし、剣だって人並み以上に使える。基本の動きは、ティグリスおじさんにじっくりと鍛えてもらったし、おじさんがいなくなってからもたくさん訓練した。
でも、裏を返せばそれだけなのだ。女の非力な腕に、持っているのは護身用のナイフだけ。しかも、誰かと本気で戦った経験はない。
酔っぱらったごろつきを追い払うくらいならたやすいけれど、きっちりと鎧を着こんだ正規兵相手にまともに渡り合えるとは思えない。
それに今の私は、マリオットにとっては欠くことのできない存在になっている。聖女であり、ソナート王妃の娘。私は何が何でも、無事に国境を越えなくてはならない。
ここから出ていってはいけない。隠れていなくてはいけない。みんなを信じて、自分の身を守ることに集中しなくては。
でも、みんなが、セルジュが戦っているのに、私だけ守られているなんて嫌だ。せめて、聖女の力が使えたなら。
震える両手の指をきつく組み合わせて、祈る。もちろん、何も起こらない。分かっていたけれど、無力な自分が悔しい。
その間にも、戦況は悪化しているようだった。少しずつ、戦いの音が近づいてくる。明らかに、こちらが押されているようだった。
と、足音が一つこちらに近づいてくる。敵だろうか、と身構えたその時、セルジュが顔をのぞかせた。
肩や腕にうっすらと血がにじんではいるものの、どれもこれもかすり傷のようだった。そのことに、ほっとする。
「行くぞ、リュシアン!」
行くって、どこへ。そんな問いを口にするよりも先に、彼は動いていた。
何と彼は私を抱え上げると、そのまま走り出してしまったのだ。馬車の横をすり抜けて、国境のほうへ向かって。
「さすがに、あちらの数が多すぎる。このままではいずれ押し切られる。その前に、お前だけでも国境を越えさせる」
「でも、まだみんな戦ってて」
「国境を越えれば、目的地はすぐ近くだ。そこにいるだろうソナートの人間たちに助けを求めよう」
そんなことを説明しながら、セルジュは力強く走っている。それも、私をしっかりと抱きかかえたまま。さっきまでずっと戦っていたことなんてみじんも感じさせない動きだ。
前にも、こんな風に彼に抱えられて運ばれたことがあった。あれは、マリオットの屋敷に町人たちが殺到してきた、あの朝のことだった。
彼は人垣から私を引っこ抜いて、そのまま横抱きにして屋敷から逃げ出したんだった。あまりに突然のことに、抵抗することすらできなかった。というか結構恥ずかしかった。
……あの頃は、平和だったな。こんな形で危険な場所に乗り出すことになるなんて、思ってもみなかったな。
うっかり泣きそうになったのをこらえて、できるだけいつもの声音でセルジュに呼びかける。
「だったら、僕も自分の足で歩くよ。そのほうが、君の体力も節約できる。国境まで、まだちょっとかかるだろう?」
背後からは、兵士たちがやり合っている音が聞こえている。その中から数人が、私たちを追いかけてきている足音も。それが敵なのか味方なのかは、まだ分からない。
このまま私を抱えていたら、セルジュが疲れ果ててしまう。ところがセルジュは、少しも足を止めることなく答えた。
「このほうが速い。お前は軽いからな。……それに、もしかすると最後になるかもしれないし、せめてお前を守らせてくれ」
「最後だなんて、縁起でもない!」
「だが、それを覚悟しなくてはならないくらいに状況は悪い」
「あきらめちゃ駄目だってば!」
そんなことを話している間にも、後ろの気配が少しずつ近づいてくる。
セルジュの首につかまったままそっとそちらをうかがうと、王国兵が追いかけてきているのが見えた。それも、五人も。ああ、よりによって。
恐怖の声を飲み込んだ私の耳を、セルジュのやけに静かな声がかすめた。
「俺は……お前といると、楽しかった」
「どうしたの、急に」
「お前は何から何まで俺と違っていて、最初は戸惑った。でも、悪い奴ではないと思えた。性根がさっぱりしていて、細やかな気遣いのできる、いい奴だと思ったものだ」
「何を言ってるの?」
一生懸命に呼びかけても、セルジュはこちらを見ようともしない。まっすぐに前を向いたまま、独り言のようにつぶやいている。
彼の口元に浮かんでいるのは、とても優しい笑みだ。こんな状況には、まるで似つかわしくない。
「お前が女だと知った時は驚いた。でも同時に、俺は心が浮き立つのを感じていた」
「ねえ、セルジュ!」
「もっとお前を知りたいと思った。そばにいたいと思った。他の人間に渡したくないと思った」
「セルジュってば!!」
「たぶん、この思いは恋心なんだろう。もっとも俺は、お前が言うように女性慣れしていない。お前が可愛らしく笑いかけてくるたびに、どうしていいか分からなくなっていた」
「だから、もういいよ! あきらめるなんて、弱音を吐くなんて、君らしくないって!」
悲鳴のようになっている私の声と、くすぐったそうに過去を振り返るセルジュの声。王国兵の鎧が立てるがちゃがちゃという音が、さらに近くなっていた。
「……リュシアン。いや、リュシエンヌ。もし、生きてこの窮地を脱することができたなら、その時は……俺の願いを、聞いてくれないか」
「なんでも聞くから! だから、生きよう! 二人一緒に!」
ああ、王国兵がもうすぐそこまで来てしまった。セルジュは私を下ろして、剣を抜いた。あんな無茶な走り方をしていたからか、すっかり息が上がってしまっている。
私も袖の中に隠していたナイフを取り出し、彼の横に立った。
人間相手に本気で戦うのは初めてだけれど、急所を狙えばいい。人間だって、獣と同じだ。あの鎧、よく見るとあちこちに隙間がある。狩りと同じ要領で、あそこを狙えば。
人を殺すことへのためらい。戦うこと、傷つくことへの恐怖。
それよりも、生きたい、セルジュを死なせたくないという思いのほうが遥かに勝っていた。
戦いは、ただ力や技術だけで勝敗が決まるものではない。生への執着、勝つことへの執着もまた、勝敗を分ける大きな要素となる。
昔、ティグリスおじさんが教えてくれたそんな言葉が、頭の中を駆けめぐる。その言葉は私に、勇気を与えてくれた。
追いついてきた王国兵は五人。こちらは私とセルジュだけ。でも絶対に、勝つんだ。セルジュと二人一緒に、生き残ってやる。
敵は私たちのことを、たった二人と甘く見ている。でも私は相手を甘く見てなんかいない。
ただ命令に従っているだけの王国兵と、何が何でも勝利を、幸せをつかもうとしている私。
勝てる。きっと。どれだけ血に汚れようと、この状況を、ひっくり返してやる。
そんな決意と共にナイフの柄をぐっと握りしめた時、いきなり目の前が真っ白になった。