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4.新しい人生の始まり

 きっと馬車のそばで待っていた御者は、死ぬほど驚いただろう。そのことだけは、申し訳ないと思う。


 真っ白な婚礼衣装に身を包んだ私が、足を滑らせて崖から落ちた。御者の目には、そう映ったに違いない。


 しかし真実は、そうではなかった。私は岩の陰に隠しておいた白い命綱をつかんで、崖の斜面を滑り降りたのだ。


 斜面に生えている木の枝に、私がかぶっていたヴェールが引っかかる。はずれたヴェールがふわりと舞い上がっていくのが、目の端に見えた。


 その間にも、私の体はどんどん滑り落ちていく。崖の斜面にうっすらと積もっていた雪が、ばさばさと落ちかかってくる。


 何回も練習したけれど、こうやって婚礼衣装で崖下りをやるのは初めてだ。スカートが邪魔で足が動かしにくいし、袖がぴったりしているせいで腕もきつい。でも、やりとげなくては。


 思い出せ、練習の時のことを。そろそろ、二本目のロープが見えてくる。それをつかんで、あっちの岩の陰にもぐりこめばいい。そうすれば、もう上からは私を見つけられない。


「……あった!」


 崖の下のほうに、赤く染められたロープが見えた。斜面の岩肌に沿うように、湖面と水平に張られている。なおも斜面を滑り落ちながら、そちらに向かって手を伸ばす。


 ロープをつかんで踏ん張り、どうにかこうにか崖の途中で止まった。それからロープをぐいと引っ張って、近くの岩の陰に移動する。


 そこには、人一人くらいなら腰かけられるような大きさのくぼみがあった。そこに腰をおろして、一息つく。周囲の岩や木々のおかげで、上は全く見えない。


 どどどどと心臓が恐ろしい速さで乱れ打っている。今頃になって、手が震えてきた。右手で左手を握りしめて、荒くなっていた呼吸を整える。ついつい、笑い出しそうになるのをこらえながら。


 どうにかこうにか落ち着いてきたところで、命綱とロープを引き寄せる。これらはそれぞれ大きな輪になっているので、一か所を切って引っ張れば、全部手元にたぐり寄せることができるのだ。


 そうして集めた命綱とロープを、それぞれくるくると巻いてひとまとめにした。これが見つかったら、私が何をしていたのかばれてしまうかもしれない。証拠は回収しておくに限る。


 耳を澄ませて、上の様子を探る。今のところ、誰かが崖を降りてくるような気配はない。さて、今のうちにもっと安全なところに逃げ込んでしまおう。


 注意深く立ち上がり、岩をつかみながら崖の斜面を横歩きで移動する。と、目の前に突然ぽっかりと暗い穴が現れた。ためらうことなく、その中に足を踏み入れる。


「よし、到着!」


 控えめな私の声が、辺りの空間にわんわんと反響した。ここは湖の崖の斜面、その湖面すれすれにある洞窟だ。背の高い男性でも二人並んで悠々と歩けるくらいの大きな道が、奥へ続いている。


 この洞窟こそが、今回の目的地だった。ここまで逃げ込めば、そう簡単には見つからないだろう。私がここの存在を知ったのも、いくつもの偶然に助けられた結果なのだし。


 あれは、去年の冬のことだった。一人で遠乗りに来た私は、湖畔の崖の上で休憩していた。


 そうしたら、風に吹かれてスカーフを落としてしまったのだ。崖の途中の木に引っかかったスカーフを取ろうとして、手持ちのロープを使って崖を降りていった。


 無事にスカーフを回収して、さて帰ろうとした時に洞窟に気づいた。上から見ていたのではまず気づけない、そんな位置にある洞窟のことがやけに気になった。


 なので後日しっかりと準備を整えて、洞窟に入ってみたのだ。危なくなったら引き返そうと思いながら、どんどん奥に進んでみた。道はひどく曲がりくねっていて、すぐに方角が分からなくなったけれど、幸い一本道だった。


 そうして洞窟を抜けて、驚いた。その先には一面の草原が広がっていたのだ。遠くのほうには大きな町も見える。貴族の屋敷らしきものもある。割と栄えた、いい感じの町のように思えた。


 あの町、どこなんだろう。気になったけれど、そのまま帰るしかなかった。暗くなる前に、バルニエの屋敷に戻らなくてはいけなかったから。


 たとえ朝一番にバルニエの屋敷を出たとしても、あの町に行ってその日のうちに屋敷に戻るのは難しそうだった。しぶしぶ、私はそれ以上先に進むことをあきらめたのだった。


 でも今は違う。もう私は、バルニエの屋敷には戻らない。戻らなくていい。このまま洞窟を抜けてあの町に行こう。そこで準備を整えて、もっともっと遠くに行ってしまおう。


 金貨はたっぷりくすねてきたし、どうしようもなくなったら隣国ソナートにいるお母様を頼るという手もある。でもやっと自由になれたのだし、せっかくだからあちこち見て回りたい。ふふ、どこに行こうかな。


 鼻歌交じりに、支度を整える。あらかじめここに運び込んでおいた、旅の荷物を詰めたリュックを引っ張り出す。


 中からいつもの男装用の服を取り出して、手早く着替えた。


 崖下りのせいですっかりぼろぼろになってしまった花嫁衣裳は、石にくくりつけて湖に投げ捨てた。ここに残して万が一見つかったらまずい気がするし、持ち歩くのはもっとまずい。


 首飾りだけは無事だったので、それだけは外して取っておくことにした。これはマリオット侯爵からの贈り物なので、できればどうにかして返却したいし。


 それと、白い命綱と赤いロープもリュックにしまっておいた。また使うかもしれないし。


 そうしてリュシアンへと姿を変えた私は、リュックを背負って洞窟の奥に向かって歩き出す。最高に、浮かれた気分で。


「自由って、素晴らしいね……」


 女の一人旅は危ない。だから私は、これからしばらくリュシアンとして生きていく。


 それに、令嬢として見合いやら何やらに振り回されているよりも、可愛い女の子たちと楽しくお喋りしながらぶらぶらするほうが、よっぽど楽しいし。


 だいたい私は、恋愛も結婚もする気はない。だったら男としてふるまっているほうがずっと気楽だ。


 そんなことを考えつつ、こつこつと靴音をさせながら歩く。


 この洞窟は湖のすぐそばにあるのに、意外と湿っぽくない。人の手が入っているようには見えないのに、足元はなめらかで歩きやすい。


 さらに不思議なことに、洞窟の壁や天井はぼんやりと光っている。おかげで、火を灯さなくても楽々歩けてしまう。光る苔があるらしいと聞いたことがあるから、それなのかもしれない。


 落ち着いてよくよく考えてみれば、ここはずいぶんと変わった洞窟だ。でもこの洞窟のおかげで、こうやって無事に逃げ出すことができるのだ。細かいことは気にしないでおこう。


 ところが洞窟の出口にたどり着いた時、私は思いっきり首をかしげることになった。


 出口が、ない。正確には、出口の前に木の壁が立ちふさがっている。


「なんだ、これ?」


 しかも壁の向こうは、なんだかとっても騒がしい。子供のはしゃぐ声、若い男女の笑い声、素朴な笛や竪琴の音、それに楽しそうな歌声。まさかと思うけれど、祭りか何かだろうか。


 木の壁に近づき、周囲を観察する。この洞窟の出口は、大きな崖の斜面にぽっかりと口を空けている。外の地面からの高さは、だいたい私の身長くらいか。だから前に来た時は、普通にぽんと飛び降りることができた。


 しかし今は、着地するだけの隙間がない。斜面を左右に移動するのも難しそうだ。


 となると、上しかないかな。見上げると、木の壁の上のほう、ちょうど建物の二階の窓くらいのところに、ぽっかりと穴が空いている。


 あの穴のところまで、斜面と木の壁の間をよじ登ろう。普通の令嬢には絶対に無理だけれど、私ならできる。


「どのみちここまできたら、もう進むしかないし」


 するすると木の壁を登り、窓のような穴をくぐる。ぱっと目の前が明るくなった。


 予想していた通り、そこは祭りの最中だった。たくさんの人が着飾って、大はしゃぎしていた。しかし彼らは私を見ると、呆然と立ちすくんでしまう。


 いけない、僕は怪しいものじゃないって言わないと。そう思って口を開きかけたその時。


「……聖女様だ」


「本当に、聖女様が来てくださった……」


「みんな!! とうとう聖女様が、降臨なされたぞ!!」


 人々の口から、そんな言葉がもれる。みんなの表情が困惑から驚きに、そして歓喜へと移り変わる。


 私は状況が理解できずに、ただぽかんとすることしかできなかった。

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