36.湖を見つめて
何となくもじもじしながら、二人で洞窟を進む。そうしているうちに、少しずつ行く手が明るくなってきた。
そして、見覚えのある場所に出た。洞窟の反対側、湖に面した出口だ。婚礼の馬車から逃げる前に、そこの岩の陰に荷物を隠しておいたのを覚えている。
あの時は必死だったし、ようやくマリオットから逃げられそうだと、ほっと胸をなでおろしてもいた。
でもまさか、あれから一年も経たずに、こうしてまたここに来ることになるなんて思いもしなかった。
しかも、結婚させられるはずだった相手の息子と手をつないで。おまけに、マリオットの領地を守るために。もう、何が何だか。
人生って、分からないものね。しみじみとため息をつく私の隣で、セルジュはそっと出口から顔を出して、周囲の崖を見上げていた。
彼に続いて、外を眺めてみる。
前に来た時はまだ雪の白に覆われていた景色は、黒い岩肌とあちこちに生えた草の緑に変わっていた。見るからに冷え冷えとしていた湖も、どことなくとろりとした優しさをたたえている。
「……命綱を用意していたとはいえ、この斜面を滑り降りた、か……よくそんな恐ろしいことを思いついたな」
「普通に降りるのは何回かやったことがあるし、事前にちゃんと練習したよ。……さすがに、婚礼衣装で滑り降りたのは初めてだったから、本番は緊張したけど」
その言葉に呆れたような顔をしていたセルジュだったが、ふと何かに気づいたように私を見た。
「……そういえば、その時の婚礼衣装はどうした? さすがに無傷とはいかないだろうが……」
「ああ、えっと、ぼろぼろになってたし……持ち歩いて正体がばれたらまずいと思って、その、そこに」
もごもごとつぶやきながら湖のほうを見ると、セルジュもそちらを見て目を細めた。一歩湖のほうに進み出て、じっと湖面を見つめている。
どうしたのかな、と思って彼の顔を見上げる。けれど外から差し込んだ光がやけにまぶしくて、彼がどんな表情をしているのかよく見えなかった。
「……まあ、それも仕方がないか」
やがて、セルジュがぽつりとつぶやいた。いつになく暗いその口調に、どうしたの、言いかける。
「だが、俺たち貴族の富というものは、元をたどれば民たちが納めた税だ。それをわきまえ、無駄にするなというのが父さんの口癖だ」
そう言って彼は、ちらりと流し目をよこしてくる。斜め上からの、しかも鋭い目つきの流し目は、なかなかにどすが効いていて、見事な迫力だった。
「お前はかなり無駄にしたからな、いずれ埋め合わせを考えておいたほうがいいぞ」
ただその目には、さっきのような暗さはない。むしろ彼は、意識して明るくふるまっているようにも見えた。
だからさっきの問いかけはそのまま胸にしまい込んで、こくんとうなずいた。
「うん。……いつか、こっそりバルニエ領に出かけて、聖女の力で守ってあげられたらなって思う。リュシエンヌ・バルニエとして戻るのが一番いいのかなとも思うけど、僕はもうあそこには戻りたくない。そこだけは譲れないから」
「そうか」
それから二人で、もう一度湖を見つめる。しばしの沈黙の後、ふうと息を吐いて口を開いた。
「さあ、そろそろ用事を済ませてしまおうよ。マリオットの人たちの信仰心に感謝しないと」
バルニエ領で育った私は全く知らなかったけれど、この湖は長い間信仰の対象になっているのだそうだ。
マリオット側から険しい山を越え、あの湖に花を投げ込む。そんな巡礼の旅のやり方が、古くから受け継がれているのだとか。
過去に聖女が、この洞窟で力を使ったという記録も残されている。その時の記録と照らし合わせれば、私がここで力を使えば、マリオット領をまとめて守れるはずだと、エミールはそう計算していた。
セルジュと手をつないだまま、空いたほうの手でそっと胸を押さえる。目を閉じて、ゆっくりと深呼吸した。
湖を渡るひんやりとした風、打ち寄せる波の音、つないだ手の温もり。そんなものを感じていると、決意のようなものがこみあげてくる。
私は守りたい。今の幸せな日々を。
今、マリオットはレシタル王宮から危険視されている。あの使者に加え、後詰めの部隊まで用意されていた。ことによっては、あの部隊が攻め寄せてくるかもしれない。
それはまあ、イグリーズのみんなが聖女だなんだと大騒ぎしたのは事実だ。
それに「いざとなったら反乱もやむなし!」と考えがちで暴走気味なカゲロウの若者たちを鍛えたのも事実だ。私たちのほうに、後ろめたいところがないといったら嘘になる。
でも、そもそも陛下がきちんと国を治めてくれていたら。もうこの国は駄目だな、なんてみんなが見切りをつけるようなことになっていなかったら。
聖女が現れても、みんなあそこまで大騒ぎしなかっただろう。それに、悲壮な顔をした若者たちがあんなにたくさん集まってしまうこともなかっただろう。
……まあ、どっちが悪いとか、そんなことはもうどうでもいい。私は私の大切なものを守る、それだけだ。どんな手を使ってでも。
そう強く念じたその時、閉じたまぶた越しにでも分かるくらいに強い光がわき起こった。
目を開けると、すぐ近くの水面に聖女印が浮かび上がっているのが見えた。こないだのものと似たような紋様だ。
しかしこの聖女印は、それはもう大きかった。家が二、三軒すっぽりと入ってしまうくらいはある。中々の迫力だ。
「大きいな……」
そう言いながらセルジュが、用意していた地図を取り出した。器用に片手で広げて、私のほうに差し出してくる。
「この聖女印がどの辺りを守っているか、分かるか?」
その問いに、無言でうなずく。
最初に聖女印を発動させた時、ふわっと意識が広がっていくような感覚があった。私の体は教会の奥の礼拝堂にいるのに、心はイグリーズの町全てを見ている、そんな感覚だ。
エミールによれば、そうやって私の意識を飛ばせる範囲が、そのまま聖女印の力が及んでいる範囲なのだそうだ。
目の前の聖女印を見つめ、意識を飛ばす。大きな山や川など目立つ地形を確認しながら、あちこち見て回る。
大体の効果範囲をつかんでから意識を引き戻し、地図を指さしていった。
「ここから……この辺りまで。それと、この地域もだね」
「よし、マリオット領は全て守れているな。周辺の他の領地も含まれているが……そちらについては戻ってから父さんに相談しよう」
何だかんだ言って、セルジュはお父さんっ子だ。私との結婚話やら何やらのせいですれ違いまくっていただけで。エミールについて話している彼の顔には、まぎれもない信頼の色が浮かんでいる。
いいなあ、とうらやましく思ってしまう。でも私にも、お母様がいるもの。次のお喋りの時にでも、こんなことがあったって思いっきり喋ろうっと。
その時、ふと気がついた。地図を凝視して、もう一度効果範囲を確認する。
「どうした、リュシアン? 難しい顔をして」
「……いや、大したことじゃないんだ。ただ、よく見ると……バルニエの屋敷も守られちゃってるなあって。隣のルスタの町もすっぽりと入ってるのはありがたいんだけど」
今は父だけがいるはずの、私が生まれ育ったあの屋敷。そこはぎりぎり、聖女の力の範囲内だった。ルスタの町の、不安そうな顔をしていた町人たちを守ることができるのは嬉しいけど。
「お前の父親が守られているのなら、それはいいことだろう。それに、バルニエの民のことも。迷惑かけた分、さっそく力になれて良かったじゃないか」
「うん、民についてはそれでいいんだけど……でも父については、どうせならちょっとくらい、痛い目を見てほしかった気もする……」
父なりに私のことを思ってくれていることは、ブローチの一件で分かった。けれどそれでも、色々と思うところはあるのだ。手放しで父を許す気には、まだちょっとなれない。
えり元のブローチに触れながらそうつぶやくと、セルジュがしんみりと微笑んだ。
「……そっちも色々あるようだが、いつかきちんと和解できるといいな」
「……うん」
彼の言葉に、素直にうなずく。それから一緒に、来た道を引き返していった。しっかりと、手をつないだまま。