32.使者、来たる
それからしばらくは、同じようなのんびりした日々が続いていた。リュシアンとリュシエンヌの二つの姿を使い分けながら。
今のところまだ、二人が同一人物だとばれてはいなかった。もっとも、それも時間の問題という気もするけれど。カゲロウの関係者が面会に来たら、一発でばれるし。
聖女として町人と会って、カゲロウの若者たちを鍛えて、それ以外の時間は屋敷をぶらぶらしたり、遠乗りをしたり。
イグリーズの人々は相変わらず、というよりもさらに聖女のことをあがめるようになってしまったけれど、今の私はリュシエンヌとして自由に動き回れるようになっていたので、特に困ってはいなかった。
むしろ私は、今の状況を楽しんですらいた。
ところが、そんな日々を一瞬でぶち壊すような、そんな知らせが勝手に舞い込んできた。
「……まずいな」
「……まずいね」
私とセルジュは、マリオットの屋敷の廊下にいた。応接間の扉に耳をつけて、中の会話を必死に盗み聞きしていたのだ。
今日、朝一番に妙な馬車がやってきた。王家の紋章を目立つように掲げた、異様にこぎれいな馬車だった。
そこから降りてきたのは、高位の文官だと一目で分かる、かっちりとしていながらやけに豪華な身なりの老人だった。どうやら、王宮からの使者らしい。
しかもその馬車を守るように、馬に乗った兵士の一団までついてきていた。とんでもなくものものしい雰囲気だ。
当然ながら、イグリーズの町人たちはみんな動揺してしまっている。けれど使者たちは何も説明することなく、マリオットの屋敷にずかずかと上がりこんできた。
エミールが使者に応対して、そのまま応接間に連れていった。私とセルジュはこっそりと後をつけて、話を聞いていたのだった。
見た感じ、割と重要な要件だ。しかも、使者たちはどこからどう見ても友好的とは言いがたい雰囲気だった。
何が起こっているのか、一刻も早く知りたい。そんな思いが、私とセルジュをこんな行いに走らせているのだった。
そして、扉越しに聞こえてきた使者の言葉に、私とセルジュは絶句していた。
『イグリーズの民は、聖女なるものにたぶらかされている。どこもかしこも、聖女の噂でもちきりだ』
『そして民は、国に、陛下に逆らい始めている。秘密裏に人手を集め、反乱に備えている』
『陛下はこの事態を重く見ておられる。聖女を討伐するか、王都に連行せよとのお達しだ』
そんな内容を一通り聞き終えてから、二人一緒にそろそろとその場を離れる。ひとまず離れまで戻ってから、同時にため息をついた。
「あれってさあ……僕が行方不明になったら片付いたりしない? 男装を止めて、リュシエンヌとして旅に出れば。聖女が逃げたぞって、わざと騒ぎを起こして、僕は逆のほうに逃げるとか」
「……だが、行く当てはあるのか?」
「あるにはある。隣国ソナートの偉い人と、知り合いだから。ソナートとここレシタル王国は国交がないし、あっちに逃げ込めれば安全だと思う」
思いもかけない人物が飛び出したことに、セルジュはきょとんとしている。それは誰なんだ? と言いたそうな彼を無視して、話を続ける。
「たださ、その場合、あの使者の人たちが引っ込みつかなくなるんじゃないかなって、そこが心配なんだよね」
「そうだな。彼らの矛先が父さんや、イグリーズの民に向かわないとも限らない」
町の人間たちが手を組んで聖女を逃がした。そう判断される可能性はあるだろう。
「それに、イグリーズの民が逆に使者に手を出さないとも限らない……使者たちのせいで聖女が去ってしまった、と考えるかもな」
「あ、そっちの可能性もあるのか」
「むしろそっちのほうが高いと思う。イグリーズの民たちは、とかく聖女のこととなると見境がなくなるから」
二人で難しい顔を突き合わせていたところに、エミールがやってきた。あまり表情を変えない彼ではあるけれど、それでもちょっと顔色が優れない。
「ああ、ここにいましたかリュシアン君。それに、セルジュも」
「父さん、使者との会談はもう終わったのか」
「一時中断です。対応を決定する前に、すべきことがありますので」
冷静にそう答えて、エミールは私を見る。
「リュシアン君。君は、このままこっそりと逃げてしまうのが一番でしょう。聖女だなんだという騒動に君を巻き込んだのは、私たちイグリーズの者なのですから」
エミールはきっぱりと、ためらうことなくそう言い切った。
「急ぎ、出立の準備を整えてください。脱走に向いたルートを説明しましょう。セルジュ、彼に付き添ってあげてください」
「あの、エミールさん」
彼の言葉をさえぎって、一歩前に踏み出す。
「僕がいなくなったら、イグリーズの人たちはきっと残念がると思うんです。それに、もしかしたら彼らが危険な目にあうかもしれません。ですから、他に方法は……ありませんか?」
エミールは目を見開く。とても意外そうだった。
「……私たちを気遣ってくださってありがとう、リュシアン君。ですが、心配は無用ですよ。最悪の事態に備えて、既に策は用意してありますから」
「でも、僕は……ここの人たちが好きなんです。みんなの力になりたい。聖女という肩書しか持たない僕にも、何かできることがあるんじゃないかって、そう思うんです」
目を真ん丸にしたまま私を見つめていたエミールだったが、やがてふっと笑った。泣き笑いのような、そんな笑顔だった。
「それでは一つ、試してみましょう。セルジュ、お前もついてきてください。聖女を守る者は、一人でも多いほうがいい」
そうして三人一緒に、さっきの応接間に戻る。私とセルジュの姿を見た使者は、いぶかしげに首をかしげていた。
「聖女は小柄な青年だとは聞いていたが……もしかして、貴殿が?」
「初めまして。僕はリュシアン、旅人です。……今は、聖女と呼ばれていますが」
そう名乗ると、使者は首をかしげたままぽかんと口を開けた。どこにでもいそうな、ありふれた青年が聖女だということに驚いたのだろう。
「でも見ての通り、僕はごく普通の人間でしかありません。日々、人々のちょっとした悩みを聞いているだけなんです」
そういったけれど、使者の眉間のしわは深くなるばかりだ。内心焦りを覚えながら、にっこりと無邪気に笑ってみせる。
「それにこのイグリーズの人たちは、反乱なんてたくらんでいませんよ。みなとても穏やかで善良な人たちです。たまに、よそ者などがたまに悪さをするくらいで」
本当は、セルジュ率いるカゲロウの若者たちがいるんだけどね。放っておいたら内乱くらいくわだてそうな、そんな人たちが。
でもあれはあくまでも子供のおままごとのようなものだから、目くじら立てるほどのものじゃない。内緒にしていても大丈夫。今は、まともな方向に進めるように手助けしているし。
背中に冷や汗が流れているのを無視しながら、自分にそう言い聞かせる。
私のそんな思いに気づいていないのか、使者はゆったりと大きくうなずいた。
「そうですね。貴殿のおっしゃることにも一理あるように思えます」
よかった、分かってもらえた。ほっとした次の瞬間、彼はまた仏頂面になる。
「ですがそれでも、私は貴殿を捕らえねばなりません、リュシアン殿。それが、陛下の命令ですから。逆らうのであれば、マリオット伯爵及びイグリーズの町の者を反逆罪に問うこともできますよ」
それを合図に、使者の後ろに控えていた兵士たちが動き出す。
あ、これ駄目なやつだ。捕まったらたぶん終わりだ。逃げなきゃ。みんなに迷惑がかからないように、一人で。
立ち上がると同時にソファの背もたれをひらりと飛び越え、ソファの後ろに回り込む。
と、セルジュが見事な身のこなしでこちらにやってきて、そのまま私を背にかばってくれた。
こんな時だというのに、彼の大きな背中に安心してしまった。そんなことをしたら、彼も罪に問われるかもしれないというのに。
「ここは俺が食い止める! 父さん、リュシアンを安全なところに!」
「待ってセルジュ、僕だって戦え」
兵士相手に戦ったことはないけれど、人間である以上急所は同じだ。そこまで兵士の数は多くないけれど、セルジュ一人で相手をさせるのは嫌だった。彼の背中は、私が守りたい。
けれどそんな私の腕を、エミールがしっかりとつかんだ。見た目からは想像するよりずっと強い力で、私を部屋の外に引っ張っていく。
「行きますよ、リュシアン君。君が戦う場所は、ここではありません」