26.気晴らしをしようと思う
ある日、私とセルジュは、屋敷の居間のソファにぐったりと伸びていた。まだ午前中だというのに、すっかり疲れ果てていた。
ソファに横たわって天井を見つめながら、しみじみとつぶやく。
「……あの二人、どうにかなりそうで良かったね」
「お前ががつんと言ってやったおかげだろう。中々の名演説だった」
同じように別のソファに倒れこんでいるのだろう、やけに低いところからセルジュの声がした。
「そんな大したものじゃないよ。必死だったのは認めるけど」
前に、私たちのところに恋愛相談に来ていた、身分違いの恋に悩む二人。その時は二人に、ごく普通の助言だけを与えて返したのだ。
大きな商店のお嬢様には、根気強く両親の説得をするように、と。
そしてその商店の使用人でありながら彼女と恋仲になってしまった男性には、猛烈に働いて猛烈に学べ、と。お嬢様の夫として認められるには、それ相応の能力が求められるから。
ところがこの助言が、思いもかけない事態を招いてしまっていた。
使用人は思いのほか根性があったらしく、この短い間にものすごく成長していた。
その頑張りが周囲に認められて、彼とお嬢様との結婚を認めてもいいのではないかと、店の者たちはそう思うようになっていったらしい。そんな中、お嬢様も懸命に両親を説得していた。
けれど当然ながら、お嬢様の両親である店主夫婦は、それはもう猛烈に反対した。周囲がみな賛成しているせいで、余計に意地を張ってしまったのかもしれない。
ちょうど店主夫妻は、別の町に支店を開こうとしていたところだったらしい。使用人をその支店に送り込んでしまおうと、二人はそう考えた。
そうすれば優秀な人材を失わずに済むし、自分の娘から遠ざけることもできる。
その話を知ったお嬢様と使用人は私たちのところにまたやってきて、あいさつもそこそこにこう言った。
私たち、駆け落ちしようと思います。たくさん学びましたから、イグリーズを離れてもやっていけると思うんです。
私とセルジュは、大あわてで二人を止めた。待て、早まるな、と。そうして大至急お嬢様の両親を呼び出して、全力で説得したのだ。
まずは二人の愛がどれだけ強いものか主張して、もし結ばれないとなったら二人がどんな行動に出るか分からないと軽くおどす。
その上で、使用人のことをほめちぎった。彼はたゆまぬ努力を続ける、とてもまっすぐな心根の青年です、お嬢様にはぴったりの良い人物です、と。
今思い出しても、あれは面倒だった。聖女様がそこまでおっしゃるのなら、とお嬢様の両親がどうにかこうにか納得して、少し様子を見てくれることになったからいいようなものの。
「しかし、両親を説得する、か。お前がそう言い出した時は、少し驚いた」
ごろりと寝返りを打って、セルジュのほうを見る。
彼は天井のほうを向いたまま、何とも微妙な顔をしていた。濃い緑の目だけをこちらに向けて、彼は苦笑しながらつぶやいた。
「お前のことだからてっきり、二人の駆け落ちを手助けするとばかり思っていたが」
「えっ、何だよそれ! ……なんてね。僕には結婚から全力で逃げた前科があるから、君がそう思うのも仕方ないか」
身を起こして、行儀悪く足を組んで座る。どんと自分の胸を叩いて、とうとうと述べた。
「僕はそこらのお嬢様とは違う。君も知っての通り、自分一人で生きていけるだけの力がある。でもあの二人は、ごく普通の町人だ。駆け落ちなんて無謀なことはお勧めできないよ」
それにさ、とつぶやいて視線をそらす。
「やっぱり逃げなかったほうがよかったかな、って、僕でさえ時折そう思うんだ。たぶんあの二人なら、もっとずっと後悔するよ」
「俺としては、お前が結婚から逃げてくれて助かった。お前が俺の継母になるなどと、想像しただけで奇妙な気分になるからな」
私がこっそりともらした弱音を、セルジュがすかさず吹き飛ばした。いや、おそらく彼はただ本音をつぶやいただけなのだろう。
だからにやりと笑って、軽く返す。
「僕も、自分より年上で目つきの悪い義理の息子は、ちょっと扱いに困るかな」
「何を言うんだ、男装が得意で崖を滑り降りる継母よりはましだ」
軽い口調で言い合いながら、私たちは笑っていた。私たちの間には、困難を共に乗り切った戦友のような、そんな空気が漂っていた。
昼食の後、セルジュは一人でイグリーズの町に出かけてしまった。ちょっと今日は帰りが遅くなるかもしれない、と言い残して。
彼が一人で町に行くのは珍しいことではない。こういう時は「いってらっしゃい、自由に出歩けるっていいよね」って私が愚痴ってみせて、「だったら一緒に行くか、聖女様?」とセルジュがからかってくるのがお決まりのやり取りとなっていた。
でも今日は、ちょっと違っていた。何食わぬ顔でいつも通りにセルジュを送り出してから、いそいそと離れに戻る。
「ずっと屋敷にこもっていると、さすがに退屈するのよね。遠乗りもいいけれど、さすがにそろそろ町に出たい。もちろん、聖女様だなんてあがめられることなしに、気軽にふらふらしたいのよ」
そんなことをつぶやきながら、荷物をあさる。あの湖の洞窟に隠しておいた、あらかじめバルニエの屋敷から持ち出していた荷物だ。
「あのお悩み相談を始めたせいで、私はさらに有名になってしまった。しくじったわ。この姿で町に出たら、確実に、そう確実に人が寄ってくる」
私が町に姿を現したりしたら、聖女様がお出ましだぞとみんなで大騒ぎし始めるだろう。お祭り騒ぎになってしまうかもしれない。
実際、面会にやってくる人たちのほとんどは、私に会うなり大喜びしてはしゃぐのだ。涙ながらに拝まれたのも一度や二度のことではない。
信仰心があついのは結構なことだとおもうけれど、自分がその信仰の対象というのはたまったものじゃない。
そんな人たちがうじゃうじゃしている中に、無防備に飛び込むつもりはなかった。危険な場所に向かう時は入念に準備をしろと、ティグリスおじさんもそう言っていたし。
とはいえ、これから向かうのは野山でも狩りでもない。必要なものは、弓矢でもわなでもない。
荷物の中から、目的のものを引っ張り出す。
ごく普通の町娘が着ているような可愛いワンピースと靴、それに栗色の髪のかつら。これらもまた、私が結婚から逃げるために用意したものだった。
ずっと男性のふりをして逃げるにも限界があるし、もしかするとリュシアンが私だと気づかれるかもしれない。
だから念には念を入れて、元の自分とは違う女性の姿でさらに逃げよう。何なら、いくつもの姿を使い分けながら逃げればいい。そう考えたのだ。
「……エミールだけじゃなくセルジュにも、私が女だってばれちゃったし、女性の姿をしても問題ないわよね。あの時はどうしようかと思ったけれど、結果としては良いほうに転んだ気がするわ」
苦笑しながら、手早く身なりを変えていく。
いったん男物の服を脱いで、特製下着も外す。それから女物の下着と、ワンピース。
こんな格好をするのは久しぶりで、ちょっと落ち着かない。妙な話だけれど、今の私にはリュシアンとしての姿のほうがしっくりきてしまう。
苦笑しながら、目立つ銀髪を三つ編みにしていった。ぐるぐると頭に巻き付けて、その上からかつらをかぶる。ふわふわの栗色のかつらは、私の長い髪をうまいこと隠してくれていた。
姿見に全身を映して、自分の姿を確認する。うん、当然ながら男性には見えない。ちょっといい家のお嬢さん、それくらいの雰囲気に仕上がっていると思う。
聖女は銀の髪の青年。みんなそう思っている。だったら、栗色の髪の女性についてはさほど注意を払わないはずだ。
化粧をすればより印象を変えられると思うけど、平民の女性が化粧をするのは何か特別な時くらいだから、悪目立ちしかねない。
これでもばれてしまうなら、その時はその時だ。覚悟を決めて、離れを飛び出した。