22.後悔は、いつも後からやってくる
ある日の午前中、私は大いに困っていた。こうして町人たちの悩みを聞くようになってから、間違いなく一番困っていた。
「……うーん、困ったなあ……」
私が腕組みしてそうつぶやくと、向かいの二人はしゅんとした顔でうつむいてしまった。どうにかしてあげたいけれど、どうしたものか。
「……大きな商店のお嬢様と、そこの使用人。身分違いの恋、かあ……」
私やセルジュと同世代のこの二人は、私に会うなりそんなことを打ち明けてきたのだ。
普通に考えれば、自分たちはまず結ばれることはない。でも、この思いをあきらめることなんてできない。私たちは一体どうすればいいのでしょうと。
彼女の両親を説得してみたら、と言ったら、そもそも話すら聞いてもらえなかったと涙ながらに返された。まあ、それも当然かもしれない。
だったら覚悟を決めて駆け落ちしたらどうだろうかとも思ったけれど、さすがにそんなことを軽々しく勧める気にもならない。危険だらけだし、失敗した時の責任も取ってやれないし。
助けを求めるようにセルジュのほうをちらちらと見たけれど、彼はこちらと視線を合わせようともしない。頼むから俺に話を振ってくれるなと、彼は全身でそう語っていた。
結局この場では、根気強く親の説得を試みるように、少しでも認めてもらえるよう頑張れという、そんなありきたりな助言しかできなかった。また何かあったら、遠慮なく頼ってくれという言葉を添えて。
「……はあ、まさか恋愛相談が来るなんて思ってもみなかったよ」
二人が帰った後、離れの居間で私とセルジュはため息をついていた。なんだかとっても疲れた。ものすごく疲れた。
「お前、イグリーズに来た次の日に、いきなり女性に声をかけていただろう。それも、やけに甘ったるい言葉を。恋愛ごとが苦手だなんて、何かの冗談じゃないのか」
「僕は、可愛い子たちと楽しく過ごしたいだけ。特に誰かと恋仲になりたいとか、そういうのじゃないよ。本音を言うと、そもそも恋愛に興味がないし」
「……恋心、か」
いつものように軽い口調でお喋りしていると、不意にセルジュが目を伏せた。いつになく苦しげな声音に、どうしたのだろうと彼を見つめる。
「もしかすると、リュシエンヌ・バルニエにもそんな相手がいたのかもしれないな。父さんとの縁組が決まる、その前に」
「ちが」
即座に否定しそうになって、あわてて手で口を押さえる。
幸い、セルジュは私が言いかけた言葉には気づいていないようだった。彼は赤い前髪を両手でくしゃくしゃとかき回しながら、さらにつぶやき続けている。
「そう考えると、つじつまが合う。彼女が嫁いでくるその日に、行方をくらましたことも」
つじつまって、何のこと。そんな言葉を、さらにのみ込んだ。
「だがいまだに、彼女は見つかっていない。ただの伯爵家の令嬢が、これほど長い間姿を消していられるとは思えない」
そもそも私は、ただの令嬢と呼べるような女性ではない。
ティグリスおじさんに教わった数々の技を使いこなし、木に登り崖を下り、そしてごろつきを叩きのめすことができる。男のふりもできてしまう。
だからこうやって、知らん顔して姿を消していられるのだ。
もちろんそんな反論ができるはずもなく、ただひたすらに口を閉ざす。
「思う相手と結ばれないことに絶望して湖に身を投げたか、あるいはそう見せかけて逃げたか……思い人が彼女に協力しているかもしれないな。そうであれば、いいのだが」
彼の語りは、どんどん暴走している。見事なまでに的外れだけれど、ある意味では当たっていなくもない……のかな? 身を投げたふりをして逃げたのは事実だし。
「あんなことになる前に、少しでも話してくれていたら……彼女は実の父との仲はあまりよくなかったと聞いているが、せめて父さんに一言でも相談してくれていたらと、そう思わずにはいられない」
セルジュは、リュシエンヌに同情してくれている。彼はエミールの息子として、リュシエンヌがいなくなったことに責任を感じてくれている。
そして同時に、彼は思っていたよりもロマンチストのようだった。彼はリュシエンヌを、すっかり悲劇の主人公に仕立て上げてしまっているような気もする。
どうしよう。私の正体を告げれば、彼はこんな風に悩まなくて済む。私が、本当のことを言いさえすれば。今まで幾度となく頭をよぎった考えが、また浮かんできた。
でも、そうしたら……きっと私は、軽蔑される。どうして黙っていたんだ、俺をだましていたのかって。セルジュはとってもまっすぐだから。
彼に嫌われたくない。その思いが、私の口をきっちりと閉ざしてしまう。そして、そんな自分に嫌気が差す。
そうして私の口は、別の言葉を紡ぎだした。
「……最良の判断って、難しいね。リュシエンヌ様のこともだけど、あの二人のことも」
父がエミールとの結婚を決めてしまった時は、死んだものと思わせて逃げるのが一番だと思った。
私は一人でも生きていけるし、隣国ソナートのお母様を頼ることもできる。父の下を離れてしまえば、それまでの悩みは全部解決する。
でも今では、その判断は間違っていたと思う。
婚礼の馬車に乗りエミールと会って、自分の事情を全て打ち明ける。そうして、それからどうするかを決める。
それが本当の、最善の手だった。もっとも、それは今だから言えることだけど。
「そうだな。俺たちで、力になってやれることがあればいいんだが……」
私の心の内を知りようのないセルジュは、そんな答えを返してきた。顔を上げて窓の外を見つめている彼の横顔を見ながら、こっそりとため息を押し殺す。
私は逃げたかった。息の詰まるようなバルニエの家からも、エミールとの結婚からも。でもその結果、どれだけの人たちに迷惑をかけてしまったのだろうか。
私を運んでいた馬車の御者。彼は間違いなく、叱責を受けたに違いない。解雇されていないといいのだけれど。それに私を探しに駆り出された人たち。バルニエの屋敷のみんな。謝りたくても、そのすべがない。
ああ、私、子供だったんだな。ずっと自分のことしか考えてなかった。自分が一人で生きてるんだって勘違いしてた。
そのことに気づけたのは、聖女としてたくさんの人たちの悩みを聞いたことと、そしてセルジュと一緒にいたことのおかげだと思う。
みんなの話を聞いたことで、私は世の中には様々な悩みがあるのだと知った。そしてみんなそれに立ち向かい、あるいは受け流しながら頑張って生きているのだということを。
そしてセルジュは、嫌われたくないと思った初めての人間だった。
今まで私は、他人とあまり深く関わってこなかった。
私が心を許せたのは、今はいなくなってしまったティグリスおじさんと、隣国ソナートにいるお母様だけだ。そしてその二人は私のことを嫌いにはならないだろうという、不思議な確信のようなものがあった。
たぶん私は、二人が私のことを愛してくれているのだと、そう無意識のうちに悟っていたのだと思う。
でもセルジュは違う。私が一つ間違えれば、私たちの関係は壊れてしまいかねない。そう感じるからこそ、何も言えなかった。
「どうした、泣きそうな顔をして」
セルジュのそんな声に、我に返る。ついうっかり、考え事に没頭してしまっていた。
「え? 僕、そんな顔してた?」
「ああ。親とはぐれた、迷子の子供のような顔だった」
そう言って彼は、私の頭をよしよしとなでている。まるきり子供扱いだ。
「……僕、子供じゃないんだけど」
「いいから、おとなしくしていろ」
セルジュの笑顔がまぶしい。彼はただ純粋に、私を元気づけようとしてくれている。
だから私は、ちょっと困ったような表情を浮かべながら、ただされるがままになっていた。
彼の手の温かさに、ちょっぴり泣きそうになるのを隠しつつ。