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20.知らなかった、父の思い

 私はリュシアン、でもリュシエンヌ。その問題から目をそむけて先送りにしていた私に、もう一つ問題が舞い込んできた。


 もしかすると聖女には、本当に何らかの力があるのかもしれない。そんな問題だ。


 あの祭りの日に、私が通ったあの洞窟。聖女にしか見えないあの洞窟には、もしかすると何か重大な意味があるのかもしれない。


 また折を見て調査しにこようと、セルジュはそう言っていた。


 あの洞窟は曲がりくねった一本道で、向こう側は湖の崖に通じているだけだと知っている私は、あいまいな返事しかできなかった。


 あっちの出口がセルジュに知られたら、そこから回り回って私の正体がばれるようなことになりはしないか。そんなことが気にかかって仕方がなかったのだ。


 いつかは自分が誰なのか話すつもりではあったけど、彼の手で正体を暴かれて、その結果幻滅されるのは絶対に嫌だ。それまで隠し通すのも、楽じゃなさそうだ。


 悩ましいことが勝手に増えていくし、解決策はちっとも見つからない。


 ひとまず私はそれらの問題を全部横に置いておくことにして、町人たちとの面会に精を出すことにした。要するに、現実逃避だ。


 毎日せっせと町人に会い、話を聞いて書類をまとめ、エミールに提出する。ひたすらにそんなことを繰り返しているからか、町の人たちもちょっと落ち着いてきたようだ。


 少なくとも、最初の頃のような熱狂した雰囲気は薄れている。


 人々を救うための偉大な存在である聖女から、みんなの困り事を親身になって聞いてくれる青年。私に対する人々の認識は、そんな風に変わってきているようだった。


 予想していなかった反応だけれど、これはこれで助かる。そうやってもっと落ち着いてきたら、またセルジュと町歩きに出られるかもしれないし。


 そうやって頑張っていたある日、エミールがそっと私を呼び出した。セルジュではなく、私だけを。




「ああ、楽にしていてください。セルジュには使いを頼みましたから、しばらく戻ってきません。実は、君と少し内緒話がしたかったんです」


 セルジュの執務室、私はそこにあるソファでお茶をごちそうになっていた。目の前の低いテーブルには、温かな湯気を上げるカップとお茶菓子が置かれている。


 ちらりと隣を見ると、とびきり大きな執務机が目に入る。その上には、相変わらずたくさんの書類が積み上げられている。


 私も一応は伯爵家の娘だったので、当主という立場は結構忙しいものなのだということは知っている。


 でもエミールの仕事量は、ちょっと多すぎるようではあった。


 亡き妻のとむらいの意味もあるのだと、彼は前にそう言っていた。そこに加えて私が毎日町人たちの悩み事を報告しているから、さらに仕事も増えてしまっているに違いない。


 でもあんなに働いて体を壊しはしないかと、それだけがちょっと心配だ。セルジュに言わせれば、エミールはほっそりとした外見の割には頑強らしいけど。


 それはそうとして、内緒話って何だろう。じっと様子をうかがっていたら、彼は小さな箱を私の前に置いた。小さなアクセサリーなんかを入れる、ビロード張りの箱だ。


「実は、バルニエ伯爵からこれが届いたのです。どうぞ、開けてみてください」


 うながされるまま箱を手に取り、開ける。黒いビロードの上に輝いているのは、雪の結晶をかたどった銀のブローチだった。


 きらきらしたダイアモンドと素晴らしく青いサファイアが輝いていて、とても美しい。でもごてごてしていないし小ぶりなので、普段使いもできそうな品だ。


「これはバルニエ伯爵が、娘のリュシエンヌのためにひそかに作らせていた品なのだそうです」


 驚きに息をのむ私を、エミールは穏やかな目で見つめていた。彼は私が、そのリュシエンヌであることを知っている。でも私は、それでもリュシアンとしてふるまい続けていた。


 そうして、彼は語り出す。このブローチにまつわる、様々な話を。


 父は私とエミールの結婚を取りつけた後、このブローチを急いで作らせたらしい。私の髪と目の色に合わせた、銀と青のブローチを。結婚祝いとして。


 そして結婚が決まった直後、父はエミールに、こんなことを言っていたらしい。


『私は焦るあまり、娘をとんでもないところに嫁がせてしまうところでした。あなたが申し出てくださって、本当に助かりました』


『あなたはうちのおてんば娘には過ぎた、とても立派な方です。どうか、娘をよろしくお願いします。あれは素直ではないし理屈っぽいし、とにかく淑女とはいい難い女性です。ですが心根はまっすぐな、自慢の娘なのです』


 その言葉に、私は幾度となく声を上げそうになっていた。あの父が、まさかそんなことを考えていたなんて。


 父は偉そうで不器用で、考えが古くて女を一段下に見ていて、おまけに若い頃は浮気ばかりしていた。それはもう、男性の駄目なところを煮詰めたような人物だった。


 あれを見て育ったからこそ、私は恋愛も結婚もこりごりだと、そう思うようになっていたのだから。


 でも、父は父なりに、私のことを愛していたと、そういうことなのだろうか。ほんの少し気持ち悪くはあるけれど、嬉しいという気持ちも確かにある。


 それにしても、父は本当に不器用だ。だったら、ちゃんと言ってくれればよかったのに。


 ある日突然、一方的に結婚許可証を突きつけるような無茶苦茶をするのではなく、これこれこんな訳でこんな方との婚約が決まったよと、そう言ってくれさえすれば。


 そうすれば私は、あんな風に逃げたりしなかったかもしれないのに。


 ……ああ、でも。もし私がそのままエミールに嫁いでいたら、セルジュは義理の息子だ。それはちょっと、複雑……というか、寂しいかもしれない。


 物思いにふけっていたら、エミールがまた言葉を続けた。


「やがて、このブローチが完成しました。けれど今もなお、リュシエンヌさんは行方不明のままです。そうしてバルニエ伯爵は、このブローチを私にたくしました。もし彼女が見つかったら、必ずそちらに連れていく。そのブローチは、その時まで預かっていてほしい、と」


 その言葉に、また何かの思いがちくちくと心を刺していく。これは罪悪感、かな。


 あの結婚から逃げると決めた時、父を困らせることは最初から納得していた。あれだけひどい人間なのだし、ちょっとは痛い目を見ればいいんだ。そんな風に考えていたことも否定しない。


 でも今はちょっと、その考えが揺らいでいた。


 エミールの厚意、とんでもない縁組から私を救い、自由にしてやろうという心遣いを踏みにじったから。


 セルジュの信頼、私のことをもっと知りたい、そのためにもっと一緒に過ごしたいという友情を裏切ったから。


 私は自由になりたい。その思いは今でも変わらない。でももっと、他にやりようがあったのではないかと、そうも思えてならなかった。


 具体的にどうすればよかったのか、最善の道はまだ分かっていないけれど、それでも。


 うつむいてぎゅっと唇をかみしめていると、向かいのエミールがいたずらっぽく言った。


「ところでそのブローチですが、落ち着いた雰囲気の品ですし、男性でも身に着けられそうですね?」


 どうしてそんなことを言い出すのだろうかと思いつつ、こくりとうなずく。私の手の中で、ブローチはきらきらと品の良い輝きを放っていた。


「ですので、それは君が持っていてください。バルニエ伯爵も、認めてくれますよ。せっかくですから、身に着けてみてはどうでしょう?」


 少しためらってから、ブローチをえり元に留めてみる。視界の端できらきらと輝く銀と青が、とてもしっくりくるのを感じていた。


「思った通り、よく似合っています。これで、これが君を呼んだ一つ目の問題が片付きました」


 ということは、少なくともあと一つ理由があるのだろう。お茶を飲みながら、エミールの言葉を待つ。


「そして、もう一つの問題ですが……」


 エミールは目を細めて、険しい顔になった。彼がこんな顔をするなんて、何かよほど、よくない話なのかな。


「……セルジュを、見守っていてはもらえませんか」

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