18.リュシアンという仮面
そうして過去の聖女の話を色々と聞いているうちに、ふと気になったことがあった。
今日の面会内容を書面に、ただし個人的なことは伏せて二人がかりで起こしながら、セルジュに問いかける。
「セルジュは聞いてた? その、過去の聖女たちのとんでもない奇跡について」
「聞いていない。たぶん、というかおそらく、マリオットの家にもあれこれ伝わっているんだとは思う」
書き終えた書類をまとめて、セルジュはふっと視線をそらす。
「……父さんはいつも、自分の目で見て、自分の耳で聞いたことを大切にしろと言っているんだ。俺が新たにマリオットの当主となったら、その時に伝えることがあるとも言っていた。たぶんその中に、聖女の話も含まれているんだろう」
「……ほんと、エミールさんっていい父親だと思うよ。それって、君の自主性と感性を重んじてくれているんだよね」
返ってきたのは、困ったようなうなり声だけだった。私がエミールについて褒めるたびに、彼はこんな反応をする。もうすっかり慣れっこになってしまったその声に、こっそりと笑いを噛み殺す。
「ところでさ、今日もたくさん集まったね。これ、どうしよう?」
「だいたいは、俺のほうで処理できる。父さんの手をわずらわせるまでもない」
「そうなんだ。……僕にも少しくらい手伝わせてよ。これでも一応学はあるほうだし、書類仕事くらいならできるからさ」
「ならば、言葉に甘えるとするか。一つ一つは簡単だとは言え、さすがに数が多いからな」
そうして二人、セルジュの部屋に向かっていった。ただ客人として滞在するのではなく、自分もこのイグリーズの、セルジュの役に立てる。それが不思議なくらいに、嬉しいと思えた。
それからも、私は町人たちに面会し続け、話を聞き続けた。
エミールには大いに感謝された。おかげで、今まで気づかなかった民たちの不満を解消することができます。とても助かっていますよ、と彼は言っていた。
私が結婚から逃げたせいで少なからずエミールにも迷惑をかけているのだし、ささやかであってもわびができて良かったと思う。
「……でも、さすがにちょっと、疲れたなあ。毎日話を聞いているだけなのにね」
今日の分の面会を終えた私は、屋敷の居間のソファに長々と横たわってため息をついていた。近くの椅子に座って本を読んでいたセルジュが、顔を上げる。
「ならば、気晴らしに町に出るか」
「やめとく。たぶん、みんなが集まってきて気晴らしどころじゃなくなりそうだから。……聖女の人気、かなり上がっちゃったよね」
「そうだな。……こんなことになると知っていたら、こんな風に面会するという提案を止めていたんだが」
「もう始めちゃったんだし、今さら止まれないよ。僕がみんなの話を聞くことで、エミールさんやセルジュの役にも立ってるんだし。まあ、宿賃代わりの労働だと思うことにする」
とはいえ、こうして屋敷にこもっているのもそろそろ限界だった。ごろりと寝返りを打ってセルジュのほうを向き、横たわったまま尋ねる。
「それはそうとして、気晴らしはしたい。ねえ、馬を借りられないかな」
それから少しして、私は借りた白馬に乗って草原を駆けていた。いつぞやセルジュと逃げ込んだ森の、すぐ外に広がっている草原だ。
こうして馬にまたがっていると、風がとても心地いい。普段より高いところから見る世界は、とても新鮮だ。
遠乗りは久しぶりだ。ああ、楽しいなあ。
「……ところでセルジュ、どうして君までついてきたのかな。イグリーズ周辺の地形はもう頭に入っているから、僕一人でも大丈夫だよ?」
「万が一ということもある。……いや、そうではなくて」
私が乗った馬の隣を、セルジュは栗毛の馬に乗って並走している。私の問いにすぐに答えてから、気まずそうに目をそらした。
「……俺も、気晴らしがしたかった。お前と一緒に」
どういうことだろう、と思いながら馬を止める。セルジュも同じようにその場に留まって、ぼそぼそとつぶやいていた。
「今でも、お前の考えていることはよく分からない。だが、お前が悪い奴ではないことは確かだと思う。俺はお前を……もっと知りたい。そのためにも、同じ時をもっと過ごしたい」
普通に言ってくれれば、わあそうなんだ、嬉しいよと返すことができただろう。
でもセルジュときたら、夏の木々を思わせる緑の目をやけに色っぽく伏せているし、その頬は髪の毛と同じくらいに真っ赤になっている。
普段は目つきの悪さに気を取られていたけれど、こんな表情をされると、嫌でも彼が男前なのだと意識せざるをえなくなってしまう。
彼は明らかに照れているし、とっても挙動不審になっている。こんな言葉を言い慣れていないのが丸分かりだ。
今のは、友人としてもっと私のことを知りたいという意味なのだと分かってはいる。けれど、なんというか、この状況でその態度と言葉は、ちょっと……。
リュシアンとしてふるまっている時の軽妙なお喋りが、喉に引っかかって出てこない。
私が初めてリュシアンと名乗ったのは、もう何年も前のことだ。それから一度だって女性だとばれたことはない。私の変装は完璧だった。見た目も、ふるまいも。
……もっとも、エミールには正体がばれているようだけれど。あれは仕方がない。だって相手が、あのエミールだし。
それなのに、セルジュとこうしていると、何かがおかしくなってしまう。リュシアンの仮面が外れそうになる。本来の、素のままの自分が出てきそうになる。今の私は、リュシアンを演じようとしているのに。
駄目だ、ごまかさないと。私の正体は、絶対にセルジュには内緒だ。こうやって友人として一緒にいるこの時間が好きだから。
私がリュシエンヌ・バルニエだとばれたら、きっと彼は今まで通りには接してくれなくなる。それは、彼が女性慣れしていないからというだけではない。
彼はとてもまっすぐで、嘘やごまかしは嫌いだ。彼がリュシエンヌの身を案じていたことを知っていながら、私がなおもリュシアンであり続けたことを知れば、きっと彼は私のことを嫌いになってしまう。それは嫌だ。
少しでも早く平静を取り戻そうと、深呼吸する。よし、大丈夫。この分なら、すぐにリュシアンに戻れる。
ところが、そうしていたらなぜかセルジュの姿が近づいてきた。なんで、どうして。
再びあわてながら周囲を見て、すぐにその原因に気がついた。私たちが乗っている白馬と栗毛の馬が、勝手に歩み寄っていたのだ。のみならず、仲良く毛づくろいをし始めた。
「……父さんが、お前たちの伴侶をどうするか悩んでいたが……そうか、お前たちがつがいになるのか。似合いだな」
どうやら立ち直ったらしいセルジュが、そう言って馬たちの首をかいてやっている。とても優しい目だ。
一方の私は、さらに動揺してしまっていた。この状況で伴侶とかつがいとか、そんな言葉をさらりと出さないでほしい。馬の話だと分かっていても、心臓に悪い。
ん? でも待って、そういう言葉で動揺するってことは、もしかして私は……。
「セルジュ、思い出した。案内してほしい場所があったんだった」
一瞬頭をよぎったおかしな考えを振り払って、ことさらに明るい声を張り上げる。セルジュと目が合った拍子に心臓がぴょこんと跳ねた気がしたけれど、どうにか踏みとどまることができた。
よかった。私はもう少し、リュシアンでいられる。にっこりと笑って、手綱をしっかりと握った。