15.聖女様は民の希望
それからは、奇妙なくらいに穏やかな日々が続いていた。自分がどうしてマリオットの屋敷に留まっているのか、忘れそうになるくらいに。
毎日セルジュと一緒に、イグリーズの町をぶらぶらした。
おかげでこの町の地理についてもすっかり詳しくなったし、行きつけの店なんかもできた。ちょうど、以前ルスタの町で遊んでいた時のように。
けれど、ルスタにいた頃とは違うこともあった。
あの頃私は、しょっちゅう他の女性に声をかけ、一緒に過ごしていた。
でも今は、あいさつやちょっとした世間話をするくらいで、女性を遊びに誘うことはなくなっていた。もちろん、セルジュが嫌がるからだった。
セルジュと女の子たち、どちらかしか選べないのならセルジュかなと、私は自然とそう考えているようだった。
彼と男同士……私は本当は女だけど……わいわいやるのは、とっても楽しかった。たぶん今の私たちは、はたからは仲のいい友人同士に見えているだろう。
けれどある朝、事態がとうとう動き出した。
いつもと同じように身支度を整えて離れを出る。中庭を歩いて屋敷に近づくにつれ、いつもと違うざわめきが聞こえ始めた。
立ち止まって耳を澄ませる。どうやらそのざわめきは、玄関のすぐ外から聞こえているようだった。あの感じだと、一人二人ではなくたくさんいるな。
どうしたのかなと思いつつ、いったん屋敷に入って、内側から玄関を目指す。やがて、人々が話している内容がはっきりと分かるようになってきた。
「エミール様、私たちは聖女様に一目会わせてもらいたいんだ」
「あの祭りの時に降臨された聖女様は、こちらにおられると聞きました」
「よくセルジュ様と町を歩かれていて……声をおかけしたかったんですけど、どうしても勇気が出なくて……」
どうやら玄関の外に集まっているのは、聖女様、つまり私に会いにきた町人たちのようだった。
彼らの口ぶりによると、どうも少し前から私が聖女だという噂が町に流れていたらしい。当然ながら、町民たちは私のことが気になってしょうがなかった。
でも私のそばには、いつもセルジュがいた。ちょうど、私の護衛のように。
そんなこともあって声がかけ辛かったらしい町人たちは、朝っぱらからマリオットの屋敷を訪ねることにしたようだった。そういえば最近、町中でやけに視線を感じるとは思っていた。
これ、どうしよう。私が顔を出して少し話せば、たぶん納得して帰ってくれる……とは思う。でも面と向かって聖女だなんだと呼ばれることを想像したら、背中がむずがゆくなってきた。
「どうした、リュシアン。こんなところで」
「うわっ!?」
廊下の曲がり角にひそんで玄関の様子をうかがっていたら、いきなり背後から声がした。びっくりして飛び上がった拍子に、大きな声が出てしまう。うっかり「きゃあ」と女らしく叫ばなかった自分を褒めてやりたい。
「お、驚かせるなよ、ああ、びっくりした……」
振り返って一生懸命に息を整えながら、きょとんとしているセルジュを見上げてにらみつける。
と、さっきまでざわざわしていた玄関が、すっかり静かになっていることに気づいた。
嫌な予感がする。セルジュの眉間に、ゆっくりとしわが寄っていく。背後にたくさんの気配を感じる。うわあ、後ろを確認したくない。
「聖女、さま……」
割と近くから、そんな声がした。そろそろと振り向くと、そこには町人たちの姿。みんな目をきらっきらに輝かせて、私をまっすぐに見ている。その向こうに、ちょっと申し訳なさそうなエミールの顔。
「間違いない、この方こそあの祭りの日、祭壇に降臨された聖女様だ!」
誰かがそう言った次の瞬間、町人たちが一斉に動いた。みんなして私を取り囲み、聖女様聖女様と連呼しながら、何やら言っている。
とても騒がしくて、誰が何を言っているのかさっぱり分からない。でも必死に耳を澄ませると、私たちをお救いください、とか、この乱れた世を安らかにしてください、とかそんな感じの言葉がどうにかこうにか聞き取れた。
それはそうとして、この状況は嬉しくない。私をぐるりと取り囲む人垣の向こうに、セルジュの顔が見えた。彼は背が高いから、こんな状況でも顔がはっきり見える。ものすごく戸惑っている。
セルジュをまっすぐに見つめて、助けて、と視線だけで必死に訴える。彼はやはり戸惑いつつ、そろそろと人垣に割って入ろうとしている。あ、はじき出された。
仕方ないので、私のほうからじりじりと彼に近づいていくことにした。私を取り囲んでいる人垣も一緒についてくるのがなんとも恐ろしい。
手を伸ばせば届きそうなところまできているのに、あとちょっと、セルジュに近づけない。
「手を上に伸ばせ、リュシアン!」
覚悟を決めたような顔のセルジュが、突然そんなことを叫んだ。
訳も分からずに両手を上に伸ばすと、いきなり上に引っ張られた。ちょうど、大根か人参を引っこ抜く時のように。
そうしてそのまま、宙を横向きに引っ張られていく。このめちゃくちゃなふるまいにさすがの町人たちもひるんだようで、おとなしく道を開けてくれた。
やがて、体がぽすんと何かにぶつかる。見ると、セルジュがそのがっしりした手で私をぶら下げていた。獲物のイノシシか何かを運ぶ時のように。私は引っ張られた勢いで、彼の体にぶつかっていたらしい。
どうやら彼は、人をかき分けるのは難しそうだと判断して、人の上を通って私を引っこ抜こうと考えたらしい。
身長の高い彼ならではの助け方ではあるし、見事な腕力だなあとは思うけど、この体勢はちょっと。降ろしてほしい。
そう抗議しようとしたら、セルジュはいきなり私を抱き上げた。こう、右手で背中を支え、左手をひざの下に入れて支える……恋愛ものの小説の挿絵でしか見たことない、そんな抱え方……。
「えっと、セルジュ?」
「つかまってろ」
言うが早いか、彼は駆け出した。私をしっかりと抱きかかえたまま。
下手に暴れると落ちそうなので、仕方なく彼の首元にしっかりと腕を回す。予想よりもずっとたくましくてしっかりした感触に思わずどきりとしたけれど、今はそれどころじゃないのでいったん忘れる。
セルジュは廊下を駆け抜け、中庭に出て、そのまま裏門に向かっていく。呆然とした守衛が門を開けると、そのまま敷地の外に飛び出していった。
マリオットの屋敷は、イグリーズの町の中でも外れのほうにある。屋敷の裏門から出たら、そこはもういきなり町の外だ。ほぼ自然のままの草原が、辺りには広がっている。
それでも彼はまだ止まらず、近くの森の中に突っ込んでいく。しばらく走って、ようやく立ち止まった。
「……ここまで来れば、さすがにあいつらも追いかけてこないだろう」
彼は私をそっと地面に下ろすと、深々と息を吐いた。さすがの彼も、ちょっと疲れたようだ。というか私のほうも、すっかり体がこわばってしまっている。伸びをしながら、セルジュに声をかけた。
「ごめん。いや、ありがとう。さすがにさっきは、かなり困ったから」
「いつかお前のことが噂になるだろうとは思っていたが、まさか町人がいきなり屋敷に押しかけてきて、しかもあんなに熱心に迫ってくるとはな……」
さっきの町人たちの大騒ぎを思い出して、二人同時に身震いした。聖女のことがいずれ噂になるだろう、そして私たちのところに町人たちがやってくるだろう、その辺りまでは予想していた。
でもまさか、あんなことになるなんて。予想外だ。
「……それだけ、民の不安は大きいのだな……やはり、俺が動かないと……」
セルジュがひどく苦しげに目を伏せて、ぽつりと弱々しくつぶやいた。いつもと違うその様子に、ただ黙って見守ることしかできない。
明るい森の中、二人黙って立ち尽くす。何か声をかけたいと、そう思った。でも何をどう言ったらいいのか分からない。
ただ、彼がこんな風に思い詰めているのは嫌だなと、そう強く感じていた。
彼の濃い緑色の目、周囲の木々にも負けないほど生き生きとした目が、ふと私をとらえる。彼は驚いたようにはっとした顔をして、それからふうとため息をついた。
「……いや、余計なことを口にした。忘れてくれ。ひとまず、ここでしばらくおとなしくしていよう」
そう言って、彼は近くの草地に腰を下ろしてしまった。もうすっかりいつも通りの雰囲気だ。
それでも私は、すぐに動けずにいた。さっきの彼は、明らかに何かを思い悩んでいた。
その悩みが何なのか知りたい。もしかしたら何か、手助けできるかもしれない。そんな思いが、まだ胸の中に渦巻いていたから。