14.エミールの真意
それからしばらく、私はのんびりと暮らしていた。マリオットの屋敷に滞在して、セルジュと一緒にイグリーズの町をぶらぶらする。
エミールは毎日執務に忙しいらしく、顔を合わせるのは朝晩の食事時くらいのものだった。
それでも、彼が悪い人物ではないということにはすぐに気づけた。愛想よくふるまえないだけで、心根はまっすぐな人なのだと、私はそう判断していた。
無理をして距離を縮めなくても、このままでも快適だなとも思っていた。
……というか、一時は結婚させられそうになった相手と、どんな顔をして話せばいいのか分からなかった。たとえ、相手がそのことに気づいていないとしても。
ところがそんなある日、エミールが私をお茶に誘ってきたのだった。
マリオットの屋敷の中庭の一角に、小ぶりなあずまやが建っている。優雅なテーブルと椅子が置かれて、お茶の準備がされていた。
エミール、セルジュ、それに私。私たち三人はあずまやで香り高いお茶を飲み、お菓子をつまんでいる。
セルジュは相変わらず、エミールに対してはよそよそしい。父に反発しまくっていた私が言えたことじゃないのだけど、ちょっと大人げない態度だなとも思ってしまう。
「……リュシエンヌ・バルニエが、行方不明になったという知らせが届きました」
何の前置きもなく、エミールが静かに言う。びっくりして、お茶を吹き出しそうになった。
「彼女が予定の期日になってもここに来ないので、気をもんでいたのですが……」
「父さん! どういうことなんだ!」
セルジュがせっぱつまった表情で、エミールに食って掛かっている。
「彼女はこちらに向かう途中、外の空気を吸いたいと言って馬車の外に出たのだそうです。そうして足を滑らせて、湖に落ちたのだとか……バルニエの方々は彼女をずっと探していますが、いまだに手がかり一つ見つかってはいません」
どうやら見事なまでに、私の思惑通りの状況になっているようだった。……エミールとセルジュに知り合うことさえなければ、私は両手を挙げて大喜びしていただろう。
しかし今は、何とも言えない複雑な気分だった。二人に心配をかけてしまっている。私が自由を求めて逃げ出した、そのせいで。
「……父さんの、せいだろう」
セルジュの押し殺したような声がした。おそるおそるそちらに目をやると、濃い緑の目をらんらんと光らせているセルジュが見えた。テーブルの上に置かれた彼の手は、音がしそうなほど堅く握りしめられている。
「親子ほども年の離れた、しかも年上の息子がいる男にわざわざ嫁ぎたい娘など、いないに決まってるだろう」
押し殺した怒りをたたえた声で、セルジュは低くうなる。猛獣のような、そんな姿だった。エミールはやはり静かな目で、そんな息子を見つめていた。
「きっと彼女は、父さんのもとに嫁ぐのが嫌で、身を投げたんだ」
半分当たっている。でも半分間違っている。とりあえず、エミールに怒りをぶつけるのはおかど違いだ。そもそも私は、こうして生きているのだし。
でもそのことを言う訳にはいかない。私はまだ、自由をあきらめたくない。でも、この二人が争うのも嫌だ。止めなくちゃ。
身を乗り出して、今にもエミールに殴りかかりそうになっているセルジュの前に割り込む。手を振ってセルジュの視線を少しでもさえぎりながら、あわてて口を挟んだ。
「あ、あのさ、僕はこっちにくるちょっと前に、バルニエ領にいたんだ。ほら、ルスタの出だって言ったろ?」
セルジュがきつい目つきのまま、こちらを見る。濃い緑の目に射抜かれたような錯覚に、思わず後ずさりしそうになった。
「それで、ええと、その……リュシエンヌお嬢様? の話も聞いた。なんでも、自由になりたくてしょっちゅう脱走する、そんな人だったらしいよ。結婚の話が決まる、ずっと前から。気も強い人だったみたいだし」
伝え聞いた話っぽくなるように注意しながら、自分で自分の話をする。難しい。
「だからその、身を投げたとかそういうんじゃなくて、隙をついて逃げ出したとか、そういうのだと思うよ」
セルジュの目つきが、少しだけ和らいだ。私の言葉に、少し冷静になりつつあるらしい。よし、もうひと押し。
「町の人たちは噂してた。お嬢様はとってもおてんばで、伯爵様はいつも頭を悩ませてたって。そんなお嬢様が、たかだか結婚くらいで死ぬ訳ないって。それくらいなら、どこか遠くに逃げ出すほうを選ぶだろうって」
自分の悪口を言うのって、地味に気持ち悪い。うっかり余計なことを言わないか気をつけながらだから、なおさら。
けれどそのかいかって、セルジュは少し落ち着きを取り戻したようだった。相変わらず難しい顔をしているけれど、エミールをぶん殴りそうな気配は消えた。
エミールもまた、私の言葉を吟味しているようだった。やがて彼は、いつも通りの落ち着いた口調で言った。
「セルジュ。お前の気持ちは分かりました。もしリュシエンヌ・バルニエが見つかったら、その時は結婚をどうするかについて、彼女と話し合って決めると誓いましょう」
その言葉がとどめになったらしく、セルジュは大きく息を吐くと、お茶を一気にあおった。
「……少し、頭を冷やしてくる。リュシアン、すまないが父さんの相手を頼んだ」
そう言って、セルジュは足早に立ち去ってしまった。どうしよう、と思いながら、そろそろとエミールを見る。
彼は落ち着き払った様子で優雅にお茶を飲んで、それから遠くを見るように目を細めていた。彼の視線の先には、季節の花々が咲き誇る見事な花壇があった。
セルジュのほうも気になるけれど、エミールを頼むと言われてしまった。エミールが何を考えているのかも気になるし、仕方なく同じようにお茶を飲む。
「……セルジュには話していないのですが、私はリュシエンヌ・バルニエをお飾りの妻にするつもりでした」
と、エミールが淡々とそんなとんでもないことを言った。
唐突にそんなことを言われて驚いた拍子に、今度はクッキーのかけらを吸い込んでしまう。ひとしきりせき込んでいた私が落ち着くのを待ってから、エミールは言葉を続けた。
「私は、病に苦しむ妻に何もしてやれませんでした。日に日にやつれていく妻を見るのが辛くて、中々あの離れに足を運ぶことができませんでした」
そう語るエミールの目には、真新しい悲しみが浮かんでいた。
彼の妻は、セルジュの母は五年前に亡くなったのだと聞いている。でもエミールの心の中には、まだその悲しみは色濃く残っているのだと、一目でそううかがい知れた。
「そうして、妻は亡くなりました。彼女の最期の言葉は、『私はあなたのおかげで幸せだった。どうかこれからは、セルジュを、そしてみんなを幸せにしてあげて』でした。とても優しく穏やかに微笑みながら、彼女は天に召されていきました」
彼の口調は、底抜けに優しい。普段は無表情のその顔に、心底懐かしそうな笑みが浮かんでいた。彼は亡き妻を本当に愛していたんだな。そんな風に思える相手がいたということが、うらやましいと思えた。
「私はそれから、慈善事業に明け暮れました。通常の執務に加えて、孤児院やら救民院やらをあちこちに作り、運営して……自然と、執務室にこもる時間が長くなっていきました。妻の最期の願いをかなえる。それを免罪符のようにして、私はひたすらに働き続けたのです。悲しみから、顔をそむけるために」
エミールの声が、徐々に暗くなる。
私がこの屋敷に来てから、エミールを執務室と食堂以外のところで見かけることはめったになかった。遊び歩いているうちの父とは大違いだな、といつも思っていた。
でも、そんな事情があったのか。エミールは、ずっと苦しかったんだろうな。
「そんな折、リュシエンヌ・バルニエの噂を聞きました。彼女の父である伯爵は彼女のことをもてあましてしまい、どうにかして嫁ぎ先を探そうと、あちこちに働きかけているのだという話でした。その結果、かなり問題のある人物との結婚がまとまりかけていたということも」
その言葉に、しんみりしていたことも忘れてつい驚きの声を上げそうになる。えっ何、私知らない、その話。
「彼女を救ってやりたいと、そんなことを思いました。ちょうどセルジュと同じ年頃で、母もおらず一人でいる令嬢。初めて話を聞いた時に、私は彼女のことを、まるで娘のように感じてしまったのです」
彼の目元が、またほころぶ。その笑みはかすかなものでしかなかったけれど、うちの父のものよりもずっとずっと優しいもののように思えた。
「彼女は、自由を欲しているとも聞きました。……だから私は、彼女を手元に呼び寄せ、飾りの妻とした上で自由にさせてやろうと思ったのです」
呆然としたまま、思わずエミールをまっすぐに見つめる。彼は相変わらず花壇に目をやったまま、穏やかに言った。
「彼女がここに残ることを望むのなら、ここにいればいい。もしも出ていくことを望むのなら、必要なものをそろえて送り出してやろう。そう考えていました」
エミールの眉間に、うっすらとしわが寄る。私は、何も言えなかった。
「ただ、これが普通とはかけ離れた考えであることは承知しています。ですので、セルジュには何も言わなかったのですが……そのせいで、あの子に不信感を持たれてしまったようです」
そうして、彼は口を閉ざした。思いもかけない事情に、まだ頭がついていっていない。でも二つだけ、確かなことがあった。
エミールはきちんと考えた上で、私と結婚しようとした。彼が愛しているのは亡き妻だ。
ああ、あともう二つ。セルジュはその事情を知らない。そのせいで、彼は父親のことを誤解している。
「あの……どうして、僕にその話を? その、セルジュにそのまま、伝えればいいのでは……」
「何となくですよ。私はこの話を、君に聞かせたかったのです。セルジュはまだ、聞く耳を持たないでしょう。少し時間をおいて頭が冷えてから、きちんと話そうと思います」
彼は明るい緑の目で、ちらりと流し目をよこしてくる。その意味ありげな目つきで、悟った。彼は私の正体に、もう気づいているのだと。
もしかしたらエミールは、リュシエンヌのことも調べていたのかもしれない。どんな見た目をしているのかとか、そんなことを。
それから何をどう考えて判断したのか分からないけれど、彼の頭の中では伯爵令嬢リュシエンヌ・バルニエと謎の旅人リュシアンが、もう結びついているのだろう。
そんなことを考えながら、そっと声をかけた。
「……リュシエンヌ様があなたの思いを知ったら、きっと感謝すると思います。そうと知っていたなら逃げなかったのにと、彼女はそう考えている。僕にはそう思えてなりません」
私の言葉に、エミールはにこりと微笑む。
「そうであれば、嬉しいですね」
「きっとそうですよ」
それきり私たちは、何も言わずにただお茶を飲んでいた。でもその沈黙は、さっきのものよりもずっと居心地のよいもののように感じられていた。