12.ちょっとした乱闘
少々治安の悪い区画で、うっかり出くわした二人の酔っぱらい。彼らは私たちにからんできた。というか、私を連れていこうとしているらしい。
セルジュは私と男たちの間に割って入ったまま、肩を怒らせて立ちはだかっている。ところが男たちは、ちっとも引こうとしなかった。それどころか、さらにいきりたってしまっている。
「うるせえな、あんたには聞いてねえんだよ!」
そう怒鳴って、男の一人がセルジュの胸倉をどんと小突いた。もしかしてこの男たち、よそ者なのかな。どうも、セルジュの顔を知らないみたいだし。
「ああもう、酔いがさめちまっただろうが。むかつくぜ」
「だったらあんたが、俺たちの相手をしてくれよ、な!」
すっかり頭に血が上ってしまったらしい男たちが、同時にセルジュに殴りかかる。
しかしセルジュはそれをあっさりとかわし、すっと片足を引いて身構えている。あ、セルジュって結構強いんだ。そんなことが一目で分かる、安定した構えだった。
「セルジュ、僕も加勢するよ」
すっとセルジュの隣、彼の死角をカバーできる位置に立ち、ベルトにからめていた革紐を外して握る。
「お前は下がっていろ」
「嫌だね。そもそも、この人たちには大分失礼なこと言われたし」
そんなことをささやきあっていたら、男たちが殴りかかってきた。しかも、二人同時に私に向かって。卑怯な奴らだ。
あわてず騒がず二人分の攻撃をかわして、手にした革紐を振り回す。ベルトと同じくらい幅のあるこの革紐は袋状になっていて、端には金属板を入れてあるのだ。ちなみに私のお手製だったりする。
鈍い音と共に、革紐の端、金属板が入っているほうの端っこが男の一人に命中する。うん、側頭部にいい感じの一撃が入った。
めまいを起こしたのかよろめいている男のどてっ腹を、すかさずセルジュが殴り飛ばす。男はそのままふっとんで、地面でうめいている。
わあ、すごい力だ。背が高くてがっしりした男性だと、一発殴っただけでこんなに威力が出せるのか。いいなあ。
あっという間に一人片付いたことにおじけづいたのか、もう一人が大あわてで逃げていく。
「……まったく、口ばかりだな。あれならお前のほうが、よっぽど根性があるぞ。しっかりと武器まで用意していたとはな」
「そうかな? 自分の誇りを、主張を貫きたいんなら、それなりに力も必要だからね。でも僕は見ての通り、男性としては非力な部類に入る。だから、武器を用意して、戦う練習をしておいた。それだけだよ」
ちょうどその時、騒ぎを聞きつけたらしい衛兵たちが駆けつけてきた。
彼らはセルジュがこんなところにいることに驚いているようだったけど、それでも私たちから状況を聞いて、倒れている男を引っ立てていってくれた。
そうして私たちも、その場を後にした。セルジュがまじまじと私を見て、興味深そうにつぶやく。
「それにしてもお前、意外といい身のこなしだった。豪商の息子か何かだと思っていたが、そんな訓練もするのか?」
どうやらセルジュは、私に興味を持ち始めているらしい。どうしよう、そのまま話そうか、それともごまかしてしまおうか。
少し悩んで、話し始めた。人通りの少ない道を、二人並んで歩きながら。
「僕は子供の頃に、訳あって家を抜け出したんだ。そうして、年老いた狩人と出会った。それをきっかけとして、僕は彼のところに足しげく通い、様々なことを教えてもらうようになったんだ。彼は、僕の恩人なんだ」
あれは、私が九歳の時のことだった。お母様からの手紙が、ひそかに私のもとに届けられたのは。
それを読んで、私は混乱した。お母様は私が赤子の頃に亡くなったと聞いていたから。実は生きていて、しかも隣国ソナートの王妃になっているのだと言われても、さっぱり訳が分からなかった。
その頃既に、私と父の仲は疎遠になっていた。令嬢としての型に押し込められるのをきゅうくつだと感じる私と、何が何でも箱入りの令嬢として育てようとする父。
だから、その手紙について父に相談する気にはならなかった。むしろ、お母様が生きているのなら、そちらで暮らしたいとさえ思った。
でも私は、お母様の顔すら知らない。どうすればいいのか分からなくなってしまって、一人で屋敷を飛び出した。手紙をしっかりと抱えたまま。
近くの森に駆け込んで、何も考えずにめちゃくちゃに走って。
そうしてたどり着いた森の奥の空き地で、彼に出会った。ふわふわでたっぷりとした真っ白なひげに同じ色の髪の、優しそうな老人だった。
彼は突然現れた貴族の少女に驚いているようだったけれど、私に薬草茶を勧めてくれて、話を聞いてくれた。特に何か助言してくることはなかったけれど、ただじっと話を聞いてくれた。
そうやって話しているうちに、ようやく私も落ち着くことができた。
手紙の返事を書こう。お母様とどう接していけばいいのか分からないけれど、そうやって連絡を取っていれば、いつか心も定まる。そんな気がした。
だから礼を言って、その場を後にした。彼はとても優しく、穏やかに笑っているだけだった。
けれどそれから私は、彼のもとに足しげく通うようになった。彼のそばは、とても居心地が良かったから。
彼はティグリスという名と、狩人であること以外何も明かしてくれなかった。けれどその代わりとばかりに、彼は様々な知識や技術を教えてくれたのだ。
身の守り方。旅の仕方。野山で食料を得る方法。私が次々と物事を覚えていくのが楽しかったのか、彼は野で生きていくのに必要な事柄を、惜しみなく伝えてくれた。
その中には、崖やら木やらを、ロープ一本で上ったり下りたりする方法もあった。先だっての大脱走が成功したのも、彼のおかげだ。
「でも彼は……ティグリスおじさんは、数年前にいなくなってしまった。でもそれからも、僕は彼に教えられた通りに鍛錬を続けているんだ」
彼がどうなったのかは知らない。ある日突然、彼はぱったりと姿を消してしまったのだ。
もしかしたら、年を取って狩人暮らしが辛くなっただけで、どこかの町でのんびりと暮らしているのかもしれない。私はそんな希望を、まだ捨てていなかった。
屋敷を飛び出してあちこち旅をすれば、また彼に会えるかもしれない。そう思っていたのになあ。まさか、出だしでいきなり足止めをくらうなんて。
私の話を聞き終えたセルジュは、しみじみと、とても優しい声で言った。
「そうだったのか。……お前は、いい師にめぐりあえたんだな」
「僕もそう思う。ティグリスおじさんがいなかったら、今の僕はないよ」
「しかしついでに、お前の軽いところも治しておいてもらったほうがよかったんじゃないか?」
「あはは、さすがにそれは無理だよ」
冗談なのか本気なのか分からないセルジュの言葉を、軽くかわして笑う。それから、ちょっと声をひそめて、静かに付け加えた。
「……僕が彼のことを話すのは、初めてなんだ。内緒にしておいてもらえると嬉しい」
「ああ、構わない。……知られると、何かまずいことでもあるのか?」
「ないよ。ただ、その思い出はずっと、僕の心の中だけにしまっていたから……今さら、他人に不用意に踏み荒らされたくない。そんなところかな」
その言葉に、セルジュは妙に真剣な、重々しい表情でうなずいていた。そうやってそっとしておいてくれるのが、今の私はとてもありがたかった。