1.気の滅入る日常
「聖女様が、降臨なされたぞ!」
逃げて逃げて逃げ回った先で私を出迎えたのは、たくさんの歓声だった。
全く訳が分かっていない私をよそに、人々はこれでもかというくらいに大喜びしていた。とっても、幸せそうな顔で。
この時の私は、自分がどれだけ面倒なことに巻き込まれつつあったのか、まだ気づいていなかった。
ある日、私は屋敷の自室でのんびりくつろいでいた。ふかふかのソファに腰かけて、本を読んだり裁縫をしたり、気ままに過ごしていたのだ。
と、いきなり入り口の扉が勢いよく開いた。そこには、怒りに顔を真っ赤にした父が仁王立ちしていた。
「リュシエンヌ、これはどういうことだ!!」
父は手にした手紙らしきものをこちらに突きつけて、大声で怒鳴っている。
「先日の見合いの返事が来た! 『そちらのお嬢様はたいそう馬と仲が良くていらっしゃる。うちの息子よりも、馬のほうがお似合いでしょう』とな!」
……ああ、やっぱりその話か。こないだ会った令息は、それはもう最低の男だった。見合いが駄目になって、本当に良かった。
こっそりと安堵のため息をつきながら、冷静に説明する。これ以上父を怒らせないように注意しながら。
「……先日私は、遠乗りに誘われました。二人乗りを提案されたのですが、初対面の方との二人乗りは恥ずかしいですから……丁重にお断りして、もう一頭馬を用意してもらったんです」
ああ、思い出すだけで気持ちが悪い。あの令息ときたら、なめまわすような目で私を見ていて……二人乗りなんてしたら、間違いなくどさくさにまぎれてあちこち触られるに決まっている。
必死に主張して、どうにかそんな事態だけは回避した。けれど令息は、そのことが大いに気に入らなかったらしい。
彼は馬に乗ると、どんどん先へ進んでいってしまったのだ。森の中の道なき道を進み、高い岩山の上まで。こんなところを走らされる馬がかわいそうだと思いながらも、私はついていくしかなかった。
そうして日が傾き始めた頃、彼は岩山のてっぺんで言い放った。それではここで、お別れといたしましょう、と。
ぽかんとする私を置いて、彼はさっさと立ち去ってしまった。どことなく勝ち誇った笑みを浮かべていたのは、気のせいではなかっただろう。
どうやら彼は、二人乗りを拒まれた仕返しに、私をここに置き去りにすることにしたらしい。
まったく器の小さい男だとあきれながら、私は手綱をしっかりと握りしめた。そうして一人で、無事に帰ってきたのだ。
「あの方に誘われるまま馬を走らせていったら、険しい山に入り込んでしまって……しかもあの方とはぐれてしまったんです。日が暮れる前に戻らなくてはと、ただ必死で……」
腹の中で考えていることとも、実際にあったこととも違う内容を、できるだけしとやかにそれっぽく話す。困惑しているような表情を作って。
しかし父は、さらに難しい顔をして問いかけてきた。
「……あちらの令息は、次の日の夕方にようやく戻られたそうだ。落石があって帰り道がふさがれていたとかでな。だが、お前は当日の夕方に戻ってきた。どういうことだ」
「私、無我夢中で……覚えていないんです。馬任せで走っていたようなものでしたから」
こちらは、まるっきりの嘘だった。私は冷静に周囲の地形を確認して、来た道よりも安全に戻れる別の道を見つけだした。そして悠々と、そちらから帰っただけだ。
私は、ここバルニエ伯爵家の一人娘だ。でも私は、そんな身分にはまるで似つかわしくない数々の技術を身につけていた。かつて、私にそれらの技術を授けてくれた恩人がいるのだ。
乗馬の技術も、野山で道を見つけ出す技術も、その恩人に教わったものだ。私は他にも、もっと色々なことができる。
もちろん父は、そんなことは知らない。知ったらたぶん、私が令嬢らしからぬことをしないように厳重に幽閉すると思う。父はそういう人間だ。
そんな目にあいたくはないので、こうやって一生懸命に猫をかぶっているのだ。幸い父は勘が鋭いほうではない。むしろかなり鈍いほうだ。
今回もどうやら、私の言い訳を信じてくれたようだ。しかし父の顔色は、相変わらず真っ赤のままだった。それどころか、その肩が小刻みに震えている。
「……お前の見合いが失敗するのは、これで何度目か……もう、まともな家との縁談は残っておらん。このままではお前は、間違いなくいき遅れだ!」
そうなったらそうなったで、別に構わない。そんな本音をのみ込んで、しおらしく悲しんでいるふりをする。ああ、毎度毎度こうやって自分を偽るのにも疲れた。
そもそも私は、恋とか愛とか、家庭を作るとか、そういうことにはこれっぽっちも興味はない。それも、ほとんど父のせいでこうなったというのに。
私が赤子の頃に父が浮気して、それを悲しんだお母様が修道院にこもり、父は激怒してお母様を離縁した。
そこから何がどうなったのか、お母様は隣国ソナートの王子にみそめられて、今では元気に隣国の王妃をやっているのだ。そんな複雑な家庭で生まれ育った私が、恋愛に夢を抱けなくなっても当然だと思う。
けれど私も、もう十七歳。そろそろどこかに嫁いでもおかしくない年頃だ。そのせいで、見合いの話が次々と舞い込むようになっていた。
そうして私は、あちこちの令息と顔を合わせるはめになった。結婚を前提として。
そしてその経験は、私から恋愛への、結婚への興味をさらに失わせるには十分すぎるものだった。
貴族の令息たちときたら、誰も彼も軟弱で、上辺をとりつくろうことばかり気にして、女のことを一段下に見ているのが丸分かりで。うちの父にそっくりだ。あんなのの妻になるなんて冗談じゃない。
……どこかに、信頼に足る男性がいないかなあ。私のことを対等に扱ってくれて、本当の私を受け入れてくれて、悩み事なんかも素直に話せる、そんな人が。
もっとも私だって、ただの夢見る乙女ではない。そんな夢みたいな相手、そうそう転がっていないことくらい分かっている。残念ながら。
「……ともかく、お前はここでおとなしくしていろ。私に、考えがある」
ものすごく不機嫌そうな低い声でそう言い放って、父が去っていく。どたどたと、足音も荒く。最後にばんと大きな音を立てて、扉が閉まった。
「ああもう、最悪の気分だわ」
ようやく静かになった室内で、一人つぶやく。先日の見合いのことを思い出してしまったことも、父の怒鳴り声を聞かされたことも、またしても猫をかぶるはめになったことも。
こういう時は、気晴らしをするに限る。ソファから立ち上がり、壁に作りつけられた豪華なクローゼットを開ける。上半身をもぐり込ませるようにして、一番奥に隠してある袋を取り出した。
中身は革のベスト、男物の服一式、それに編み上げブーツ。貴族のものほど豪華ではなく、平民のものにしてはちょっと上等だ。
この革のベストは、体の凹凸を隠してくれる特製下着なのだ。そして服もブーツも、私の大きさに合わせてある。
普段着のドレスを脱ぎ捨てて、ベストを身に着ける。それから服とブーツをまとって、長い髪を首の後ろで縛る。姿見の前に立って、全身を確認した。
ゆるく巻いた銀色の前髪がおしゃれな、青い目の青年がこちらを見返している。
長いまつ毛にぱっちりとした目、凛々しい顔立ちの、きゃしゃではあるけれど生き生きとした美青年だ。我ながら見事な化けっぷりだと思う。
「うん、いい感じ。さあて、遊びにいこうか」
窓を開けて、目の前にせり出した木の枝をつかむ。そのまま窓の外に身を躍らせて、するすると木を降りていく。もうすっかり身に染みついた、慣れた動きで。
いつもと同じように屋敷を脱走した私は、すぐ隣にある町へと歩いていった。少しずつ気分が軽くなっていくのを、感じながら。