2・笹原保険
全く怖くありません、まだ
ふぅ。足が重い。街灯に照らされた夜道を歩く。もう春だというのに、風は一向に冷たく、それがまた夜の不気味さを盛り上げる。正直、ホラー映画の類は苦手だ・・・。あんなもの見て、なんになるというのだ?お化け屋敷に入って、それが楽しいとでも言うのか?くだらない事を考えながら、重い足を前に進める。
今日も疲れた。あの後、課長に長々と小言を言われたり、外周りに行ったりして体力がほとんど残っていなかった。課長の小言を聞き流しながら、僕は生命保険になんて入ってやるものかと、ひそかに心に決めたが・・・。カーブミラーに映った自分の顔を見る。
(ハハハ、入社の時とはえらい違いだ・・・。)
鏡の向こうにいる男は、入社した時の満ち溢れた希望というのが感じられなく、少し痩せた窪んだ顔で、こちらを見ている。
「この調子じゃ、本当に何時倒れてもおかしくないかな・・・。」
鏡の向こうにいる男に、言葉を投げかける。勿論、答えが返ってくるはずも無い。僕は一度大きく溜息を吐き、道を左に曲がった。しばらくして、闇に黒く染められたマンションにつく。マンションとは名ばかりの、オンボロ小屋ではあるが、家賃は安い。入社したての時、貯金がほとんど無く、実家の親もお金を貸してくれなかったので、ここに決めたのである。最初は、少しお金が貯まったら、引っ越そうと思っていた。しかし、住んでみると、なかなかに居心地が良かった。2階建てマンションの階段を上り、奥から3番目の“205号室”の鍵を開け、中に入る。
「ただいま・・・。」
一人暮らしなので、帰ってくる言葉は一切なかった。こういう時にやはり、やりきれない寂しさがこみあげてくる。僕は、その気持ちを振り払うと、六畳一間の和室に鞄を乱暴に投げいれ、靴を脱いでドカドカと入り込み、中央のミニテーブルの横に腰を落ち着かせる。
「あー、やっぱり、ここが一番落ち着くな・・・。」
そこまで広くはないけれど、畳の匂いが僕の心を癒してくれる。
(ここは僕の城だ!城なのだ!僕は断じて引っ越さないぞ!)
ここには小言を言う課長もいない。のんびりと、くつろげる唯一の場所でもあった。引っ越さないという決意をあらわにした後、両手両足を広げて、畳に倒れる。畳の感触、これがまた実にいい。恐らく僕の顔は、会社の誰も見た事が無いくらい綻んでいるだろう。暫く、横になっていると、僕しかいない筈の部屋に不気味な音が鳴り響いた。
グーッ。
「あらら、腹の虫さんが入り込んだようだな。不法侵入だぞ。今すぐ、僕の城から追い出してやる。」
馬鹿な独り言をつぶやき、体を起こす。そして、部屋の隅っこにあるミニ冷蔵庫を漁る。
(ちぇー、何もねーでやんの。)
仕方なく、今度は、古ぼけた茶色の棚の下についている引き戸を開ける。
「おっと、ここに我が愛しのカップラーメンがあるではありませんか。しかも醤油味ときた。」
一人暮らしをすると、独り言が増えるらしいが僕は典型的なパターンのようだ。僕はそれを引っぱりだすと、小さなヤカンに少し鉄くさい匂いのする簡易台所(と言ったら、大家さんに失礼かもしれない。)の、蛇口から水を注ぎ入れる。そして、チャッカマンを使って、入りたての頃から黒くなっていたガスコンロ。これがめんどくさく、スイッチを押し、ガスを出してチャッカマンで火をつけなければならない。コンロと別モノじゃないか!コンロなら、押しただけでできてもいいだろ!この機械の名前を、僕が名づけてやろう。
「今からお前は“いちいち火をつけるのメンドインジャー”だ。」
そして、僕は“いちいち火をつけるのメンドインジャー”にいちいち火をつけ、その上にやかんを置く。
「これで良し!」
お湯が沸くまで退屈なので、畳に仰向けに寝転がる。すると、疲れのせいか少しずつ、体に浮遊感が増してきて・・・。あー、目がまどろむ・・・。
ピーッ!
「うわ、何だ!敵襲か!」
どうやら転寝していたらしい。僕は急いで“いちいち火をつけるのメンドインジャー”のスイッチを切る。
(危ない、危ない。もう少しで火事だよ。)
我が愛しの食べ物の蓋をあけ、中にお湯を注ぎ入れる。携帯電話で時間を確認する。11時24分。これで、3分経てば不法侵入者を追い出せる。
「しかし、最近カップラーメンばっかだな・・・。全く、ここのコック長は何をしているんだ!」
「すいません。材料を買いに行く時間が無くて・・・。後、料理をする時間も・・・。」
「そりゃー、毎日小言を言われてサービス残業してたらなー。」
傍目から見たら、とても痛い人に見えるだろう。しかし、一人暮らしというのは、そう言うものなのであると分かってもらいたい。そう言えば、最近まともに湯船に入ってないな・・・。
(いつもシャワーだけしか浴びてない・・・。)
ここにはお風呂が無く、シャワーだけしかない。しかも、ただのシャワーでは無く、シャワーヘッドがついていないのである。ただのホースだ。それに、体もやっぱり重いし。偏った食生活してたら・・・。自分の将来を想像してゾッとした・・・。まさに悪夢だ・・・。やっぱり、保険に入った方がいいのかな?僕は“料理”が出来る間に玄関の扉に向かう。扉には郵便受けになるよう、細長い穴があいている。他には、銀色のつまみとノブ、覗き穴があるだけの何の変哲も無い木造のドア。その下には、郵便受けから入ったであろう、いくつかの紙があった。
(もしかしたら、保険の案内も入ってるかも・・・。)
僕は、それらの紙を持ち上げ、ミニテーブルで整え、一枚一枚確認していく。
(バーゲンのお知らせ、ゲーム店の広告、またバーゲンのお知らせ。)
すると、たくさんの赤やら青やらのチラシに混ざって、“笹原保険にご加入しませんか?”という広告があった。僕は、それの文章をゆっくり読んでいく・・・。
(えー、なになに、月々4000円でいろんな保証が受けられる?死亡保障、葬式保障。ここらへんは身寄りがいないからいいか。入院保障は一日につき一万円・・・。・・・ん?)
その広告の中に一際、目に飛び込んでくるものがあった。
(ご加入した人にはもれなく車が貰える・・・、だと!)
僕は、憧れのマイカーを想像する。こりゃ、頂きだ。僕はすぐさま携帯電話を開いて・・・、
「あっ!そうだ!大事な事を忘れていた!」
もう不法侵入者を追い出す時間ではないか!僕は急いで、箸で蓋をした愛しの食べ物を腹に流し込む。
「チッ、一分ほど長生きしたようだが、所詮ここは僕の城!僕以外はいてはいけないのさ!」
不法侵入者を追い出した後は、ゆっくりとカップ麺をすすり、先程の広告を読む。
(待てよ、僕。車が貰えるなんてそんなうまい話が本当にあるのか?でも、マイカーはやっぱり欲しい・・・。)
四苦八苦した挙句、カップ麺が汁だけになった頃に決断がつく。
(よし、騙されたと思って入ろう。本当に騙されたのだとしても、きちんと保険はあるし・・・。)
僕は青塗の携帯電話に、広告に載っている電話番号をプッシュしていく。何回かコールがあった後、返事がくる。
「はい、こちら笹原保険会社の者ですが・・・。」
がっかりした・・・。広告には綺麗な女の人が写っているのに、返ってきた言葉が少し低い声をした男性のものだったからだ。
「あ、はい。あの、資料を請求したいのですが・・・。」
その後、何回か言葉を交わす。低い声ではあるものの、とても話しやすい人だった。
「では、明日には届くと思いますので・・・、」
「あの・・・、」
「はい、何でしょう?」
僕は、一番疑問に思っている事を聞く。
「この広告に“車”が貰えると書いてあるんですが・・・。」
「はい、ご加入頂いたお客様には、その一週間後に届く予定になっております。」
「あ、そうですか!どうも。」
そう言って、電話を切る。僕は、カップ麺の入れ物をゴミ箱に捨て、紅い箸を洗う。そして“ホース”で体を洗いながら、マイカーのあれやこれやを想像した。
というか三分の二ぐらい終わらないと怖くならない・・・orz