第3話 鬼の赤軍
そんな頃のお話。
現ベラルーシには当時ロシアに支配されていても、昔から住み続けるポーランド人が多数存在していた。
ヨアンナの父アルベルトは、(幸運にも)兵役に就けない理由があった。
それはまだ若い砌、不慮の事故によるケガがもとで今でも全力で走る事が出来なかったのだ。
戦場で走れない兵には死あるのみ。そうした理由で招集検査には合格できない。
それはアルベルト本人にとって世間に対し肩身の狭い想いをする要因ではあったが、同時に愛する妻マリアと幼いヨアンナの傍らで、共に暮らし続ける幸せを実感できる大切な日々の暮らしをもたらす。
それに加え、心根の優しいアルベルト。誰が見ても地獄を掻かい潜くぐる兵士には不向きだった。
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ある日の日曜日。
いつものようにヨアンナ一家は教会に行くと、いつもより沈痛な面持ちで神父様のミサが行われている。
それは押し迫る軍靴が近づく予兆だった。
戦況が悪化し、どうやら友軍が苦境に立たされたらしい。異変を察知したミサの参加者たちは、その日を境にいつもと違うより真剣な祈りに変わり始める。しかし神様へのそんな祈りの声はとうとう届かなかった。
そして一家の平和で幸せな日々が、銃声の轟と共に無残に消え去る。
「ロシア軍だ!ロシアの兵隊たちが攻めて来たぞ!!」聞いた者たちに恐怖の戦慄が走った。
ロシア赤軍の足音がすぐ目の前まで迫ってきたのだ。
それまで攻勢だったポーランド軍は、体制を立て直したロシア軍を前に退却するしかない。
しかし、ポーランドの兵士たちは退却出来ても、現地の住民たちは置き去りのまま。
ヨアンナの家もそんな災難から逃れられない。
今まで見た事の無い大きな動く鉄の塊りが、いくつも押し迫る。
そしてけたたましいエンジン音と共に、金属の軋み音を垂れ流しながら砲弾を打ち鳴らす。
そして「ゴー!」という唸りをあげて、こっちに近づいてきた。
いくつもの砲弾が、点在する住居にさく裂しながら着弾する。
家の外の逃げ惑う隣人たち。
そのうち鉄の塊りの背後から、銃を持ったロシアの兵士が多数脇に出て足早に近づく。やがて、いたるところで機銃掃射の乾いた音と悲鳴が聞こえる。
灰色の空と地獄絵図。
昨日まで過ごしてきた街ののどかさが嘘のようだった。
やがて乱暴にドアを叩く音と共に、粗暴なロシア語のがなり立てる声が聞こえる。ドアを蹴破り兵がなだれ込み、生まれ育ち慣れ親しんだかけがえのない家に火を放つ。
間一髪で難を逃れたが、家を焼かれ取り残されたヨアンナ一家たちは家の外の広場に集められる。
ふとヨアンナの目に、裏庭の石像のダニエルの頭が転げ落ちているのが見えた。
傍に植えられた花が瓦礫に押し潰され、綺麗だった裏庭の姿が見る影もない。
ヨアンナの心に慣れ親しんだ憩いの場所が、泣き顔でサヨナラを言っている。
集められた住人の胸に、ロシア兵の残虐で不吉な噂がよぎった。
略奪や暴行、そして無差別殺りく。この世で考えられ得るありとあらゆる残虐行為と無法行為がポーランド兵が退却した後、進撃したロシア赤軍兵士の下で実行されてきた。
そうした人間とも思えない残虐な行為がここでも繰り返されるのか?
事実、眼前のロシア兵たちの眼差しは、血に飢えたケダモノそのものだった。まるで蛇の目のように冷たく、豹のように残忍な牙を剥く。
そしてヨアンナ達はその時初めて実際に目撃した。
目に余る略奪や暴行を。
やがてとうとうその運命は自分たちにも注がれる事となる。銃を持ち、取り囲むロシア兵。壁を背に行き場のない追い詰められた数十人の住人達。
ロシア兵下士官と思われる者が「撃て!」と冷酷に命じる。
咄嗟に母マリアがヨアンナに覆いかぶさり、父アルベルトが二人を覆う。
まさに機銃の音が無情にも鳴り響こうとする瞬間。
その時、幼いヨアンナはそれまで心と身体を覆いつくしていた恐怖から解放された。
人が死に至る恐怖を感じた時、極度の緊張が走る。しかし、よいよと云う時、全身にアドレナリンが充填され、何も感じなくなるのだ。まるで自分が虫けらにでもなったかのように。
まさに虫に過ぎない自分が獣に捕食されようとする瞬間、諸行無常の境地に達観する。
ヨアンナ一家たち住人は、家族ごと一列に並べられ、右わきから機銃掃射は始まった。
轟く銃声、断末魔の悲鳴。
「神様・・・・・」
つづく