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シベリアの異邦人 ~ポーランド孤児と日本~ 連載版  作者: 米森充


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第29話「新たな征服者」


 1944年蜂起終息目前の10月のある日、ヨアンナは体調の異変に気付いた。どうやら妊娠したようだ。


  ヨアンナはフィリプに告げるとフィリプはただ無言で見つめ続けた。


 もしかして望まれない子供だった?

 ヨアンナは一瞬不安になった。しかしよく見るとフィリプの頬には一筋の涙が流れている。

 「ありがとう!ありがとう!ヨアンナ!!ありがとうございます神様!!!」

 思わず天井を見上げ、ヨアンナと神に感謝した。


 そしてそっとヨアンナを抱きしめ、いつまでもいつまでも抱擁する。


 その翌朝からフィリプは人が変わった。

 どこがどう変わったのかうまく説明できないが、男は幾度か脱皮の機会が訪れる。

 まさにフィリプはその時だった。

 自分の子が生まれる!信じられない!!当然だが実際に出産を経験する女性と違い、男には赤ちゃんが生まれるという実感を体験する本当の意味での機会はない。

 

 でも個人差はあるが、男にも父親になるという実感を掴む瞬間がある。

 彼にとって我が子の妊娠を告げられた時がその時だった。蜂起が失敗であったと知る悲惨な時期。自分も妻もいつ命を落とすか分からない。でも命に代えても守りぬこうとする本能的な決意と覚悟が生まれた。

 

 やがてワルシャワ包囲戦は生き地獄の終焉を迎える。

 そんなおびただしい数の生と死が隣り合わせに混在する状況の中で、ヨアンナが妊娠したという一条の希望の光が周囲に差し込む。

 あの激烈な飢餓と戦闘による劣悪な生活環境に耐え、ヨアンナのお腹の中の子は奇跡的に順調に育った。

 狂喜乱舞するフィリプ。

 その姿はかつての日本への冒険飛行を成功させた英雄のそれからは想像できないほどの、未来のマイホームパパの素養を垣間見せる。

 これ以降フィリプと過ごせた時期が、ヨアンナにとっての至福の時だったと云えるのかもしれない。


 だがそんな明るい一家の未来の幸せを蹴散らすように、またも暗雲が立ち込めた。

 ワルシャワ市民がドイツ軍に降伏したすぐあとの1945年1月12日、ソ連軍が雪崩を打ってワルシャワに侵攻してきたのだ。


 市民蜂起を扇動しておきながら、土壇場で裏切り多くの市民を死に追いやったソ連赤軍を、かろうじて生き残った者たちは恨みと悲しみと、怒りと己の無力さに満ちた恨めしい表情で彼らを迎える。



 案の定、彼らは自分たちの味方ではなかった。

 1918年以前の時代も、ポーランド・ソビエト戦争の時も、昔から彼らは何ら変わらない。自由も人権も奪う鬼の支配者だった。彼らはそれまで居座ったドイツ軍にとって代わり、それ以上の抑圧を強いた。


 彼らが真っ先に行った統治は、困窮する市民の救済ではない。

 国内軍としてドイツと戦った英雄の逮捕と処刑だった。


 自分たちが決起をけしかけておいて、イザ自分たちが支配するという段になり、ものを言い、抵抗という行動を起こす将来の不満・危険分子を事前に始末するという、ドイツ軍より狡猾で悪辣で醜悪な統治者であった。

 ここに至りソ連は手を組むべき相手ではない悪魔である事を改めて知る。

 いや、過去の侵略と苛烈な統治のやり口を身をもって長い歴史の教訓から分かっていた筈。

 なのに・・・・。ナチスの占領による苦しみが、正常な判断力を失わせたのかも知れない。目の前の悪魔を倒すために、更に凶悪な悪魔と契約する愚を犯してしまったのか?そんな悲し過ぎる総括はできない。

 当事者ではない外野から、そんな不遜な批判や嘲りを受ける事は断固拒否する。

 彼らは自らの命をかけ、迫り来る悪と果敢に戦っただけ。戦って戦って次の悪に襲われても、生きている限り決して屈しない。そんな選択肢しか無かっただけなのだ。


 フィリプはドイツに代わる新たな侵略者に対し口惜しさを滲ませながら、今は逃亡するしかないが、必要なら抗戦もするという意思を告白した。

 そうするしかなかった。

 フィリプはポーランドの将校だったのだから。

 自分にとって責任ある行動とは?

 本当はヨアンナとやがて生まれてくる我が子のそばにいつも居たい。

 自分がじかに守ってやりたい。

 でもそんな当たり前の心情を押し殺さなければならない。

 自分がいたら返ってヨアンナたちの身を危険に晒すことになる。

 それに我が務めは家族を守り、祖国ポーランドのため戦い抜く事。

 今はソ連の進駐を許しているが、こんな理不尽な統治を西側の連合軍がいつまでも許す筈はない、新たな戦闘準備が出来次第きっと駆逐してくれる筈。

 それまでは歯を食いしばってでも戦い抜く。

 自分たちが不屈の闘志で戦う姿を見せなければ、誰が救済してくれると云うのだ?


 苦難は続くが、彼は国が誇る屈指のポーランド人だった。


 ヨアンナはまたも身を裂かれる想いに駆られる。

 私の人生はいつも大切な人が去ってゆくばかり。

 でも仕方ない。今はこんな世の中なのだから・・・。

 フィリプには何としても生きていてほしい。

 ここにいては確実に見つかり、その結果は死しかないから。

 でも必ず私の元に帰ってきて!!

 そう約束してください。

 フィリプは次々に逮捕・処刑される仲間を目撃するや、言葉通り残った仲間たちと逃亡しながら抵抗することを決意した。


 

 

 ソ連の諜報・治安部隊は血眼になって国内軍の残存活動者を捜索している。

 ドイツ軍を追い払った後のポーランドの支配と治安維持に、国内軍残存兵の存在は邪魔であり、見つけ次第掃討すべし。それが当局の命令である。


 フィリプの居場所が暴かれるのも時間の問題だった。

 ヨアンナとフィリプは危険を察知した最後の晩、脱出まで残り2時間だけの夫婦最後の夜を過ごした。



 「今宵・・・・せめて今だけは・・・あゝフィリプ・・・・

 この世はあなたと私、二人だけのものよ・・・・。」


 「ヨアンナ・・・・。」


 

 永久に夜なんて明けなければいいのに。






 別れの朝


「フィリップ・・・・、あなた・・・・あなた・・・どうかご無事で。

愛してるわ。愛してるわ、愛して・・・・・」

後ろ姿が涙に滲んだ。


 フィリプは他の仲間たち旧国内軍残党と共に、喜びも悲しみも深く心に刻んだワルシャワの地を離れた。


 ヨアンナをエヴァとミロスワフ夫妻に託して。



 すでにワルシャワ市内に残るは瓦礫ばかり。

 人の住める場所はわずかしか残っていない。

 妊娠中のヨアンナは愛する夫フィリプと別れ、危険が迫る直前、戦闘から避難していたエヴァ夫妻が住むワルシャワ郊外から少し離れた家に急遽身を寄せた。


 そこにはハンナの夫エミルと、親友のアレックなども時々立ち寄る。

 ミロスワフもエミルもアレックも皆、昔からの仲間であり、市民蜂起をイエジキ部隊の一員として共に戦った仲。

 蜂起が失敗し終息した後は、瓦礫の後始末や復興の担い手としてここに残り、生き残った者の責務として頑張らなければならない。

 但しエミルはひと段落した後には妻のハンナの元へ戻らねばならないが。


 エヴァの夫ミロスワフは蜂起の戦闘で左肩と右足の太ももを負傷したが、何とか歩き回れるほどに回復した。

 蜂起終息後は細々と物資の流通が再開し、郊外に出るほど食料を手にし易くなってきた。

 エヴァとミロスワフはフィリプとの約束で、ヨアンナとお腹の子を全力で守る決心をしている。

 負傷回復間もないミロスワフは、引きずる足でワルシャワ近郊の農産地からの食料流通の仕事に携わった。


 当然のように賃金報酬などは発生しない。

 輸送対象のジャガイモなどの一部をほんの少しだけ頂くのが収入の総てである。

 それでも自分たちの食料確保と生活費の捻出にはなった。

 それにエミルやアレックからの援助も有難い。

 彼らだってその日を生きるのに精一杯だろうに。


 エミルは時々ハンナの話をしてくれる。

 孤児院周辺での出来事や、エミルがワルシャワに来る前のハンナの様子など、懐かしそうに話してくれるのだった。

 あのお話し好きのハンナ。

 エミルと別れ、さぞ寂しい思いをしている事だろう。

 

 ヨアンナはハンナに対し、申し訳ないといつも思っていた。 

 そして、帰れる状況になったら、すぐにハンナの元へ帰るよう強く進言した。

 エミルが帰ったら、きっとヨアンナが妊娠した事を報告してくれるだろう。

 喜んでくれるかな?ハンナの事だもの、顔いっぱいに喜びを表し、はしゃぎまわってくれる筈。


 エヴァはヨアンナとお腹の子のため、生活全般に介助の手を差し伸べた。

 友として、ひとつ屋根の下で暮らす家族として、その全てを受け入れた。

 ヨアンナは逃亡する夫の身を案じながら、次第に育つお腹の子に話しかけながら、平和で幸せな明日が来る事をひたすら願う。


 かつての自分の子供時代。


 父アルベルトと母マリアが健在な頃、ヨアンナは幸せな生活を享受していた。

 やがて生まれてくるこの子に同じだけの幸せを与える事ができるのだろうか?

 フィリプの帰還と、無事な子供の誕生。

 今はひたすら祈るばかりだ。


 エヴァの日課は朝、ヨアンナのお腹に耳を当て、

「ヨアンナⅡ世ちゃん、おはよう!今日もお外は良い天気よ。

 エヴァお姉さんは早く2世ちゃんのお顔が見たいな。元気で素敵な笑顔を早く見せてね。」

と云うのだった。

「あら、私は母親になるのにエヴァはお姉さんなの?同い年なのにズルいわ。」

ヨアンナが笑いながら突っ込むと、

「アラ、いやだ!私はいつまで経っても若いままのお姉さんでいるつもりよ!」

と応える。

 しかしその2か月後、当のエヴァも妊娠発覚。お姉さんと呼ばれるのを諦めるしかなくなった。

 病み上がりのミロスワフは尚一層馬車馬のように働くしかない・・・らしい。

 でも戦争終結が近づくにつれ、人々に生きる力が蘇ってきたようだ。


 ソ連の影響下の弾圧と統制にもかかわらず、殺し合いと極端な物資不足からの解放は、大きな希望の光だった。 

 一方同時期、ポーランドのいたるところで新たな支配者に抵抗すべく、フィリプを含む国内軍がレジスタンス活動をおこし、命がけの抵抗を続けた。





 だがここで残念ながら歴史的事実として敢えてしるすが、被害者は占領支配されたポーランド人だけではない。

 ソ連に占領されたポーランドに次々と戻ってきたユダヤ人難民に対するポーランド人の行為も指摘しておかなければならないだろう。


  ******


 参考までに


 第二次世界大戦が終結し24万人の難民ユダヤ人がポーランドに大挙帰還し押し寄せたそんな状況の中、一年後の1946年7月4日。『血の中傷』事件が発生した。

 ポーランド人暴徒による殺害事件であり、42人が殺害、80名の負傷者が出た。

 (後にポーランド政府は正式に謝罪している)


 (因みに大戦の戦争責任について、ドイツはポーランドに謝罪しているが、ソ連は一切していない。蛇足ながら。)


 *『血の中傷』とは、ユダヤ教の祭事にはキリスト教徒の子供の生き血が必要で、多数の子供達が犠牲になっているという根も葉もないデマが昔から伝統的にポーランドを含む全ヨーロッパに流され、ユダヤ人憎悪と迫害のの元凶となっていた。

 中世の魔女狩りが集団ヒステリーをもたらし、パニックが暴動となった状態と同様である。

 はたから見たら馬鹿げた根拠のない因習としてしか見えないが、本気で信じた者が多数いた歴史的事実こそが驚きである。


 戦後のポーランドはユダヤ人の安息の地ではなかった。


 いくさに疲れ、打ちひしがれたポーランド人の心はささくれ立っている。

 大切な家族を失い、日々の生活にも追われ余裕が持てない。

 自分たちより弱い存在に当たり散らさねば、到底我慢できない。

 そんな社会状況の中のユダヤ難民の帰還は、あまりに危険過ぎた。

 更にその後も続く迫害の後、とうとう9万人まで人口が減少した。

 そんなやるせない悲しい歴史的事実も存在するのだ。


  ******


 狂気の大量殺りく時代。


 誰が正気で

 誰が狂気で

 誰が正義で

 誰が悪か?




 話を戻す。


 ナチスドイツが崩壊した1945年5月8日。

 ポーランドではソ連という新たな支配者にとって代わられただけではあったが、ヨーロッパに於ける戦争は終結した。

 少なくとも戦争による死の危険は無くなった。

 見せかけの平和が訪れた新しい時代。

 ヨアンナ、フィリプにとっての二人の愛の結晶の出産の日が来た。


 1945年6月22日、

 出産に立ち会っていた関係者たちに歓喜の声が響き渡る。

 待望の子は男子で、アダムと命名された。


 アダムとイブのアダム。


 記念すべきポーランドの解放の象徴と思われたヨーロッパ大戦直後。

 希望に燃えた新生ポーランドの象徴として、人類誕生の象徴であるアダムとイブにあやかり、『アダム』と名付けられた。

 次いで10月6日エヴァとミロスワフに女児誕生。エミリアと命名。(イブではない。念のため)

 ようやく長い間、暗く沈んでいたワルシャワ近郊の小さな家に、眩いばかりの太陽の光が差し込み、待望の春が来た。


 そしてエミルのハンナの元への帰還の日がやってくる。

 ヨアンナ出産の報告という使命も帯びて。

 盟友アレックは、戦後の混乱とミロスワフの身体の状態が完全復活するまでここに残ると宣言、相変わらずの男気をみせ、エミルに笑顔で手を振った。涙顔のエヴァやヨアンナたちとは対照的に。

 (ハンナと結ばれたエミルに対し、ヨアンナとエヴァの評価は曝上がりだった)




 一方フィリプは・・・・・。


 その間、何とか逃亡に成功し、反共パルチザンとして数年間共産政府要人テロ活動作戦などにも参加、目下逃亡中であった。

 だが1950年2月、追い詰められ銃撃戦の末、あのポーランド将校たちが銃殺された遺恨のある『カチンの森』近くで、とうとうソ連兵に射殺された。


 フィリプの最後も井上敏郎の最後と同じ、晴れた日の青い空を目に焼き付け、迎えに来た天使の降臨を目で追う。

 そして静かに瞼を閉じ

「ヨアンナ・・・。」と呟く。

 栄光と波乱に満ちた生涯だった。


 

 その一月後、反体制パルチザンとして射殺された夫フィリプの身元が割れ、ソ連治安部隊が10日ほど前にエヴァの家から独立、隣に引っ越したばかりのヨアンナの居宅を急襲する。


 目的は国内軍活動家関係情報探索のための家宅捜索だった。

 要するにフィリプの仲間の動静を調べるためである。

 

 はるか昔、5歳の時のヨアンナがソ連赤軍に襲われたあの時と同様、彼の国の治安部隊は冷酷且つ残酷だった。

 現れるなり何かわめくように叫び、国家反逆の大罪人であるフィリプの妻のヨアンナに対し、いきなり数発の銃弾を浴びせた。

 ようやく5歳になるアダムはその時、エヴァの子エミリアと遊ぶため、たまたまエヴァの家にて難を逃れた。


 その結果アダムだけが生き残る。


 シベリア孤児だったヨアンナ。

 まだ幼いアダムを残し、行く末を案じながら息を引き取った。


 ヨアンナの忘れ形見であるアダムもまた、母同様5歳で孤児となりエヴァ夫婦に引き取られる事となる。



              





         つづく


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