番外編 現在(ライアン視点)
食欲を刺激する匂いで目が覚める。
隣にあるはずの熱はすでにベッドを抜け出して、少しの温もりも残っていなかった。
フローレスの提案通りベッドを広くしたのは寝やすくていいが、もう少し狭くても良かったのではないかと未だに不満が残っている。
寝ぼけた頭で彼女が隣にいないことにムッとしながら、彼女の枕を抱きよせた。
再び目を閉じて、眠りの世界に戻りかけていることに気付いて慌てて起き上がる。
ベッドを出て自宅部分のキッチンに続くドアのところで、しばらく料理をするフローレスの後ろ姿を眺める。
いつまで経っても見飽きることはまるでない。
ようやく気付いて振り返るフローレスが、微笑を浮かべて「おはよう」と柔らかな声で言ってくれることに幸せを噛みしめる毎日だ。
「おはようフローレス」
後ろから腰を抱くようにしてこめかみのあたりにキスをする。
フローレスはくすぐったそうに笑いながら、綺麗な形の顎をツイと上げて唇を合わせてきた。
「おはようライアン。すぐに朝食が出来るわ」
「手伝うよ」
「ゆっくりしてていいのに」
小さく苦笑しながら言うフローレスにもう一度キスをして、食卓に皿やカトラリー類を並べていく。
いつもは一緒に目覚めて一緒に朝食の準備をするのだが、俺だけが休みの日はフローレスが気を遣ってゆっくり寝かせてくれる。
彼女はそういった配慮を、ごく自然体で行えるからとても尊敬している。
以前それを伝えたら、「あなたこそ」と笑って返された。
逆にフローレスが休みで自分が出勤の日は、彼女に寝ていてもらって簡単な食事を用意して出掛けようと目論んでいるが、一度も成功したことはない。
フローレスは早起きの働き者なのだ。
本当は仕事が休みの日はカフェを手伝いたいのだが、フローレスに止められている。
客層が変わってしまうからだと説明された上で、「本当はあなた目当ての女性ばかり増えたら私が嫌なの」と可愛く拗ねられてしまえば、それ以上強く言うことも出来ない。
せめて閉店後の掃除や片付けだけは率先してやるようにしている。
自分は騎士の仕事を手伝えないのに、店の方は手伝ってもらってばかりで申し訳ないと言われたこともある。
だが、差し入れだと言って用意してくれる焼き菓子や愛情を込めて作ってくれる弁当が何よりの活力になっているのだ。俺が手伝えていることなんて、それらに対するお返しとしてはむしろ全然足りていないくらいだ。
そんな幸せな生活が始まってから、もう一年が経つ。
* * *
フローレスがプロポーズを受けてくれてから、すぐに両家の顔合わせが行われた。
しきりに恐縮するフローレスの両親はとても誠実な人たちで、元々男爵家の人間への好感度が高い俺の親は最初から友好的だった。
両親は、血筋さえあれば無条件で貴族を名乗る無能で高慢な一部の高位貴族より、自分の実力と功績で爵位を賜った男爵家の人間が好きなのだ。
建築家として名を上げたフローレスの父君に、あれこれ話を聞いて楽しそうにしていた。
もちろんスターリング家にトドメを刺したフローレスにも興味津々だ。
リカルドとその両親への辛辣な評価を、笑顔のまま美しい唇から発するフローレスの言葉に、両親は目をキラキラさせながら聞き入っていた。
弟たちは何故か若干怯え気味だったが、概ね円満に顔合わせが終了したと言えよう。
その半年後に結婚式が行われた。
準備期間としてはかなり短いとは思うが、早くフローレスとの生活をスタートしたい俺の我儘で日取りは決まった。
本当は二人が主催で身内だけ呼んでひっそりやりたかったが、家督が弟に移ったことを発表するためにもいろいろと話し合った結果、式は家族だけで、披露宴はクリフォード家主催で関わりの深い貴族を中心に小さめの規模で開催することとなった。
変則的なパーティだったが、参加者の反応は上々だったと思う。
フローレスは嬉々としてリカルドに招待状を送っていた。
楽しそうなフローレスは何より可愛らしいので止めなかった。
わざわざスターリング家に直接招待状を届けに行こうとするのは止めるべきだったかもしれないが、両親がリカルドの反応が見たいとノリノリで馬車を出したので、同乗するより他に選択肢はなかった。
屋敷まであと数十メートルに迫った瞬間。
門から飛び出して、絶叫を上げながら猛スピードで逆方向にリカルドが逃げていくのが見えた。
フローレスはそれは晴れやかな笑みを浮かべて、結局はリカルドに会わず門番に招待状を渡すだけで満足して帰ることとなった。
両親はフローレスの手前、上品に控えめに笑うのみだったが、家に帰ってからは酒が進むと言って上機嫌で「最高!」と何度も乾杯をして二人で楽しそうに飲んでいた。
我が親ながら呆れるほどにスターリング家の人間が嫌いなようだ。
披露宴当日、もちろんリカルドは来なかった。
代わりにリリアという女が名代として来ていた。
彼女は「以前お会いしたことありますわよね」と媚びるような態度で寄ってきたが、全く見覚えが無くてしかめっ面になってしまった。
露骨にすり寄られても嫌悪感しかない。
いつまでも無愛想な俺にしびれを切らしたのか、リリア・スターリングだと名乗られたがリカルドに妹なんか居たかと首を傾げるばかりだった。
「リリア! お久しぶりね!」
他の参加者たちに質問責めで囲まれていたフローレスが、ようやく戻ってきてくれて嬉しくなる。
今日から俺の妻となるというのに、みんなフローレスを気に入って離してくれなかったのだ。
リリアと名乗った女性は、フローレスの姿を見るなり顔を引き攣らせた。
対するフローレスは極上の笑みを浮かべている。
ああやはり彼女は笑顔の時が一番美しい。
見惚れていると、フローレスが親し気にリリアの腕に触れた。
「ライアン、ご紹介するわ。リカルドの奥様のリリア・スターリング様よ。私の学生時代の知人なの」
「ああ、リカルドの細君か」
にこやかにそう言われてようやく合点がいく。
なるほど、リカルドを寝取った女か。
道理で見覚えがないわけだ。
あの日はフローレスしか見えていなかったから。
フローレスに仕組まれているとも知らず、まんまと人の男に手を出すような尻も頭も軽い最低の女性。
「お似合いだな」
フローレスの手の平の上で転がされていたとは言え、彼女自身は立派にフローレスを陥れようとした悪女だ。
嫌悪しか感じない。
このままリカルドと共にスターリング家という泥船で沈んでいけばいい。
侮蔑に満ちた表情と口調にリリアは蒼褪めて、蚊の鳴くような小さな声で「このたびはおめでとうございます」と形式的なことだけ言ってすごすごとその場を退いた。
ふとフローレスの方を見ると、びっくりした顔で俺を見上げていた。
慌てて今の態度の言い訳しようとすると、フローレスはポッと頬を赤く染めた。
「あなたのそういう顔も好きよ」
うっとり夢見るように言われて、照れることしか出来なかった。
* * *
「そうだ、リリアからあなた宛てに手紙が来ていたわよ」
「リリア? 誰だったかな」
閉店後の作業を手伝いながら首を傾げる。
「リカルドの奥さんだってば。ライアンたら興味ない人をすぐに忘れちゃうの、悪い癖よ」
「興味がなくとも関わらなくてはならない人はちゃんと覚えているよ」
苦笑しながら、フローレスに近付いて許しを請うように彼女の額にキスをする。
「それで? そのなんとかいうリカルドの妻がなんだって?」
「リリアね。なんかあなたと二人きりで会いたいんですって。リカルドのことで相談があるとかで」
郵便物の開封はフローレスにお願いしている。
忙しい日が続くと、そういった日常の細々したことが疎かになってしまいがちだからだ。
「相談? 何故リカルドのことを俺に?」
「さぁ。十中八九、相談という名の色仕掛けをしてくるのだと思うわ」
「……キミと一緒に暮らしているのに、ずいぶん無謀なことを考えるな」
「封筒に差出人の名前が書いてなかったから、たぶん私が読まないと思ったのでしょうね」
にこりと笑って言うフローレスに、どこか凄味のようなものを感じるのは気のせいではないだろう。
「いや、そういうことではなく。フローレスという素晴らしい女性が妻なのに、どうやったら自分が勝てると思えるのだろうかと」
本気で分からない。
こんなに魅力的な人とずっと一緒に暮らしているのに、他の女性に目が行くはずがない。
たとえそのなんとかいう女に裸で迫られたとしても、まったく反応しない自信がある。
「ライアン……嬉しいけど真顔で言われるとさすがに照れるわ」
頬を染めるフローレスに、胸が締め付けられるほどの愛しさを感じて強く抱きしめる。
「愛しているよフローレス」
「ふふ、私もよ。結婚してくれてありがとう」
「それは俺のセリフだな。フローレスと出会ってから人生がすっかり変わってしまった」
「大袈裟だわ」
「いいや。本気で思っている。毎日こんなに幸せでいいのかと不安になるくらいだ」
「あらそんなこと。私も毎日思っているわ」
どこか得意げにフローレスが言って、お互いの不安自慢が始まる。
他愛のないお遊びをしながら、テキパキと掃除を再開して終わらせる。
会話は途切れることもなく夕食後まで続いた。
入浴を終えるとフローレスは眠そうな顔をしていて、抱き上げてベッドまで運ぶと嬉しそうに笑った。
幸せそうな微笑みを浮かべて眠りにつくフローレスの、安眠を妨げないようにそっと額に口づけて隣に潜りこむ。
明日は店の定休日だ。
今度こそは彼女が目を覚ます前にすべての準備を終えてみせよう。
そう決意して、彼女の身体を優しく抱きしめて目を閉じた。
ここまでで番外編を含め完結となります。
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次作品も頑張りますので良かったらお付き合いくださいませ。
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