番外編 過去(ライアン視点)
彼女を初めて見たとき、その笑顔があまりに美しくてしばし言葉を失った。
リカルドの婚約発表の場でのことだ。
正式に招待されていた両親は王宮からの仕事で忙しく、名代として俺と上の弟が参加することになった。
同じ公爵家で同い年、そして騎士団勤めまで同じで何かと因縁のある男だ。そりが合わないので生涯友人になることはないだろうとは思っていたが、そんなリカルドがどんな女性と婚約したのか少し興味があった。
綺麗な女性だな、と思った。
遠くから見た感想はそれだけだった。
周囲に愛想笑いひとつ浮かべることもせず、ただリカルドのそばに付き従う姿はとても魅力的な女性とは思えなかった。きっとまた見た目だけで選んだのだなと、面白みのない結果に早くも帰りたくなっていた。
けれど事件は起こった。
リカルドが最低なパフォーマンスを始めたのだ。
やはりこいつとは仲良くなれない。
眉間にシワが寄るのを弟に窘められたが、あまりの胸糞悪さに今すぐにでもこの場を離れたくなった。
こんな大勢が見ている前で婚約破棄を突き付けられて、彼女は俯き肩を震わせていた。
当然だ。
きっと泣き崩れてしまうだろう。
そう思っていたのに。
彼女は微笑んだ。
それはそれは幸せそうに。
そうして淀みなくリカルドの失態を晒し上げ、嘲笑い、見事な手際でその場をひっくり返してしまった。
予想外の展開に度肝を抜かれたのは俺だけではないだろう。
帰りの馬車で「美しい女性だったな」とぼんやり弟に語り掛けると、「あんな恐い女はごめんだ」となぜか怯えた表情で返された。
納得はいかなかったが、弟は綿菓子のようなカトレア姫を慕っているから、そう感じるのも仕方のないことなのかもしれない。
フローレス・アークライト。
美しい笑みとその名前は、衝撃と共に記憶に刻まれた。
彼女とはもちろんそれきりで、リカルドの醜態と共に徐々に記憶から薄れていくはずだった。
けれど不思議と彼女の記憶は鮮明になっていく。
ふとした拍子に彼女の姿を思い出しては、胸が締め付けられるように痛んだ。
もう一度会ってみればこの痛みの正体がわかるのだろうか。
けれど彼女の情報はほとんどない。
リカルドに聞こうにも、あれだけコケにされてあの男が素直に彼女のことを言うわけもなかった。
会えないまま一年が過ぎて、ますます彼女の笑みが鮮明になっていく。
なぜこんなにも彼女に会いたいのか。この胸の痛みはなんなのか。
わからないまま苦しさだけが増していった。
きっとこれは記憶が美化されているせいだと言い聞かせ、なんとか自分の心に折り合いをつけようとしていた時だった。
何気なく訪れた店に、彼女がいた。
昇進したばかりで、仕事が積み重なっていた頃だ。
疲れ果てて思考力が低下して、休憩を兼ねた気分転換に城を出てフラフラしていた。
急激に甘いものが欲しくなって、匂いに誘われるように初めて通りかかった店に入った。
最初は気付かなかった。
店員の顔をまともに見ている余裕すらなかったのだ。
注文したココアと、サービスでつけてくれたという焼き菓子の美味さに、張りつめていた心が少しずつほどけていく。
ホッと息をついて、ようやく店員を気遣うだけの余裕が出来て、目を見て礼を言った。
そうして返された微笑みに、再び言葉を失った。
記憶は決して美化されていたわけでもなく、鮮明になっていたわけでもなく、むしろ褪せているのだと思い知った。
それほどまでに実際の彼女の笑みは美しかった。
「……フローレス・アークライト?」
呆然と見惚れて、無意識に口にした名に彼女が首を傾げた。
当然だ。あの場にいただけの俺を覚えているわけなどない。
けれどひどくがっかりしてしまった。
奇跡の再会を喜んだのは自分だけだったのだ。
それからは時間を見つけてはフローレスの店に通った。
笑顔を見たい一心だった。
思いがけず彼女との会話は楽しく、新鮮だった。
それに紅茶も焼き菓子も今まで口にしたどれよりも美味く感じた。
彼女の店はすっかりお気に入りとなり、無味乾燥な生活に彩りを与えてくれた。
それまで彼女に会いたいという気持ちは、物珍しさからくるものだと思っていた。
自分の周りに寄ってくるのは着飾った貴族のご令嬢ばかり。自分のことは何もせず、誰かにやってもらうのが当たり前と思っているような。
だから額に汗して働く彼女を、尊敬すると同時に友情を感じているのだと思っていた。
我ながら鈍いにもほどがある。
恋心を自覚したのは、休日に彼女とピクニックをした時だ。
穏やかな気持ちに反して、ずっと胸が高鳴っていた。共に街歩きをするだけで心が躍った。
それからフローレスが席を外した瞬間に寄ってきた女性達に不快感を覚え、その気持ちの落差に自分で驚いた。
今まで女性の存在を不快に思ったことはない。
けれど興味を抱くようなこともなかった。
それが普通だと思っていたし、この先も女性に対するスタンスはそんなものなのだろうと思っていた。
けれどそれは違った。
フローレスだけが特別で、フローレスだけが心を動かすのだ。
自覚したときにはもうずいぶんと深みにはまっていた。
思い返してみれば、フローレスに対する自分の態度はずっとおかしかった。
たぶん初めて彼女を見たその日から恋に落ちていたのだろう。
すぐにでもアプローチをしたかったが、彼女が自分を毛色の変わった友人として見ている以上、その関係を変えるのは怖かった。
カフェでの短い時間は貴重なもので、それがあるから忙しい日々も乗り切ることが出来ていた。
それを失うかもしれない可能性がある限り、踏み出すことは出来ない。
彼女にはリカルドの横暴に振り回された過去もある。同じ立場の自分が告白すれば、彼女は嫌な記憶を蘇らせると同時にまたかとうんざりすることだろう。
それに彼女はこの店をとても大事にしている。
万が一上手くいって彼女の心を手に入れることが出来ても、自分が公爵家の人間でいる限り、それを取り上げてしまうことになるだろう。
それだけはなんとしても避けたかった。
だからこのままの関係でいるのが一番いいと思った。
触れることも叶わないが、彼女の自由を制限するくらいならそれで構わないと思ったのだ。
だけどそれは大きな間違いだった。
自分のミスで大事な部下を失いそうになっていたあの日。
どうしても会いたくて、耐えきれずに無意識に彼女の店の前に立ち尽くしていた。
土砂降りの中すぐに見つけてくれて、店内に招き入れてくれた彼女に甘えて泣き言を言った。
情けないと発破をかけてもらおうとしたのかもしれない。
あるいは単純に彼女の顔を見て元気を貰おうとしたのかもしれない。
どちらにせよずるい考えがあったのは間違いない。
彼女からしてみれば、人の生死に関わる重い話を聞かされ、でかい男に甘えられ、迷惑この上なかっただろう。
けれど彼女はそんな俺の心を守ろうとして、他の者が聞けば無責任にも思える慰めの言葉を繰り返した。
聡明な女性だ。何も考えずにした発言でないことはすぐにわかった。
こんなに優しくて強い女性を他に知らない。
この人は唯一無二で、絶対に失えない人だと思い知った。
他の誰かのものになるなんて耐えられない。
だからすぐに行動を開始した。
もちろんただ自分の持つものを放棄するのではなく、きちんと全てを整理してからだ。
彼女に誇れる人間でありたかった。彼女が少しでも負担に思うのを避けたかった。
家督を弟に譲ると親を説得するのは骨が折れたが、自身も大恋愛の末に結婚した二人だ。俺が本気で彼女を愛していること、また彼女がどれほど優れた人間であるかを言葉を尽くして説明した。
時間をかけて少しずつ両親を説き伏せ、彼女じゃないなら結婚もしないから子も残せない、どちらにしろこのままでは公爵家は俺の代で終わってしまうと脅しのような真似もした。
けれど最終的に両親の心を動かしたのは、フローレスがリカルドの元婚約相手だという情報だった。
あの日の顛末を、両親はざっくりとした伝聞でしか知らない。
彼女の魅力を語るためのエピソードとしてフローレスがしたことの詳細を聞かせると、両親は大いに興味を持ち、挙句の果てに爆笑していた。
昔からスターリング公爵家の人間には迷惑を掛けられ尻拭いをし続けてきた二人だから、話し終わる頃にはすっかりフローレスを気に入ってしまった。
彼女を射止めたら絶対に連れて来いと息巻く二人に、若干引きつつ了承する。
どうやら家督を弟に譲るという話は認められたらしい。
フローレスの名誉に関わることだからと言い渋っていたが、こんなことなら最初からこの話をしておけば良かったと後悔した。
もちろん完全に縁を切るわけではなく、協力できることは必ずすると約束した。
親兄弟全員が家族としての繋がりはそのままだと言ってくれた。
ありがたくて涙が出そうだった。
そうしてなんとか公爵家を出る権利を勝ち取り、満を持してフローレスの元へ駆けつけた。
長期戦を覚悟で口説き落とそうという目論見はあっさりと崩れ、なんと彼女は俺の気持ちに応えてくれた。
嬉しさのあまり卒倒しそうになったのは秘密だ。
フローレスに触れるのはとても勇気が要った。
彼女と出会うまで、セックスなんて一時的に性欲を満たして頭をスッキリさせるだけのものだと思っていた。
恋人という関係も、将来公爵家の人間として迎えるにふさわしい女性かという、言葉は悪いが品定めの期間だ。
その程度の価値しかないのに、恋に狂う男女を不思議に思っていた。もしかしたら少し見下してさえいたかもしれない。
だがフローレスに出会ってそれが間違いだったと知った。
どうしようもなく好きな人の前では、うまく出来ていたことも出来なくなってしまうものなのだ。
彼女相手では、キスひとつさえままならない。
少しでも嫌な思いをさせないように細心の注意を払う臆病者の俺に、彼女は笑って好きにしろと言ってくれた。
度量の大きなフローレスに感謝して、本当に好きなようにしたせいで彼女にずいぶんと無理をさせてしまった。
こんなに手加減も見境もなくして求めてしまう相手が出来るなんて、想像もしていなかった。
彼女といると新しい発見ばかりだ。
いつだって彼女は抗い難い魅力に溢れている。
リカルドより先にフローレスに出会っていたら、もしかしたら俺がリカルドのようになっていたかもしれない。権力を盾にがんじがらめにして、屋敷から一歩も出さないような最低な男に。
それくらいに彼女の存在に狂わされている自覚があった。
フローレスには申し訳ないが、最悪の前例を作ってくれたリカルドに感謝だ。
おかげで一年が経つ今も、フローレスは俺の隣にいてくれる。
彼女はますます魅力を増して、今や輝かんばかりに美しい。
他の女に目移りして彼女を放逐したリカルドはなんて愚かなのだろう。
この先何十年経とうと、俺からフローレスを手放すことなどありえない。




