27.あなただけ
長い間抱き合っていた。
全身が幸せで満ちていて、憂鬱な気分はすっかり吹き飛んでしまった。
ゆっくりと身体を離して、間近で見つめ合い微笑む。
自然に唇が近づいて、触れ合わせると心臓がとくとくと速いテンポを刻みだした。
ついばむようなキスを繰り返し、上がった息を落ち着かせるために少し距離を取る。
「……ねぇライアン。二階が自宅なの。ゆっくり話がしたいわ」
ここじゃ落ち着かないし、と店内に視線を巡らせて言う。
店も私のテリトリーではあるが、さすがにお客さんが出入りするような場所では気恥ずかしい。カーテンも開けたままだし、覗こうと思えば簡単に店内を覗けてしまう。
「いや、その、」
言いづらそうにライアンが口籠る。
それを見て、そういえばと思い出した。
「あ、ごめんなさい、このあと用事があるのだったわね。浮かれて忘れていたわごめんなさい」
「いや、予定はないのだが」
「そうなの? すぐ帰るようなことを言っていたから」
「その……今日は振られて帰る予定だったんだ」
決まり悪げに言われて思わず笑う。
本当に、勝算ゼロでここに来たらしい。
「じゃあやっぱり上がっていってよ。私、まだあなたと居たい」
甘えるような口調で言うと、ライアンがわかりやすく赤くなった。
「俺もそうしたいのだが、その、今の状態でキミとプライベートな空間に二人きりになるのはまずい」
「なぜ?」
言わんとすることはなんとなく分かったが、意地悪く聞き返す。
ライアンは私の思惑にも気付かずに、少し迷うような顔をしたあとで、意を決したように口を開いた。
「……キミに不埒な真似をしてしまうからだ」
崖から飛び降りる直前みたいな顔をして言うのが可愛くて、笑いそうになるのを堪える。ライアンが真面目に言っているのなんて明らかだ。
紳士的な態度を取ろうとしてくれるのはありがたいけど、少しもどかしくもある。
だから少し空いた距離をもう一度詰めて、そっと唇にキスをする。
「不埒なことをしてほしくて誘っているのよ」
薄く笑いながら言うと、ライアンが真っ赤な顔で絶句した。
私と違ってライアンは経験豊富だと聞いている。
もちろん本人からではなく、噂話の収集に余念のない友人のタレコミだ。それを聞いても嫉妬心は湧いてこなかった。だってこの容姿とこの有能さで、まったく経験がないという方がおかしいから。
実際、過去に女性からの誘いを受けてスマートにエスコートする場面に友人は遭遇したことがあるらしい。
手慣れた様子の彼を見て、あれは相当場数を踏んでいるねと彼女は言っていた。
だから今、こんなに動揺してくれるのが私のせいなのだと思うと、嬉しくて仕方なかった。
「理由がそれだけなら遠慮なく連れ込ませていただくわ」
もう一度キスをして、反論を待たずに店の入口のカギを閉めた。
困った顔で立ち尽くすライアンの手を取って笑いかける。
百戦錬磨の男相手に、生娘である私がイニシアチブを取れる瞬間はどうせ今だけだ。
なら今のうちにたっぷりライアンの反応を楽しんでおこう。
「はしたない女だって、嫌いになったかしら」
「……キミを嫌いになる日なんて一生こない」
ライアンは少し悔しそうに言って、強く私を抱きしめた。
* * *
目を閉じたまま何度も触れるだけのキスを繰り返し、指先を絡める。
居住スペースは慣れた空間のはずなのに、ライアンがいるだけで特別な場所になっていた。
「フローレス……」
柔らかい響きで名前を呼ばれて目を開ける。
薄く目元を染めたライアンが、切なげに眉根を寄せて額を合わせた。
「まだ信じられない。キミと恋人同士になれるなんて」
少し不安そうで、私も同じだったから少しでも実感するためにもう一度キスをした。
「私も。夢を見ているみたいだわ。なんだか不思議な感覚……」
絡み合う指に、確かに感触はあるのにどこか現実味がない。
頭がふわふわしていて、あまりの幸福にどこかの感情が麻痺してしまっているのかもしれない。
これが実は本当に夢でしたなんてことになって、今この瞬間に目覚めでもしたら絶望と虚無で生きていけないだろう。
ライアンが私の頬に触れる。
その手があまりに優しすぎて、少しじれったいようなむず痒いような心地になる。
早くこれが現実の出来事だと実感したいのに、慎重な手つきのせいでまるでガラス細工にでもなった気分だ。
「そんなにおっかなびっくり触らなくても壊れないわ」
苦笑しながら言うと、ライアンが困ったような顔をした。
「キミの人格を無視して好き放題した男と同じになりたくない」
その表情は少し不快げで、リカルドのことを言っているのはすぐにわかった。
名前を出すのも嫌なのだろう。
「好き放題もなにも、あの人には指一本触らせてないから」
即座に否定して、宥めるように頬に触れる。
「本当か!?」
ライアンは嬉しそうに顔を輝かせたあとで、「しかし……」とまた困惑顔に戻ってしまった。
「その、こんなことを聞くのは良くないとは思うが……どうやってあの男の魔手を躱したんだ? というかあいつ、フローレスを前にしてよく耐えられたな」
どこかリカルドを称えるような響きさえ感じて思わず噴き出す。
確かにリカルドは我慢が利くような男ではない。
実際私が「結婚までは無理」と散々言っても、隙あらば事に及ぼうとしてきた。
お付き合いを承諾してから最初の一ヵ月は、その攻防のせいで心身ともに疲弊しきっていたものだ。
「ふふふそれがね、私リカルドの母君に毛嫌いされていて。庶民同然のアバズレがうちの可愛い息子を誑かしたって」
思い出して忍び笑いを漏らす。
物凄い剣幕だった。ひどい言われようだった。
まぁそれはそうだ。高位貴族の親なら普通そうなる。大事な跡取り息子が、どこの馬の骨とも知れない女を連れてきたのだから。
それにしてもひどいイビられ方だったけど。
「それで健気で謙虚な娘を装って言ったのよ。『本物の愛を証明するので結婚まで純潔を守ります。お母様もご協力ください』って」
「なるほど……煽ったのだな?」
得心がいったという様相で笑いを堪えるライアンの頬をそっと撫でると、彼は嬉しそうに目を細めた。
「そうしたらデートと言う名の強制連行の度に監視役をつけてくださってね。そういう場所にリカルドが行こうとするたびに止めてくださるようになったの」
おかげで純潔は守られたわ、と言ってからふと思う。
あの時はただリカルドに触られたくなくて拒否したが、今は誰にも触れさせなくて心から良かったと思える。だって誰にも触れられなかったことを、ライアンが喜んでくれるから。
「スターリング公爵夫人に感謝だな」
「ええ、本当に」
異常なほどに厳しくて偏屈な方だったけれど、リカルドの品位が下がるからと礼儀作法や言葉遣いを仕込んでくれた。完全に見栄のためではあったけれど、おかげでこの土地でもそれなりにやっていけてる。
当時はあまりにひどい扱いに辟易していたけれど、いま思えばあの日々は結構私の生きる糧になっている。
「案外悪い日々ではなかったのかも」
「奴との婚約がいい思い出になるのはあまり面白くないな」
ムッとした顔でライアンが言う。
部下や同僚の前では厳しい顔ばかりなのに、私の前では素直にいろんな表情を見せてくれる。
それがどれだけ嬉しいことか、彼には解っているのだろうか。
「ばかね。何をどれだけ差し引いたって全然いい思い出ではないわ。でも、そのおかげであなたと会えた」
宥めるように額にキスをすると、眉間のシワが薄まった。
「こんな幸せなことはないわ」
「……キミに触れられるのは俺だけか」
「ええ。無理やりなんかじゃない。私が望んでいるの」
「しかし、」
「あんまりうだうだ言ってると私があなたを押し倒すわよ」
挑発するように笑って見せると、ライアンが面食らった顔をした。
「……魅力的な提案だが、それでは騎士の名折れだな」
苦笑して私の頬にキスを落とす。
「そうよ騎士様。私をあなたのものにして」
誘うように首筋を撫でると、ライアンの表情が情熱的なものに変わった。
深く口付けられて、頭の芯が痺れていく。
もうこれ以上私が何かを言う必要はなかった。