20.訓練場
王城の一角。
騎士団の訓練場を目指して歩く。
朝からいい天気で、気分はとても良かった。
空気は澄んで、秋の涼しい風が頬に心地よい。
しばらく歩くと視界が開けてきた。
遠くに広い修練場が見えてきて、その奥の方に会いたかった人を見つけて思わず顔がほころぶ。
びっくりさせたくて、何も知らせないで来たからこちらに気付く様子もない。
張り切って作りすぎた焼き菓子が重かったが、それも気にせず軽やかな足取りで走り出す。
「リカルド! 会いたかったわ!」
「ぐああああ頭がぁぁああああ!」
全開の笑みでダッシュすると、百メートルの壁を越えたと思しき辺りでリカルドが地面にうずくまった。
なにこれ超楽しい。
「あらあら大丈夫? 私に会えて叫ぶほど喜ぶなんて」
「うわぁフローレス! なぜこんなところに、うぐぅっ!」
頭を抱えて蒼褪めながら涙目になるリカルドにズンズン近付いていく。
こんなにリカルドに会いたいと思ったことも、会えて嬉しいと思ったことも、今まで一度もなかった。
リカルドも泣くほど喜んでくれている。
なんて幸せな一日の始まりなのだろう。
「ライアンに投げ飛ばされたとき怪我しなかった? してたらとっても嬉しいのだけど」
「うううるさいうるさいうるさい! 近寄るなぁぁああ!」
そう言って会いたかった人は絶叫と共に走り去り、たった数十秒ほどの邂逅で姿が見えなくなってしまった。
とても残念だ。
「フローレス……」
がっかりして肩を落としていると、背後から笑い交じりの声がかかって振り返る。
今日本当に会いたかった人がそこにいて、思わず破顔する。
「ライアン!」
「おはようフローレス。朝から楽しそうで何よりだ」
「ええとっても。おかげさまで爽やかな朝だわ」
「うん。ここ最近で一番の笑顔だな。ちなみに騎士連中も大ウケだ」
言われて周囲を見回すと、笑顔の青年たちが私に向かって褒めたたえるようなジェスチャーをしていた。
ちょっと照れてしまう。
「罰則の効果は絶大だったことが証明されたな。もう二度とリカルドは寄ってこないだろう」
「あなたのおかげよ。本当にありがとう」
「いや、フローレスのためならなんてことはない。ところでフローレス、なんだかすごく甘い匂いがする」
「あ! これ! あなたのために焼いてきたの! 良かったら皆さんと食べて」
蓋つきバスケット一杯の焼き菓子をライアンに渡すと、彼は目を輝かせて礼を言ってくれた。
「いま思いっきり走っちゃったから、もしかしたら形が崩れてるのもあるかも」
「見ていたが足が速いんだな。感心してしまった」
「足に羽が生えたようだったわ。せっかく来たんだからリカルドももうちょっといれば良かったのに」
肩を竦めて嘆息すると、ライアンが眉根を寄せた。
「……俺を見に来てくれたんじゃないのか」
「もちろんそうよ?」
何を当たり前のことを、と思いながら答えると、ちょっと拗ねたような顔をしていたライアンがパッと目元を染めて嬉しそうに笑った。
「リカルドなんてついでよついで。甲冑姿も素敵ねライアン」
「そうか? 威圧感があって女性には少し怖くないか」
「中身があなたなんだもの。頼もしさしかないわ」
「良かった。そう言ってもらえて安心した。差し入れをありがとう。食べるのが楽しみだ。これから訓練が始まるからよかったら見ていってくれ。ただ、二時間通してだから飽きたら適当なところで帰ってくれて構わない」
「わかったわ。ありがとう。見学の人って結構いるのね」
見学者用のベンチには、すでに十人ほどの女性たちが座っている。
それぞれ目的の騎士の名を呼んだり手を振ったり、とても楽しそうだ。
「みな騎士の家族や恋人だな……ちなみにその、フローレスもそうだと思われている」
「えぇ? リカルドの?」
思いっきり顔を顰めて言うと、ライアンが噴き出した。
そのあとで申し訳なさそうな顔になる。
「違う。そうじゃなくて俺の、恋人だと。すまない」
「へっ、あ、そ、そうなの」
「訂正しても取り合ってくれなくてな……迷惑だとは思うが」
「迷惑なんてそんな。こちらこそ余計な誤解を生んでしまってごめんなさい」
「俺は全然構わないが、」
「クリフォード隊長! 時間です! お戻りください!」
「まぁその、打ち合っているだけだから面白くはないかもしれないが、ゆっくりしていってくれ」
遠くから部下の人に呼ばれてライアンが慌ただしく群れの中に戻っていく。
それで私も見学者用のベンチに移動した。
すぐに訓練が開始される。
ライアンと同じく、兜を外した隊長格数人が、その部下に当たる数十人の騎士たちに檄を飛ばしながら指導する。
時には自分たちも対戦相手となりながら、部下たちを鍛え上げていくのだろう。
光る汗。
鋭い視線。
厳しい声。
そのどれもが普段のライアンには見られないもので、心臓がドキドキとうるさかった。
さっきまで甘い菓子に喜んでいた可愛らしさの片鱗はどこにもない。
ライアンはギャップの塊だ。
こんなの、全ての女性が好きになってしまうに決まってる。
そんな心配を胸に、見学者の女性たちをちらりと見ると、皆それぞれのお相手にのみ熱い視線を送っていた。
――なるほど。みんながみんな、自分の好きな人にそう思っているのだな。
そう気づいて恥ずかしくなった。
どうやらライアンに対して盲目になりすぎているらしい。
ライアンがキラキラ輝いて見えるのも、きっと私だけなのだろう。
それにしても恋人と誤解されても気にしないなんて大らかな人だ。
それで調子に乗った私が付き纏ったらどうするつもりだ。
いずれ現れるであろうライアンの運命の女性が、私を恋人だと思って身を引いてしまったらどうするのか。
そうなってくれれば私は嬉しいけど、と黒いことを考えてしまって自己嫌悪に陥る。
ライアンの幸せを願う気持ちは本物なのに、どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。
自分の浅ましさに嫌気が差してくる。
ライアンの雄姿をずっと見ていたかったが、一時間ほどで席を立つ。
恋人でもない女に初めから終わりまで見ていられるのも困るだろうから。
せめて今のうちに自分から身を引く練習をしておかなければ。
自分に言い聞かせるように訓練場を後にする。
一度だけ未練がましく後ろを振り返ってライアンを見た。
ため息が出るほどの勇ましさだ。
やはり私の思い込みだけではない。
あんなに素敵な人なのだ。
彼が運命の人に出会ってしまったら、もう私程度の存在なんて気にも留めないだろう。
ため息をこぼして店までの道を辿る。
帰ったら何をしよう。
定休日だけど店を開こうか。
それで少しでも気が紛れればいいのだけど。
楽しい一日になるはずだったのに、何故こんなに気落ちして帰るはめになっているのか。
恋とは面倒なものだ。
自分の感情をコントロールするのがこんなに大変だとは思わなかった。
店に帰ってもやる気は起きず、結局は二階の自宅に引きこもって不貞寝をする。
目を閉じて浮かぶのは、ライアンのことばかり。
さきほど目にしたばかりの男らしい横顔。
部下への厳しくも温かい指導。
それに何度も目にした笑顔や照れた顔。
ずっと見ていたかったけれど、いつか別の誰かのものになってしまう。
そう思うと、悲しくて胸が潰れそうだった。